原発メーカー訴訟地裁判決に関する集中学習会(澤野先生の解説)

原発メーカー訴訟地裁判決に関する集中学習会(澤野先生の解説)

日時:2016年2月27日 16:00~21:00
場所:大阪南YMCA305号室

<1>請求原因
第1 違法な原発ビジネス契約と原発事故により、被告らは民法及び製造物責任法による損害賠償責任を負う

原告団の主張はある程度憲法論に踏み込んでいるが、その憲法論は不徹底である。不徹底である故に簡単に反論されてしまう。両原告の究極的な請求は同じで、被告原発メーカーに精神的損害賠償を請求する。両原告の結論は同じであるが、そのアプローチが異なる。原告団の主張は、一応原賠法の作られた目的は憲法違反であると主張はしているが、最終的には原賠法の枠組みで損害賠償の請求しているかたちになっている。即ち原賠法の適用違憲ということで、故意とかというのがあった場合、例外的損害賠償ができることと、民法709条(不法行為による損害賠償)やPL法(製造物責任法)の適用の二つを合わせて損害賠償を請求している。
これは原賠法それ自体が違憲であるところに留めないということではなく、これを使おうというアプローチである。これが非常に不徹底ではないかと考える。
原賠法は違憲であるのであるが、その前提として原発そのものが違憲であることを言わない限りは。高橋和之氏(東大、憲法学者)が書いた東芝の意見書の中で、「原告は原賠法が違憲であると主張をしているが、それを言うためには原発そのものが違憲であることを言わないとダメではないか」と言っている。従って憲法論は無視する結論に流れた。

1 原発ビジネス契約の違法・無効

東電とメーカーは原発を製造して運転するという契約になっている。つまり原発ビジネスという契約が前提になって、その契約は公序良俗に違反する契約ではないかということが前提にある。つまり公序良俗違反の契約というのは犯罪行為、例えば、人身売買、男女差別とか憲法の基本的人権を侵害する内容の契約、或いは憲法の基本原理を否定するような契約内容であれば、通常であれば民法では無効な契約となる。それは直接には裁判の請求にはしていない。直接の請求は損害賠償。それを論理つける前提として、違法な契約を前提として福島事故被害をおこした。
従って裁判の中で原発契約は憲法違反ではないかとの確認をさせる。その上で違法行為により発生した被害に対して不法責任を追及するという構成。
原告団は原賠法を使って損害賠償を請求するかたちで主張している。原賠法が基本的人権を侵すので問題がありますと言っている訳である。それはそれなりに成り立つと思うが、前提として原発そのものが憲法違反ではないか。それは東芝の意見書を書いた高橋和之氏は「原告団は原賠法が憲法違反と言っているが、原告が言いたいのは原発自体違憲と言いたいのではないですか」というような反論をしている。いやその通りなんです。結局、原告弁護団の主張は中途半端で原賠法を使った損害賠償請求なのだ。私は原賠法そのものは憲法違反なので内部に立ち入ることなく無視して憲法と民法だけで行くべきであるというのが立論です。原告弁護団の理論構成はややこしく、やや理解し難い。
原発メーカーそのものの責任を追及する法律はないか? 原賠法のレベルで議論してもそこには行きつけない。公序良俗(民法90条)に違反すれば法律行為(契約)は無効になる条文がある。契約とは何かと言えば、原発メーカーと電力会社が、「原発を造る」、「原発を運用する」という契約を結んでいる。これ自体が憲法違反であることを主張するためには、公序良俗違反であることを言わなければならない。それを踏まえて原発事故を起して、いろんな人達に不法行為、即ち被害を与え、直接的には原発事故を起こした責任がある。これは原告団と同じであるが、その前提として東電とメーカーの間で「原発を造り、運用する」ビジネス契約が結ばれていて、本来それ自体が違法であり、無効である。それが公序良俗違反を含んでおり、それが違法行為や不法行為に繋がっていると言う二段構えで主張する。被告は「公序良俗」については全く反論していない。これは反論し難いし、従ってノーコメントになる。
何故公序良俗違反を主張するか。二つのメリットがある。原発ビジネスの契約自体が反社会性があり、法的には無効な契約になる。先ず前提として被告に確認させる。
反社会性の立証は三つ、犯罪該当性がある事実がある、様々な基本的人権を侵害する、憲法九条を侵害する。
原発ビジネス契約は憲法の全ての原則を否定する内容なのでこのような契約は許されません(民法90条)。憲法改正は私が言ったのではなく、東芝の意見書で東大の高橋和之氏が言っていることで、つまり日本国憲法の下で原賠法で損害賠償が認められるには今の憲法を変えた方がいいのではないですかと言っている。被告側が言っている。私はそんな解釈論は全く意味がないと思う。だから安倍さんの言っている憲法論とは何も関係がない。
原発ビジネスの契約が無効である場合、裁判、即ち訴訟論ではこの契約は誰でも無効主張できるメリットがある。何時でも無効が主張できる。誰でも主張できることであれば外国人でも主張できる。原告団の主張では、何故外国人が精神的損害を請求出来るかの論拠がない。

① 原発稼働等の犯罪行為該当性について

契約は自由ですがその契約内容が反社会的な公序良俗に違反する内容を持っている場合には契約は無効になる(民法90条)。無効になる場合について、いくつかの理由が一般的には示されている。例えば反社会的な契約、犯罪に該当するような契約、人身売買契約、憲法の権利を奪うような契約、等の契約は無効になる。原発ビジネスに当てはめると、犯罪行為に該当する。原発を稼働させるのは犯罪性があり、公序良俗に違反する可能性がある。

(あ)国内的には原発事故に対する東京電力経営者の業務上過失致死傷罪

東京電力の幹部が業務上過失致死傷罪で問われるように、原発ビジネスは刑事責任を発生する可能性がある。
公序良俗違反で原発の契約が違反であることになれば、民法の教科書に書いてあるが、何時でも、誰でも起訴出来ます。無効だから精神的損害を被ったとの理論であるが、裁判としては、難しい。刑事的損害は難しいので精神的損害は留保して議論しなければいけない。公序良俗違反の理屈を立てると時効にかからず何時でも、無効はもともと無効なので、何時でも誰でも出来る。民法では取り消しは取り消しを主張して初めて取り消される。ただ具体的に原発のこの裁判で適用出来るかどうかについて教科書に記述はない。裁判官や民法学者は認めていませんが、このような主張が出来るのではというのが私の主張である。民法90条の公序良俗に違反する契約だから法律行為(契約)は無効である。法律行為とは原則契約である。
原発メーカーは原発を造って売るわけです。製造してそれを運転して金儲けするのは東電です。この間に事故が起こった場合には点検しますよとかいう契約を結んでいるはずです。だから東電が運転してるときに問題を起こす危険を検証する。どう言う事故を起こすかはメーカーが一番知っている訳で、東電はあまり知らない訳である。原発の構造自体は。どこに欠陥があるのかは造ったメーカーが一番知っている。一番知っているメーカーに責任を負わせないとはどういう事ですかというのが私の主張。そもそもメーカーと東電が原発を造って運転をするという原発のビジネス契約を結んでいるのです。この契約自体が許されるんですか。企業の社会的責任があるし、法的に言うと、昨日東電幹部が刑事責任を追及されたように犯罪性の可能性があるし、憲法の様々な人権侵害や憲法九条に違反する契約内容である。これらは公序良俗の原因を作る契約であり、無効な契約である。
東電の事故をきっかけにして、これと不法行為を絡ませてはどうかというのが私の主張である。裁判所は、基本的には東電やメーカーの立場で、我々の主張しているのはハードルが高いが、良心的な裁判官が出てきたら、これは有力かもしれない。今の所難しい。
この主張は初めてである。コスタリカの最高裁判所は認めている。

(い)国際的には原発稼働等の国際犯罪(後日、証拠論文を提出)

犯罪該当性について言うと、原発の稼働が国際犯罪性がある。原発と言うのは国際人道法違反、あるいは国際環境を破壊するということで原発の存在や稼働は国際犯罪該当性がある。
外国に原発を売るというビジネスも反社会的な公序良俗違反のビジネスでこれも追及できる。これは原告団の主張では追及できないという欠点がある。
原発を造って売るという前段階が反社会性であって、それが同時に原発事故を契機として違法な被害を与えた。二重の重みをもっている。それから被害者は日本国民、福島県民に限定されず日本全体、そして外国人にも主張できるメリットがある。

② 原発稼働等による多様な人権侵害について
―人格権の一つとしての平穏生活権の侵害―

憲法の前文は「恐怖と欠乏から免れて平和のうちに生存する権利を有する」、平和的生存権といっているが、原発の被害から免れると言う恐怖と欠乏からの自由という権利は、前文で全世界の国民が主張できると書いてある。この憲法前文は、原告のノー・ニュークス権に該当するが、主張出来る原告は民法の無効論から言えば誰でも主張できることと、全世界の人が主張できることを合わせれば、簡単に誰でも原告になれる。

③ 原発稼働等の憲法9条侵害について
(あ)原発は潜在的核保有で憲法9条の禁ずる「戦力」に該当

両原告は人権論としてもノー・ニュークス権しか主張していない。原発が憲法九条に違反の主張がない。原子力はそもそも兵力なのだ。戦争に転用できる可能性があり、戦力にはいるという主張がない。その主張がないから原告の主張は弱い。
原発の存続や稼働が潜在的な核抑止力になっている。従って、憲法九条が禁じているところの戦力に該当し、且つ外国に対する武力による威嚇手段になる。戦力の英文はwar potential、戦争に転用(核武装)する内在的な力を持ったものを戦力といいます。
これまでは自衛隊が憲法の戦力に該当するかどうかの議論しかしてこなかった。これが憲法学の限界で、原発の問題を考慮してこなかった。狭い所の自衛隊が戦力に該当するかどうかの議論しかしてこなかった。ところがよく考えてみると、戦力というものはそんな狭い範囲のものでなく、戦争に転用できるものは全て入る。従って、明らかに原子力はそういうものとして理解しており、憲法違反である。さらに日本の原発政策は、明らかに違憲である日米安保・同盟の一環である。
何故これまで裁判や学説で原発違憲論がそもそも出てこなかったのか。
原告が人権侵害とか九条に違反するとか憲法論を主張したことがある。所が裁判所は憲法論は無視。勿論最高裁も一切無視。結局無視されてきたので、その後憲法論はあまり出さないかたちの、民法でも議論できる人格権侵害とか、環境権を持ち出すと裁判所は受け付けないので、人格権を侵されたという論調です。裁判所も一応人格権侵害は認めるのだけれども、実際の裁判の中では国の原発許可は差し止めする必要がありませんとか言って、判決の中では人権権は否定されてしまう。入口の所では今や人格権というものは訴えとしては認め、一応入れてくれるのであるが中身では、無視されてしまう。原子力側の行為とか国が許可したことは全然問題がありません、比較考慮されて結局人格権侵害はありませんとされる。ただ大飯原発の時はそうではなかったが、そういう歴史がある。
大飯原発の判決は素晴らしいんです。所が一個所、文の中で「原発が憲法に違反するかどうかはともかく」の一文が入っている。これの意味ついて言及したものは一切ないのですが、私の解釈ですが、これは原発の稼働自体は憲法上合憲ですと言っている。樋口判事は一定の条件を持った原発であれば稼働が出来る場合がありますと言っている。高浜原発の3.4号基再稼働差し止仮処分を認めた訳けなんですが、4つの条件を満たせば安全性が認められる場合があると言っている。基準地震動の大幅な引き上げ、耐震工事を徹底的にやるとか、幾つかの条件を整備すれば原発の稼働はOKですと言っている。という事は、完全に原発が憲法違反でないと言うことを示してしまった。「原発の存在自体が容認出来ないと言うのが極論に過ぎずとしても」とも言っている。この意味は、原発は厳しい基準を立てればOKになりますよと言っている点で、これがマイナスに効いてくるだろうと思う。この点について高浜原発の弁護士もちょっと考え直してみますと言っている。あの判決は素晴らしいのですが、憲法論から見ると非常に限界がありまして、これは逆用される恐れがある。
原告団もこの大飯原発の裁判もしているが、私が指摘している問題点は指摘していない。憲法学者が数名引用している。これも一面的な憲法学説で、九条論がない。原告団は数名の憲法学者を引用しているが、私(澤野)の論文は一切引用していない。これが欠点になっている。引用されている憲法学者は私の論文を評価しているが、所が原告団は私の事は書いていない。

(い)原発政策は核兵器の不拡散を謳いながら原発を推進するNPT(核不拡散条約)体制に基くものであり、違憲の疑いが学者によって指摘されている日米安保・同盟の一環

(う)原発稼働は社会的「構造的暴力」、人々の平和的生存権を侵害

原発の稼働は戦争を引き起こすということで、いわゆる「構造的暴力」、ガルクが言っているように「貧困とか劣悪な環境があると戦争が起こる」、原発はそれの一種の社会的「構造的暴力」であり、これは人々の平和的生存権を侵害する。即ち、原発は憲法九条違反、平和主義を侵害する、基本的人権を侵害する。もう一つ言うと地方自治を壊してしまう。地方自治には住民自治と団体自治があるが、福島に行けば分かるが、地方自治体が存在しなくなる。即ち、これは地方民主主義を侵してしまう。憲法の民主主義の原理、国民主権の原理、平和主義、人権、即ち憲法の全てを破壊する要素である。このような原発ビジネス契約はどう考えても許されない反社会的な契約であり、無効である。原発が憲法違反であるという判決を下した国がある。コスタリカである。最高裁判所が原発を容認するような政令は違憲無効であるとした。世界で唯一。この件は原告団も全く紹介していない。日本の憲法九条もコスタリカと同じような憲法です。以上説明したように、公序良俗違反を主張すれば、こういう主張が出来るということである。ところが公序良俗違反は頼りない理屈であるとの印象をうけるかもしれないが、もっともラジカルなものになっている。

2 被告らの民法及び製造物責任法による損害賠償責任

原賠法が憲法違反かどうかというこの論点ですが、原告団の主張は「原賠法責任集中制が憲法違反」。その前提として原発そのものが今言ったように憲法違反であるし、従って原子力関連法全体が憲法違反である以上、原賠法は当然憲法違反である。原子力関連法の根本にあるのは1955年の原子力基本法。「人類の福祉と平和のために民主、集中、公開の三原則の基で原発を稼働しますということで、当時はこれは憲法違反の主張はなかった。一部ありましたが、そのかたちで運用してきたことが、その後スリーマイル、チェリノブイリ、そして福島の大事故、その他細かい事故は一杯起きている。今日的に見るとこの原子力基本法を中心とする法体系は結局は原発推進の趣旨を持っている。しかしこれは憲法違反と見なされるので、今日的にみるともはや違憲立法になっているのだということである。そういう主張が出来るのは法律の世界では立法事実論の主張があって、法律を作った後に、仮に憲法違反とみなされていなかったとしても、その後、それを支える違う事実がいろいろ明らかになってきて、その立法を支える正当な理由がなくなってしまう、そういう場合は新しい段階で裁判所でこの立法はもはや憲法違反になってしまうのではないかという違憲審査が可能になる。その理屈を当てはめるとこの原子力基本法並びにそれを前提としている原賠法は、憲法違反ではないかということになる。立法事実論というのは、最高裁判所でも最近は認めており、例えば、非嫡出子の相続が嫡出子の二分の一である民法は、憲法違反であるとの判決が下りた。国際社会はそれは平等は反するというのが一般的になっており、日本はおかしいのではないかとなってくると、作った当時は、問題にされなかったことも、今日の世論の意志形成からすると法の下の平等からもはや憲法違反であるとして最高裁判所も認める。今や原発については、世論調査をすると多数意見が反原発、そうすると違憲立法とみなすことが出来る。原発を動かすことは全然平和目的でもないし、人類の福祉を実現するものでもないことが明らかになってくる。原賠法の中身に立ち入ることなく、無視して、直接民法の不法行為責任法 PL法を適用すれば良いということになる。
立法事実論につきまして東京大学の高橋和之氏の意見書では、このような立法事実論は認められないといっている。もし日本憲法の下で原発の法的責任を追及するのであれば憲法改正すべきであるといっている。即ち憲法の解釈から原発の責任を追及することは出来ない。そのような解釈はできないのであれば立法に問題がある。即ち解釈によって責任を追及出来るかどうかは、例えば安倍内閣が集団的自衛権の解釈を変更している。これは国家権力の立憲主義の観点でいうと問題がある。所が基本的人権というのは憲法改正でなくても、これはプラスの意味を持っているので、全然問題がない。つまり被害者のために精神的損害を認めるというような人権尊重の場合は従来解釈がなかったからといって出来ないことでもない。基本的人権というのは永久不可侵であるから、プラスにどんどん解釈可能である。高橋和之氏は立法事実論を否定しているのですが、彼のような著名な人が憲法のいろはも分かっていない。
原賠法そのものの独自の構造上の問題については原告団の主張にもあるように明らかである。アメリカ等の責任を免れるために作ったものであるし、立法過程では非公開で、被害が起これば国家予算の2,3倍の損害賠償が発生するとの報告を隠して立法し、もし立法過程が公開されていたならば、はたしてこの立法成立がどうなっていたか疑問がある。そういう問題を持っているで、原賠法を前提として、そこから損害賠償を云々するという主張はあまり意味がない。原告団が主張している代位請求は、東電がメーカーに請求しないから代わりに求訴すると言っているが、東電がメーカー求訴することはあり得ない。それは共犯者だから。そこに期待するとの立論の仕方は、そもそもおかしな立論をしている。
原告団の主張は、原賠法が有効であることを言う為にいろんな事を言っている。ノー・ニュークス権が侵される、平等権侵害、財産権侵害、等々挙げているが、これらは一部はそれで良いが憲法九条に違反するという主張がないとノー・ニュークス権の主張が非常に弱い。
核兵器と原発の係わりが原告団の主張ではしっかり出てこない。即ち原発と核兵器、核抑止力が非常に関係が深いという本質論に踏み込めていないという限界がある。

第2 仮に原賠法が存在していても、原告の主張する精神的損害は原賠法の適用外の損害である
1 精神的損害は原賠法の「原子力損害」の定義には該当しない

原賠法の適用について言及する必要なし。原賠法は精神的損害についても述べていない。原賠法それ自体が憲法違反である主張もできるのであろう。
低線量被爆、汚染水等は直接的ではなく間接的な「不安」、「恐怖」になる。外国からみると直接的ではなくて間接的な「不安」、「恐怖」。直接的には放射線が放出されている問題もある。そこからそれぞれの「不安」や「恐怖」は直接被害を受けていなくても分かる。「不安」とか「恐怖」というような精神的被害として汚染水の問題とか原発テロの危険性などを本人訴訟団の方で初めて主張することになる。
最近の東京地裁の判決や、東電や裁判所も認めているように、生活が成り立たたなくなったので、精神的被害もありますというレベルでは認めている。これはもう結論がでている。我々がそのような主張することは意味がない。問題はそれを超えた精神的被害、「不安」とか「恐怖」、それをどうやって認めさせるのが課題。それでそのような判決があるかと言えば、実は東京地裁で応用できそうなのがある。平成9年4月23日、厚生省が添加物の指定を緩和した事によって健康被害を受けるのではないかで裁判に訴えた事案。「恐怖感とか不安感とはそれが単なる主観的危惧や懸念にとどまらず、近い将来、現実に生命、身体および健康が害される蓋然性が高く、その危険が客観的に予測されることにより健康などに対する不安に脅かされる場合」には、「その不安の気持ちは、もはや社会通念上甘受すべき限度を超えるものというべきであり、人の内心の静穏な感情を害されない利益を侵害されたものとして損害賠償の対象となりうることが相当ある」という要件がある。実際これは当てはまる。被告も原告団もこの判決を全く見ていない。これも発展させれば使えると思う。それから似た判決で熊本県知事が水俣病認定業務停滞を争った「待たせ賃訴訟」。最高栽判決は、「認定申請者としての、早期の処分により水俣病にかかっている疑いの不安定な地位から早期に解放されたいという期待、その期待の背後にある申請者の焦燥、不安の気持ちを抱かされないという利益は、内心の静穏な感情を害されない利益」であり、「その被害の態様、程度いかんによっては、不法行為が成立する余地がある」というものです。これは一部民法学者や不法行為研究者は本に書いている。利用を薦めている人もいる。裁判官が取り上げないと言えば、上訴できる。

2 相当因果関係の絶対化の誤り

因果関係説と言うのは実は戦前からある通説です。だから公害が起きる前に提唱されていた説で、直近というか近くで起きた現実的被害のみに限定して、その責任、行為と結果の因果関係を認めるという非常に狭い範囲の議論、しかも民法でいう債務不履行、最低関係者の間の不法行為という非常に限定された範囲の責任。所が公害が起きてから以降の関係論、契約を結んだ当事者の損害賠償請求、そんな非常に狭い問題ではない。被害当事者以外に何人もの被害を受けている人達の損害をどうやって追及するのですかという時には、この相当因果関係、相当とはある意味で実際の因果関係を狭めるためにつくられた概念で、これが今の学説では相当因果関係はよろしくないということで、より広く事実的因果関係、AがあってBがおこる、という流れです。近くの被害ではなく、間接的な被害、或いは将来起こるかも知れない蓋然性が非常に高いが、被害発生の恐れの可能がある場合の因果関係、予防原則、予防を含めた因果関係、因果関係で責任を認めるべきある説が最近有力である。だから被告側が言っているのは非常に狭い因果関係に留まっている。

3 精神的損害の要因

低線量被爆、数値的な問題を含めいろいろあるのですが、本人訴訟団が言っているのはそれに限定されなくて「不安」や「恐怖」は数値的な問題を超えた問題である。例えば、「原発は絶対安全ですよ」と神話を生んできた、所が違いました。その「恐怖」というか「ショック」というか、そういう問題がある。製造物責任法からいうと、警告しないといけない。危ないですよということを一切言わないで無視した。警告しないという欠陥責任。これは製造物責任法の欠陥責任を問うというかたちから出てくる精神的損害賠償、あるいは汚染水の流出が止まらなく、太平洋にどんどん流れてくる。これは将来どうなるかという「不安感」。それから使用済み核燃料の問題、廃棄物処理ができない。この不安をどうするか。これは国内外の人々が「恐怖」に思う深刻な問題である。それから原発がもう一度過酷事故を起こして被爆するのではないか。原発が存在することが人類や自然に害悪を与えるのではないかという深刻な「不安」。さっき話しがでた原発の存在が潜在的核兵器、攻撃するかもしれないし、或いは攻撃されるかも知れないという「不安」。それから原発から排出される放射能、原発ビジネスで海外輸出した場合、現地で原発被害を与えるのではないかという「不安」。トルコとかでも日本と同じように原賠法がある。日本のメーカーが進出して被害を起こしても責任が問われない。そのような無責任を認めて良いのか。所が、このように「不安」と「恐怖」には様々なレベルがあり、広範なものがある。これは間接被害、将来発生するかも知れない被害をどうやってこれを損害賠償の対象にしていくかが、これが課題である。これまでの伝統的な裁判は、被告側理論を全く認めようとしない。そういう意味では難しい。
原発の契約は基本的人権を侵害するという契約になる。大飯原発の地裁判決には人の生命ないし生存を基礎(憲法13条、25条を根拠)とするあらゆる権利を侵害する、生命、生存、身体、精神、居住・移動、職業・労働、財産、子供の教育等、あらゆる人権を原発は侵害する。この人権侵害の中に本人訴訟団が主張している精神的な「不安」や「恐怖」を内容とする人権侵害が含まれる。東京地裁の判決は財産権の侵害以外、精神的損害を認めるといっている。これは政府あるいは東電の中間報告でも認められている。精神的人格権の一部は認められている。これは決着している。今問題なのはそれ以外の「不安」や「恐怖」である。これがどうなるかが一番の課題である。今の所これは難しい。学説とか下級審の判決の中に例えば、厚生省が添加物指定を緩和して健康被害をもたらすのではないかというもので、規制緩和したことによって将来不安な気持ちを起こさせるというもので、東京地裁の判決は「恐怖感や不安感なるものは、それが単なる主観的危惧や懸念にとどまらず、近い将来、現実に生命、身体及び健康が害される蓋然性が高く、その危険が客観的に予測されることにより健康などに対する不安に脅かされるいう場合には、その不安の気持ちは、もはや社会通念上甘受すべき限度を超えるものというべきであり、人の内心の静穏な感情を害されない利益を侵害されたものとして、損害賠償の対象となるのが相当である」との判断である。多様な人権侵害を起こすもので公序良俗に違反するとの内容である。

1) 原発メーカーの不良品(原子炉)事故によるいわれなき精神的苦痛と失ったものに対する受忍しがたい喪失感
2) 安全神話が嘘であったことが判明したことに対する「不安」と「恐怖」
3) 汚染水の流出がとまらず太平洋に流れ出ている現実に対する「不安」と「恐怖」
4) 低線量放射線による内部被曝の問題に対する「不安」と「恐怖」
5) 使用済み核燃料など放射線廃棄物の問題に対する「不安」と「恐怖」
6) 原発の再度の過酷事故による被曝に対する「不安」と「恐怖」
7) 原発の存在そのものが人類、自然にとって害悪であることについての「不安」と「恐怖」
8) 原発の存在が潜在的核兵器保有として国家の安全保障政策に組み込まれていることについての「不安」と「恐怖」
9) 原発から排出される放射能に対する「不安」と「恐怖」
10) 原発輸出によって海外で原発被害を与えるのではないかという「不安」と「恐怖」

4 精神的損害の賠償請求は民法とPL法による

5.澤野先生の主張
私の主張は、被告の主張とも違うし、原告団の主張とも違う、公序良俗違反とそれをベースにした不法行為責任を問うという論理構造になっている。原子力協定を政府間で締結した後で、インドとかに原発を販売するのですが、その場合は外為法で許可されないとダメであるが、政府は許可する。行政の許可制の問題ですが、このような憲法に違反するようなビジネスを許可するというのは憲法にいう外交権で、外交でそのような事を許可する、或いは原子力協定に基づいてこんなのを認めるというのは憲法九八条に言う所の条約締結権の範囲を超えていて、これは憲法違反であって、許可すべきでないビジネスであるということで、これも公序良俗違反を主張出来る。

以上