第14回学習会

「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第14回

日時:2018年9月15日 14:00~17:00

場所:大阪南YMCA

講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

1.前回の復習

(1)安倍改憲案

自衛権という概念をめぐる問題が現実的に議論されている。安倍改憲は、自衛隊を明記するだけの改憲ですよという趣旨で、直接自衛権を明記するという改憲案を出している訳ではありません。本来の自民党の改憲草案(2002年)では自衛権を明記し国防軍を保有するとなっている。その形の改憲案を国民に提案すると、国民は拒否反応が強いことは分っている。あからさまですから、そのまま提案したら永久に自民党は改憲は実現しないということで、昨年安倍首相の見解として、とりあえず自衛隊違憲論を封じ込めるためには、自衛隊を9条に書き込めば自衛隊は合憲になりますから、憲法学者が言っているような自衛隊違憲論を封じ込めるということです。これまでの自衛隊と変わらない形で国民に説明し、専守防衛的な自衛権である個別的自衛権にすれば圧倒的な多数の国民も支持しやすいだろうということで、とりあえずはこれでいこうということです。これは日本会議の識者が安倍首相に入れ知恵をして、昨年あたりから安倍改憲はそういう提案をしている。今回の秋の臨時国会で改憲発議をしようという動きになっている。

他方、野党の方は安倍改憲案の対案として、自衛隊明記よりも自衛権を明記したらどうかというものがでてきています。共産党や社民党は改憲する必要はない、専守防衛的な自衛権は認めている前提に立っていて、但し明文化する必要はないとの立場である。民主党から分裂した3党は、自衛権を明記した方がよいという立場である。安倍政権は、解釈改憲で集団的自衛権を認めたり、解釈改憲でなんでもできるという憲法運営をするので、立憲民主党としては、憲法で何ができて何ができないかを憲法ではっきりと明記するのが立憲主義で、当面集団的自衛権ができないように、個別的自衛限定にした自衛権というものを明記すれば歯止めになるのではということです。自衛権という概念を強調した形での対案としての改憲で、自衛権を明記したらという議論が結構強く出てきている。そして中堅の憲法学者も事実上それを正当化するような議論が目に付くようになってきている。自衛権を認めるには2つのタイプがあって、明文改憲で個別的自衛権を認めるべきであるという立憲民主党のようなもの、共産党などは改憲する必要はないけれど解釈上は今の9条の下で個別的自衛権は認められているので、明文改憲は必要ないとするものです。いずれにしても9条の下で専守防衛とか自衛権などは認められているのであるだというのが、かなり顕著になってきて、ある種国民の多数の感情に応えるような形になって、より国民の中の専守防衛論を定着させてしまうという動きになっている。本来持っていた9条の平和主義の理念を、政党人も国民も否定してしまうと言う危険な動きになっている。

(2)憲法9条と自衛権論

澤野先生の立場は、憲法学会でも少数説ですが、有力なものです。自衛権そのものは9条の下では否定されているという自衛権否定論に立っている。自衛権というものは漠然と国家は自国を守る権利があるというように捉えるとすると、そのようなことは言っていない。自衛権は国際法上の定義があり、漠然と国家を守るべきだという意味ではない。それは自衛権ではない。自衛権というのは国連憲章51条に「加盟各国は個別的又は集団的自衛権を有している」と書いています。個別的自衛権は単独で防衛するという意味ですが、実際にはそのように運用されていなのですが、単純化して言えばそのようになる。集団的自衛権の場合は他国と共同、軍事同盟で防衛するものです。

国際法の自衛権の定義は「他国から武力攻撃、侵略を受けた場合にその防衛の緊急性がある場合、反撃の均衡性を条件、過剰防衛はダメで、比例原則があって対等な形の反撃を条件に、実力行使してもよろしい」です。これが自衛権行使の3要件です。ここでの実力行使は通常は武力行使を意味しています。反撃を加えて相手をやっつけても違法とは見做されない。これが国内刑法でいう正当防衛権にあたります。正当防衛権にあたるものを国家に類推していることになる。もし武力を持っていなかったらどうなるかということになる。武力で反撃できない状況、9条のような場合は武力で自衛権が行使できない訳ですから、この自衛権の定義が当てはまらないことになる。9条の場合は自衛権はないのですが、それでは無政府主義者のようで国家を認めないのではないかというイメージになるのが、一般国民の素朴な感情だと思います。国際法でいう自衛権はありませんと、武力で守らないような国家は、国家でないという発想は、武士が刀を持っていなければ人間ではないということと同じである。武力によらない形で国家を自衛する方法は、いろいろあり、国民も非暴力抵抗とか不服従抵抗という形でやる方法もある。それは国家の自衛権ではなく、人民の自衛権はある訳です。警察力レベルの抵抗だとか、いろいろありうる訳です。しかし、これらは武力による自衛権とは異なる。国連憲章が各国に個別的自衛権並びに集団的自衛権があるという権利は認めているけれども、それを各国が国内法の憲法でどのようにして行使するか、あるいはその憲法そのものを使わないというか放棄してしまうということが、独立した主権国家としては自由裁量として可能であるということです。

所が多数派の戦後の護憲派の憲法学者が考えた自衛権論は、国家である以上自衛権自体がないというのは、どうも違和感があるという、伝統的な発想です。自衛権があるけれど武力がない訳ですから、「武力によらない自衛権」という概念でいこうかということに憲法学者たちの多数はなった。

「武力によらない自衛権」の内容は、初めて自衛隊を違憲とした長沼ミサイル基地訴訟の第一審判決(札幌地裁1973年9月)の中で、学説の多数説を依拠して示されている。5つの内容を示しており、①事前の平和外交、②警察力、③群民蜂起、④侵略国国民の財産没収・追放、⑤国連警察行動への依存、などの手段が考えられると述べた。これは通説であったので、護憲派としてはあまり違和感がなかった。所がよくよく考えてみると、この中身は国家の自衛権と称していいのかと少数派は疑問視してきた訳です。

平和外交権は、国家である以上、憲法上やらねばならないが、これは武力によらない自衛権と呼ぶ必要性があるのかどうか。警察力の場合は、警察官は権利行使できますが、侵略軍に対抗する権限は警察法上ありませんし、警察力も武力行使すれば交戦権行使になり、その限りで憲法違反になる。群民蜂起とは、人民が自ら戦うという方法ですが、これは国家の「自衛権」とは関係なく、人民の抵抗権で、性格が違う。侵略国国民を追放するというのは、戦争であっても国際人道法上問題がある。国連に守ってもらうというは、国家の「自衛権」とは別の集団的安全保障という概念です。「武力によらない自衛権」という自衛権という概念自体が矛盾ではないだろうか。通常、国際法上は自衛権というのは武力によって自衛するという定義ですから、武力がないということは、それを自衛権と称する必要がない訳ですから、武力がないので自衛権はないことになりますが、それは国家がなくなるという事ではない。ここで述べられた内容は、「国家の自衛権」とは違い、わざわざ「武力によらない自衛権」という概念を立てる必要性がそもそもないのではないか。

「武力によらない自衛権」という概念を憲法学者が使いだしていますが、もともとどこから来たかと探っていくと、実は吉田茂ら政府が考えだしたもので、1950年頃です。憲法をつくる議会の時は、共産党の議員の人に対して、「自衛権はあるのでは」と言われて、「自衛権があるとかないとかいう議論をしていると戦争を誘発するおそれがあって、あまり好ましくない」と答えている時期があって、どちらかといえば自衛権にこだわらない方がいいのではという時代が、朝鮮戦争あたり、1950年ぐらいまではあった訳です。マッカーサーも日本は東洋のスイスたれといって、永世中立になったらどうですかと言っていた。しかし朝鮮戦争あたりから自衛が必要ではないかと言う方向にイメージが変わっていった。これはアメリカが戦略変更した訳です。1950年に吉田茂とマッカーサーは、自衛権そのものはあることをはっきりと言いだす訳です。けれども当時は占領下で日本の自衛隊もないし軍隊もない状態でした。あからさまに再軍備をすると、占領国がまだ監視していたので、アメリカ単独ではできなく、それならば「武力によらない自衛権」でいこうかということを言いまして、それは警察予備隊で、これは「武力によらない自衛権」ですとか、1952年に警察予備隊を改組した保安隊も「武力によらない自衛権」だと。所が1954年に自衛隊ができると、この概念が消えてしまいます。「武力による自衛権」に政府が変わってしまった。そこから学者たちは「武力によらない自衛権」の方を逆手にとって「武力による自衛権」を批判するように変わってきた。

「武力によらない自衛権」というのは、政府レベルでは4年ぐらいしか使われていない。けれどもこの「武力によらない自衛権」は4万5千人の警察予備隊を正当化していましたし、保安隊も正当化していましたので、本当の「武力によらない自衛権」論ではそもそもなかったのです。

もう一つ隠された意味は、実は「武力によらない集団的自衛権」を認めようとしていました。日本は1951年に日米安保条約を締結しますが、まだ自衛隊がないので片務的な条約になり、日本は軍事基地のみを貸しますということになり、日本は軍隊はないけれど「武力によらない集団的自衛権」、いわゆる米軍に後方支援するという形ですが、国際法上は基地提供という後方支援は集団的自衛権に該当する。戦争状態になると基地提供は共同防衛になるので集団的自衛権になります。だけれども軍隊がないので自衛隊ができるまでは、実は「武力によらない自衛権」だった訳です。

「武力によらない自衛権」概念は、かなり内実を持っていたので、9条にとってはもともと相応しくなかったのではということで澤野先生は疑い検討してきた。「武力によらない自衛権」も「武力による自衛権」も、その自衛権という概念は9条の下ではいずれも要らない概念であるという結論に到達した。

政府は「個別的自衛権」で自衛隊を正当化するという形でずぅーと来たわけです。「個別的自衛権」の従来の内閣法制局の見解では、「自国を防衛するために必要な最小限の自衛力」という言い方をしていました。即ち9条でははっきりと「陸海軍その他の戦力」と言っていますので、戦力は持てない。それでは自衛隊をどのように正当化できるかというと、「戦力でない所の自衛力である」だと説明してきた。その自衛する力はどこからくるかというと、それは自衛権がある以上と言う。つまり国家の自衛権がある以上は、それを支える実力である自衛力があるはずである、それは戦力ではありませんと。これを「必要最小限の自衛力」というのが基準ですと。その「必要最小限の自衛力」はどのようにして基準が決まるのですかというと、その絶対的な基準はなくて軍事技術の発展と共に変わる相対的なものですという経緯なのです。これでは言葉で定義しただけで全く意味がない。時々の軍事技術の発展によって高まっていくというのですから、核兵器で戦争ができる時代の「必要最小限の自衛力」は必要最小限の核兵器を保有することですということになった。2年前には安倍政権は持っているだけではおかしいので、使えるのだとはっきりと解釈変更をしました。だから今や「個別的自衛権」があるということが核兵器を使用することができるというもの根拠になり、さらに先制自衛も含みますと。つまり核兵器は自国に到達した時に反撃を加えても間に合わないので、先に打ち込まないとダメですよと、これは先制自衛と言いますが、先制自衛権も可能であると、あるいは敵基地を攻撃することもできるという事で、安倍政権は迎撃ミサイルも導入することも検討しています。こうなったら「自衛権」とは一体何のかということになる、融通無碍の「自衛権」なのです。

2.「非武装中立と平和保障」―憲法9条の国際化に向けてー

第3章 憲法9条と自衛権論

Ⅰ 個別的自衛権論

1 国際法上の「個別的自衛権」概念

2 憲法9条と「個別的自衛権」論

(1)「武力によらない自衛権」説の問題点

(2)政府の「武力によらない自衛権」説の由来と問題点

(3)「平和保障基本法」論者の「個別的自衛権」論の問題点
1990年前後の辺りの議論の中で、でていたものをここで検討している。冷戦が崩壊したあたりの状況での護憲派の見解です。「自衛権」という概念は放棄できないのだという前提の人たちが、「自衛権」は認められのではとこだわる広い意味の護憲派の中に結構いる。岩波書店の雑誌「世界」を拠点に活躍していたグループ、軍事評論家の前田哲男さんとか政治学者の山口二郎さん、この人たちは「自衛権」肯定論者で、一定の防御的防衛論、いわゆる専守防衛論で、「自衛権」を正当化する理論を主張しています。その正当化のために憲法の改正までは言わないけれど、法律レベルで定めてはどうかということで、「平和保障基本法」という形で定めてはという対案を出していました。雑誌「世界」の論調は今でも変わっていなと思います。護憲派ですが良く注意してみると危うい論者を結構登場させています。従ってほとんど永世中立論者は載せない方針です。

新しい9条をつくるという小林節さん、今井一さん、伊勢崎賢治さんとか、朝日新聞とか東京新聞とかいわゆる護憲派と言われる新聞社などは、護憲的改憲論、新しい9条をつくろうという事で専守防衛の自衛権を明記する改憲をここ数年結構提案している。その考えのベースになるものがこの辺りででてきていた。

Ⅱ 集団的自衛権論
 1 国際法上の「集団的自衛権」を概念
戦後の国連憲章で認められている「集団的自衛権」はありますが、そのような「集団的自衛権」は国連憲章ができてからという事で、ある種新しい概念です。外国と軍事同盟を締結するという形式は国連憲章ができる前からありましたが、集団的な防衛を結ぶというのを「自衛権」という概念で説明するという事はなかったが、それを説明しようとするとなかなか難しい。「集団的自衛権」という概念が使われだしたのは1945年の国連憲章からであり新しいものです。「集団的自衛権」は一体どのようにして機能しているかというと、軍事同盟を締結すると いう事になる。これまで軍事同盟を締結し合っていると一応バランスオブパワー、勢力均衡という形で戦前はず―っと来ていた。日英同盟とか三国軍事同盟といろいろありましたが、バランスが崩れると戦争に突入したという事で、それを止めようとしたのが本来の国連の理念です。「集団的自衛権」ではなくて「集団的安全保障」という言い方です。敵対国であっても国連という平和機構に入って侵略しないように監視し合うというものとして「集団的自衛権」は認めるけれど国連という中で歯止めをかけるという形にしたんです。しかし実際は国連軍はつくれないし、各国が国連軍に取られてしまっては指揮権がないので、アメリカは絶対国連軍を作る事に反対します。多国籍軍という形で「集団的自衛権」の親分として国連の本来持っている「集団的安全保障」と全く違う異質の「集団的自衛権」というものを帝国主義国が、アメリカを中心として非常に活用しているのが実態で、乱用している訳です。仮に軍事同盟を結んでいても戦争をしないとしても、その軍事同盟を締結していること自体が、大国が中小国を結局、政治的、軍事的に支配するという機能を果たしているのです。

アメリカと日本の関係は「日米集団的自衛権体制」ですけれども、明らかに日本は従属国になっているのです。日米安保条約という集団的自衛権体制に入っているので日本には主権がない。裁判権もないし、警察権もなし、主権がないのです。日本の領土を支配されている。どこの国でも集団的自衛権体制に入っていれば主権がなくなる。世界中にこれが見られるという事で、その面もちゃんと見ておかないといけない。

「非同盟中立国」と言われるの国は、「非同盟諸国」とも、「非同盟中立国」ともいいますが、1960年代以降、植民地から独立しようとか、民族自決権とか、そのようなプラスのスローガンを掲げてきた国々、発展途上国を中心に、当時ですとインドとか一定の社会主義国と独立を求める植民地国とかが集まった非同盟諸国会議がつくられて、一定の成果を上げてきました。国連の3分の2ぐらいの数がいて会議をもうけてきた。その中心にはユーゴのチトーとかインドのネールとかがいましたが、それらは「非同盟中立国」と言っていました。所がこの中立国は冷戦時の米ソから等距離を置くという意味の中立であって、「非同盟諸国間」では「集団的自衛権」を行使し合うことができる。つまり軍事同盟は認める。「非同盟諸国」というのは「集団的自衛権」というものについて、かなり肯定的に考えている。実際軍隊を持っているし、「非同盟諸国」と言いながら戦争をお互いにやってきている。インド・パキスタン戦争、イラン・イラク戦争、あるいはキューバのアンゴラ派兵など、非同盟諸国というのは民族独立とか核兵器の廃絶とかプラスの面は評価できますが、一方で9条からみると問題のある要素を孕んでいます。「集団的自衛権」というのを「非同盟諸国」は肯定していることを認識する必要がある。

これに対して澤野先生は、「非同盟中立」というのは「集団的自衛権」を認める概念で、それは憲法9条では認められない。「集団的自衛権」と全く相反する概念は「永世中立」で、一切の軍事同盟の締結を国際法上認めない。日本の護憲派、左翼陣営もずーっと「非同盟中立」、「非同盟」ということを政党の方針として戦後掲げてきましが、「永世中立」ということは方針として言わない。「非同盟」という言い方に留めている。特に共産党の場合、自衛の中立で、その中立は「永世中立」というよりは「非同盟」だと言い方を結構していた。それは少し理論的にはおかしいのではと考えています。澤野先生のスローガンは「非武装永世中立」、9条を前提にする限りは一切の「集団的自衛権」も認めないものだとすれば、「非同盟中立」ではなくて「非武装永世中立」ではなかろうかということです。

2 憲法9条と「集団的自衛権」論

安倍内閣までの従来の内閣あるいは内閣法制局が主張してきた9条の下での自衛権というのは専守防衛で、個別的自衛権に限定されるもので、それを超える集団的自衛権の行使はできません、憲法違反ですということでした。ですがその当時から改憲派の理論家たち、学説的には全くの少数派でしたが、9条の下でも個別的自衛権のみならず集団的自衛権の行使も当然できるのである解釈論を展開していた。

しかし澤野先生はそのような解釈はおかしいということで個別的に反論を加えた。

自衛権というのを認めると「個別的自衛権」であろうが「集団的自衛権」であろうが、一般的に国際法的にいえば両方が認められるのです。国連憲章51条が認めているのです。所が必ず両方認められるのかというと、必ずしももそうではなくて、それは各国の憲法がどうするかです。例えばスイスとかオーストリアのような「永世中立国」の場合は「個別的自衛権」は武装中立ですから認めている訳ですが、「永世中立」の場合は「集団的自衛権」は否定しています。だから「個別的自衛権」を認めれば両方必ず行使できるのだというのが当然であるという理論があるのですが、そうではないです。「個別的自衛権」だけを認めても「永世中立」という形で宣言をするとか許可をとれば、それは否定できるです。日本の学者たちはここの所をはっきりさせていない。だから護憲派の人たちは、「個別的自衛権」を憲法に書き込めば「集団的自衛権」は排除できるので、安倍改憲を反対するには「集団的自衛権」の所を否定すれば安保法制を否定できる。「個別的自衛権」を書けば「集団的自衛権」の方は排除できるという改憲をしようと言っているのです。けれども今の9条の下で「永世中立」をはっきり打ち出せば、「個別的自衛権」を書き込まなくても9条のもとでは、「集団的自衛権」は排除できるので改憲する必要はない。しかしなかなかこのような議論に行かない状況にある。

Ⅲ 自衛権否定論による平和・安全保障の課題
これまでの国内外の自衛権の取り扱いについて議論している。本来の9条からみれば自衛権の問題をどう考えるかについて澤野先生の見解です。

旧社会党が1993年に非武装中立を捨てて自衛権を容認し、日米安保条約を容認する方向にいきました。この流れが民主党系にいってこの時の論議が現在に繋がっている。村山政権になる前に社会党の内部でこのような動きがあり、政権を取ったらはっきりと認めてしまい、社会党がなくなることになった。同じように立憲民主党も今の改憲論では消滅すると思います。

3.質疑応答

・コメント:ある討論会で今井一さんが、第二次世界大戦の時にナチスドイツがチェコに侵攻したが、もし自衛権がないとするとあのような事になるよと指摘し、聞いていた参加者も納得し、やはり自衛権がある程度必要だという雰囲気を醸し出した。考えてみると、もしチェコが全面的に抵抗したらもっと悲惨な目にあったでしょう。そう考えるとどちらが本当に正しいのかと疑問である。今井一さんの発言は正しい事を言っているようですが、もし武力抵抗したら結果目も当てられないことになっていたであろう。自衛権をやたら振りかざすことはどうかなと思います。しかし、今井一さんの論議には一般の市民の多くは共鳴している。

・コメント:現在の憲法の下でも、個別的自衛権を認め自衛隊も認め、さらに解釈改憲で制限付きであるが集団的自衛権も認めるような状態であるのに、9条の3項に自衛隊を明記するればなんでもできるフルスペックの軍隊になってしまう。

Q:コスタリカは軍隊を持つことは決して否定はしていないですね。

A:憲法上では否定していない。憲法の規定から言うと9条ほど徹底していなくて、常備軍は保持しないという言い方で、常備軍の代替としては警察力で対応するということで、第3項でいざという場合は再軍備は可能であると書いてある。憲法上は自衛権は持っているが、現実の対応では軍事力での自衛はしませんということで、戦車もミサイルも放棄している。実態として武力による自衛の手段を放棄している。

コスタリカの軍隊を廃止した経緯は、日本のように占領されて非武装化されたのではなく、国内的要因の方が強くて、軍隊を国家権力が持っていると内乱になるおそれがあり、市民を虐殺する可能性が高いというので、内乱による混乱を避けるためには軍隊を持たない方が良いというのが理由なんです。だからアメリカの介入を受けないのです、傀儡政権ができないのです。中東の紛争は全てそれで内戦が起きて、そこに武器が売り込まれ、アメリカなどの軍隊が介入して混乱する。コスタリカはそれを回避しているのです。つまり国内に武器があって国家権力があると内戦が起きた場合には大変なことになるので、軍隊を持たないのだというのが背景としてある。

ノーベル平和賞を貰ったアリアス大統領は、1987年に受賞演説をしまして「私の国は、兵器のない国、子供達は一度も戦闘機、戦車を見たことのない国です。私の国は教育者の国です。ですから平和の国です。対話を信じ合意を見出すことを信じます。暴力は一切拒否します」、「あるコスタリカ人たちは軍隊をつくらなくてはならないのではないかという恐怖にとらえられたのです。なんという意味のない弱さでしょうか」と述べている。また、「兵士の数だけ教師をつくるべきだ」という言い方をしているし、軍事に関するものは全て非軍事の所に費用を全て転換すべきであるということを言っています。兵役解除、兵器の廃棄、兵器売買、軍事援助の削減のほか、暴力の文化を平和の文化に変換する、防衛目的の資源は全て人間開発の事業にふり向けなければならない。削減した軍事費を平和目的に配当する地球規模の非軍事化基金の創設をすべきである。アリアス大統領は、平和賞を貰って数年は国際社会でこのような演説をしていた。

外国の軍隊が攻めてくるのではないかという恐怖にかられる必要はないのだという考え方が定着している。日本は逆に侵略されるのではないかという自民党政権の下で教育してきたので国民がそのように思い込んでしまったのです。敗戦を経験した人はそのような事は思わないのですが、逆に経験のない人は、そんなものかと観念的、抽象的にそのように思ってしまう。支配者によってそのような観念をつくられてきた。

Q:占領された場合、非占領国民はどうなるのか?

A:占領した場合は、その国の法令を遵守すべきであると国際法ではなっている。日本は占領されたから民主主義になったのである。もし徹底抗戦していたらどうなったか分からない。

・コメント:日本人が主権者教育、国民主権という意識があまりにもなさ過ぎると思う。何故自分のことは自分で決めないのか、周りに言われるまま。それから国家の主権というのもアメリカの言いなり、全然独立できていない。北方4島返還の話がありましたが、それでは沖縄は日本の憲法で本当に守られているのか言えば全く守られていない。5兆数千億円の予算が軍事に使われているが、教育費を削って軍事費に回して今日まできている。アメリカに言われるままに武器を購入し軍備を増強し、7千億円もの思いやり予算を支出している。思いやりがあるのであれば、日本国民の貧困問題の解決に使うべきである。主権者はもっと声を上げるべきである。子供の貧困の問題でも当事者あるいは関係者がもっと声を上げるべきであると思います。最近若者は権利ばかり主張すると批判する人がいるが、基本的人権という世界人権宣言でいう人権から考えるならともかく、ただの我儘だと勝手に思い込んで批判している。我儘も基本的人権を主張することも一緒くたにして判断している。但し基本的人権は平和でないと守られない、有事法制ではそうなっており、所有権もなくなる。基本的人権の一番の主権は何かといえば平和に生きる権利です。それを我慢せよというのは本末転倒である。不安にさせる事によって、いざ戦争を起こしても、戦争を起こした人間は絶対戦争には行かない。

・コメント:自衛権を放棄するという考え方はどうでしょうか。攻めくるならどうぞ攻めて下さいと。攻められても国民がじっとしておれば戦争はない。自衛権そのものを放棄するのです。しかし日本人の多数は許さないと思いますが、一人も死なない訳です。但し植民地になってしまう。それを許せるかどうかです。もっとも現状はアメリカの植民地で、それを許している訳ですから、北朝鮮が来ても中国が攻めてきてもギブアップしたらいいんです。

今の国際法では植民地は禁止されているのですが、世界がそれを許すかどうかです。日本が許さないという国にならなくてはいけない。世界がそのような事をしたら「いかん」という状況をつくらなくてはいけない。

Q:経済制裁は戦争行為に入りますか。

A:国連憲章上では軍事的措置と非軍事的措置の2つの言葉があって非軍事的措置にはそれは入りますが、現実には人権侵害的な要素もあってはっきりと関係ないとは言えないと思った方がよい。戦争前の前段階における経済制裁は、戦争行為の一環と思いますが、国連憲章で言っているのは別概念です。

Q:「永世中立」と「中立主義」の違いは

A:「中立主義」というのは、勿論「永世中立」も含まれますが、国際法上の概念ではあります。「中立主義」とは、例えばスウェーデンとか北欧が、その「中立」の政策を実行しますよという国是としての方針です。「中立」で行きますよという主義です。「永世中立」といのは国際法上のある種の手続きが必要で、国際会議を開いて、スイスは1815年ナポレオンが失脚した時に、ヨーロッパが「永世中立」としてスイスを承認しますと国際会議を開いてスイスを保障しますと決めた。オーストリア場合はナチスドイツと統合していたので、敗戦後4ヵ国占領された後、独立するのですが、その時にどこの国とも同盟を結びませんと各国に「永世中立国」になるので承認してくださいという手続きを取りました。これは黙認でもいいしはっきり明示で承認しますよでもよく、一種の条約になります。そうなると各国は承認しなければならない訳だし、義務を負っている。コスタリカもほぼその方針です。コスタリカも1983年に一方的に外交を結んでいる国に「中立宣言」をします。承認する国、黙認する国の一応承認した事になるので、異論がない以上は国際法上は無視することはできません。所がスウェーデンは「中立主義」を取ってます、「非同盟諸国」は「中立主義」を取っていますという場合は、政治的な方針として「中立主義」で行きますよと言うだけだから、明日止めますといえば止められます。所が「永世中立国」は法的に拘束され一種の契約ですから勝手に止められない。

以上

                          (2018年9月26日 井上浩氏記載)