第6回平和学習会

「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第6回

日時:2017年8月26日 14:00~17:00
場所:大阪南YMCA
講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

1.朝日新聞の社説、余滴
朝日新聞が、7月23日に「憲法70年 『原発と人権』問い直す」の題で社説を書いた。社説は無署名で名前はでませんが、論説委員の加戸靖史氏が書いた。彼は、8月18日に「余滴」で個人の思いを書いています。社説は新聞社の方針がありますので、あまり立ち入った本音の事は書けない。社の全体の会議にかかりますので。
社説を書く前に、加戸さんは、澤野先生の「脱原発と平和の憲法理論」を良く読み込んで、澤野先生の意見を聞きたいとのことで、大学に訪ねてきた。この社説は、先生の本や論文を基にして書かれている。余滴の方は、この社説を書くに当たって社内であった会議の内部事情を書いています。
加戸さんの問題意識は、戦後、原発の問題については憲法的な観点からの考察がほとんどなかったのは何故なのかということです。それは社説にあるように福島原発事故以降、ひょっとしたらこれは大変な憲法問題ではないかというように本人が考えた。そこでいろいろ調べて見ると、そのような研究がない事が分かり、たまたま澤野先生の纏まった形の本があったということで、直接会いにこられた。
社説にはこの勉強会で学んだことがでてきます。社説は原発事故の20km圏に入る南相馬市の小高区に行き、避難した人達にインタビューをした所から始まって、その中の一人が、原発は生存権や基本的人権とか憲法の本質に関わるのではないかと言い、そして南相馬市は昨年5月に憲法全文の小冊子を全世帯に配った。原発による人権侵害は憲法に立ち戻って考えて欲しいとの桜井市長の思いがあった。小高出身の憲法学者、鈴木安蔵を含む7名の識者が憲法草案を書いて、マッカーサー憲法草案に影響を与えました。この草案では生存権の原案が明記されていると紹介されている。そのあとの、憲法の居住、職業の選択の自由、財産権の侵害、教育を受ける権利への言及は、ほとんど澤野先生の主張です。直接先生の名前がでてくるのは5段目の所で、「原発は当然のように合憲視され、学界でもほとんど論議されたことがない」として紹介されている。1955年の原子力基本法が制定され平和利用ということで、原発が憲法に違反するとかの議論はほとんどなかった。澤野先生がここを体系的に検討したということで、加戸さんが意見を求めてきた。
余滴の方は、加戸さんが社説を書く時に社内でどのような議論があったのかに触れています。朝日新聞の社内では、原発について憲法的な観点から批判するというのは、ちょっと問題があるのではないかという意見が出たという事が書かれています。加戸さんとしては、原発は人権侵害になる、あるいは憲法の三大原則に抵触するのではないかと思っているけれども、社内では、「原発は電気という大きな便益をもたらす。公共の福祉に合致する。」とのことで、原発が憲法に抵触するという主張はおかしいのではという議論がでた。従って、同僚から、「核兵器と原発を同一視するのはどうか」とたしなめられる。最後の方で、加戸さんが法学部の学生だった時に「個人の尊重」が重要だと習っていて、三大原則に原発は抵触するのではないか、勿論核兵器はそうですが、原発もそうではなかろうかと思っている、と書かれている。
澤野先生の主張はもっとストレートで、原発はそもそも憲法違反だと明確にしている。そのような主張を加戸さんは書きたいと思っていたらしいけれど、それはちょっと書けませんでしたという話です。一番最後の所で、核兵器はもちろん、原発も、「個人の尊重」に矛盾する存在であると言っていますが、9条にはほとんど触れていない。加戸さんは人権論の側面だけで論じていますが、重要な指摘です。

2.核兵器禁止条約ついては
今年の7月7日に核兵器禁止条約が初めて採択され、核兵器の製造、保有、使用は国際法違反であることになった。この核兵器禁止条約は原発の禁止にはノータッチで、NPTでは原子力の平和利用を前提にしていることもあって、この核兵器禁止条約では原発にまでは踏み込んでいません。そこに限界があります。この条約と共に、原発禁止国際条約というものもつくるべきであると澤野先生は著書の中で述べています。先生はそういう所まで考えています。

3.「脱原発と平和の憲法理論」
 第2章 原発に関する生命人格権論の意義と検討課題
        - 大飯原発・福井地裁判決に関連して -
Ⅰ はじめに
第2章のテーマは大飯原発・福井地裁の判決で、原発を最初に差止めた判決で注目されたものです。この判決は、人権論として書かれていますが、憲法論としてかなり注目できる内容が含まれている。その内容を考察したものである。
最近は原発の再稼働を認める判決が多く出てきている感じですが、この判決はそれらと違うもので、一応分析しておく必要があるのではないかということです。
判決自体は、生命権的人格という言い方はしていないのですが、私なりにこのようなキーワードで特徴付けられるのではないかと思います。生命権的人格の権利的性格について判決が述べているのは、「生存を基礎とする人格権」。人格権という言葉は普通のツールでよく使います。特に名誉棄損、プライバシーの権利などを説明するのに人格権が使われます。この判決は、原発問題に人格権を持ち出してきているのが特徴で、人格権の前提として生存を基礎するという人格権という表現を使っています。これが、公法や私法を問わず、全ての法分野の最高の価値がある権利だと言っている。公法とは憲法とか行政法、私法は民法ですが、それらに共通する権利であると考えることができる。憲法上の根拠としは、個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができ、憲法の13条と25条を挙げている。25条は有名な健康で文化的な最低限度の生活を営む権利で生存権、13条は、生命、自由、幸福追求の権利です。人格権というのは、13条で説明することが多かったのですが、この判決では、プラス25条も注目していることが非常に興味深い。
人格権が認められれば、人格権を侵害するいろんな公害とかを差止めたり、損害賠償を請求できるというのが一般的に認められている人格権です。これを原発についても応用しようというのが、この裁判官の意図であると言える。この裁判官は樋口英明さんですが、樋口さんはこの判決を書いた後、名古屋の家裁に左遷され、その後釜に最高裁の事務局お墨付きの林潤裁判官を送り込んできて、全く逆の判決をだした。

 Ⅱ 原発と生命権的人格論 - 大飯原発・福井地裁は判決の意義
  1 生命権的人格権の権利的性格
福井地裁の人格権の定義は、似たものが既に前にあり、有名なものが大阪国際空港の騒音公害を差止める裁判です。高裁で、昭和50年ですが、これが一番最初に人格権侵害による飛行機の離着陸の騒音が静かな環境を害するということで差止めを認めた判決です。ここに人格権の定義が登場してきた。福井地裁がこれを前提として、さらに人格権の定義に生存とか生命というものを重視したというのが新しい判断でした。
生命権的な人格権というものは、ほぼ絶対的権威として重視しますので、政府は国の原発エネルギー政策の方が国益にかなうとよく言いましが、そういう発想はおかしいのだ、絶対的な権威の上に立つ以上、国のエネルギー政策と比較考慮する事は基本的に間違っているという主張です。
原発を一番初めに差止めたのは、志賀原発の金沢地裁(井戸裁判官、平成18年)で、これが民事裁判としては原発を差止めた初めてのものですが、これも人格権に基づいている訳ですが、この判事はいま裁判官を辞めて滋賀県で弁護士をやっており、今は原発訴訟の中心的な働きをしています。この井戸判決もベースになっている。
この福井判決は人格権に基づき差止めを認めたのですが、これが最初ではないということです。

  2 生命的人格権の優越的保障
人格権という言葉は、それまでは名誉権とかプライバシー権の関係で出版の差止めを認める時に使われてきたものでありましたが、これを原発の関係でこの判決は使おうとした。他の憲法が保障している人権はいろんな種類のものがありますけれど、経済的自由権、経済活動の自由、職業選択の自由もそうが、営業活動をするという憲法22条に書いてある権利があります。会社としては、電力会社とか原発メーカーは、原発は経済活動の一環として職業選択の自由でやっているので、と多分主張する。所がこの判決はそういう権利と生命権的人格権と比較した場合には、当然生命的人格権が優越する。二つの権利を秤にかけて、比較考慮、法律の世界ではこのような比較をよくやります。この場合は二重の基準論というのがあって、経済的自由権と精神的自由権と比較すれば、精神的自由権の方が重いと、さらに人格権には優越的な保障が与えられているとしてこの判決が位置づけられている。
この判決の興味深い点は、原発の差止めについて、原発と戦争の二つを持ち出して、これはどちらも重大な権利侵害を導くものとしている。だけれども原発その存在が憲法上容認できないということは極論に過ぎるとして、留保しています。澤野先生の主張している原発の存在自体が憲法違反だという主張については、意見は留保しています。留保していますが、実は別の判決でこの判事は、原発自体合憲論です。程度問題ですが、この判決では抽象的な言い方に留まっている。原発の存在自体が憲法に違反するかどうかはノーコメントです。しかし、原発が権利侵害になることは認めている。戦争も原発と似たような被害をもたらすということも触れているが、ほとんど具体的な事は展開されていない。
原発の差止めの根拠として、普通は過失責任がある事を追及する訳です。住民としては過失責任があるのではないかという事を証明する必要がある。この判決は「危惧感説」、学説としては通説にはなっていないのですが、抽象的な危険でも責任が問えるという見解です。これまでの通説では「具体的予見可能説」といのが取られています。つまり「既に起きたことがあって、具体的、確実に予見できる危険についてのみ責任を問える」というのが具体的予見可能性説で、このような場合のみ責任を問える。過去にあってその責任が認められたものについてのみ責任追及できるというのが、これまでの通説です。
一方「危惧感説」は、「今までに起きたことがなく、どのようなメカニズムで発生するのかが確実に分かっていないような『未知の危険』であっても、起きる可能性が合理的に予測される危険については、業務の性質によっては責任を問える」とする見解であって、「もしかしたらそうなるかも知れないと合理的に心配できる」なら、それは危険があるのだとみなして、責任を追及できるのだと、差止めができるのだという責任論を採用しているのではないかと、澤野先生は一応分析した。
原発の場合は危険でも許されない危険ととらえる事ができて、自動車事故や航空機の事故は、これは確率的に危険性は当然あるのですが、それでは止めるべきかというと、この場合はそのように理解されていない訳です。危険だけれども一応許される範囲の危険性とされていて、これに対して、原発の場合はそれとは違う許されない危険として位置づけた方がよい。この福井地裁判決は、生命的人格権という概念を強調することによって、そのような前提で過失の捉え方をしているというのが特徴です。
生命的人格権、別の言葉でいうと、戦争の場合は、自衛隊イラク派兵差止めの名古屋高裁判決がありますが、自衛隊関連の裁判ですので、平和的生存権がそれによって侵されるという主張をしてます。さきに原発事故と戦争は共通点があると述べましたが、そうなると生命的人格権と平和的生存権というものはかなり共通のものとして認識できる。これからこれらを関連づけることが課題になるのではないかということが、澤野先生の分析からでてきたものです。

 3 原発の安全性に関する司法審査の在り方と立証責任
原発裁判にはいくつかの種類があります。損害賠償請求するもの、原発稼働を差止めなどの民事裁判と、行政裁判は、国が原発の稼働を許可するというその許可を取り消すなどです。これまで、国や行政に対する裁判では、どちらかというと原発の稼働を認めた国や行政の専門行動、専門技術的知識というのが重要で、専門技術的な裁量権というものをこれまでの裁判所は非常に尊重してきた。細かいことは裁判官もよく分からないので、結局は国の専門技術的な裁量決定を尊重せざるを得ないということで、伊方原発の最高裁の判決は、結論的には、国の専門技術的知識を尊重することになっている。確かに人格権侵害というものが認められるとしても、そういうことよりも、行政の裁量権を重視されるという考え方がこれまで取られてきた。そういうことが、原発関連学会だとか行政法の学者の世界でも、原子力の専門技術性を重視することが言われてきた。
従って、この判決はそういう専門技術性のことをかなり無視して、一方的に生命的人格権を優越的に保障されるべきであるとして、差止めを認めることは、けしからんという批評がありますが、この福井地裁は、違う解釈をしている。
確かに民事裁判で、被害者である原告住民が訴えなければ、立証しなければいけない訳で、それはどのような裁判でも共通しますが、但し、その立証責任については原告側は専門家でない訳です。具体的に技術的に何が危険かということを明確に具体的に証明する必要はない訳であって、万が一の危険性の立証で足りるのだということをこの判決は述べている。

  4 本件原発の再稼働差止めの必要性判断
実際に、原発稼働による具体的危険性について判決は言及しています。原子力側は、万全の対策をとっていて危険は大丈夫だと言っている、それは本当にそうなのか。科学的に問題ないと言っているけれど、それは実は楽観的な見通しではなのか。根拠が薄弱ではなかろうかということで、裁判所はこのような具体的なケースがありますよということを述べている。

 5 本件の具体的危険性の実態的判断
具体的危険性の実態的判断とは、未知の危険であっても起きる可能性が合理的に予測される証拠があるということです。事故があった時、止める、冷やす、閉じ込める、という三つがそろっていなければならないが、大飯原発について、はたして確かなのか、構造的な欠陥があるのではないかということを、具体的な数字などとか、科学者の見解などに基づいて意見を述べている。例えば、700ガルを超えるが1260ガルを超える地震はこないと電力会社は言っているが、それも経験的に反している。既に、2005年以降10年間の間に想定を超える地震が5回もあったとか、このような具体的なものを挙げて批判をしている。

以上

                           井上浩氏記録