玄海原発反対運動について(講演会)

「玄海原発反対運動について」

お話:仲秋喜道氏、成富忠良氏(玄海原発対策住民会議)
日時:2016年10月27日(木)14;30~17:00
場所:玄海町産業会館

1.仲秋喜道氏(僧侶で、曹洞宗・東光寺の住職を勤め、かたわら地元の中学校で英語の教師を務めた)。
私は1929年生まれ、現在86歳。後一月もすれば87歳です。私がまだ30の頃、1962年の春、実は九州電力が原子力発電所をつくる動きがでてきて、佐賀県や玄海とかなんとかが候補地になるということが分かった。九電は推進運動を水面下でこっそりやっていた。その時これは危ないということに気づいてからもう50年以上になる。なぜ私は原発に対して最初から反対したというのには背景がある。
私は中学4年生の頃、勤労学徒動員という国家の命令で学校を去って工場で働くことになった。15歳でしたが、工場では夜勤がありました。かなり酷い労働でした。しかも今では考えられないけれども全く給料はゼロでした。食事はでましたが、その食事たるや、皆さんも経験があると思いますが、米もご飯なんか食べたことがない。何を食べたかというと大豆の油を絞ったカス、それは牛や馬の飼料になるものです。これに米を少し混ぜて食べるのですが、腹が減っていたが美味しいと思ったことはありません。勿論私の戦争の時の経験は、先ず労働の経験です。勉強が出来なかった。そして飢餓に近い粗食の経験、そして爆撃、機銃掃射、そういうものに見舞われた1945年の敗戦の時ですが、なかんずくその中でも8月6日と9日の日の原子爆弾のあの投下によって非常に酷い目にあったし、非常に私にとってショックな事件でした。私の8つ違いの兄は師範学校といって学校の教師を養成する学校にいっておった訳ですが、その途中に召集され、そして直ぐフィリピンに送られて間もなく戦死します。フィリピンには日本の軍隊が61万人おりましたが、戦死者は49万8600人です。81%の日本軍がフィリピンで死んでいます。戦争で亡くなった日本人は310万人と言われていますが、その内230万人が戦死、30万人が海外の軍隊以外の死亡者、国内で50万人。しかし、一番肝心なのはそうでなくて2000万人以上の日本人以外の人が、日本の侵略戦争によって殺された、死んだというこの事実、これが一番大事な戦争に対する私の認識だと思っています。勿論朝鮮、台湾、中国、アジアの人々、その人々に沢山の死者がでた。つまり殺されていた。その事を抜きにしては私は自分の兄とか日本軍の戦死者のことを語ろうとは思いません。それが私の戦後の出発点です。つまり戦争に反対するということと、原水爆のむごい惨状を、どうしても許せない、これがいわば私のその後の人生をつくっていった大きな出来事でした。それが大事な原発反対の基本的なベースになっているのです。
一言お詫びを申し上げたと思います。私は、韓国の方、朝鮮の方に対して日本人がどんなに事をしてきたのか、その歴史を、例えば今から400年前には、豊臣秀吉が朝鮮に侵略しているし、酷い事をしていた。日本には耳塚、鼻塚があります。これは朝鮮人の耳や鼻を削いで塩漬けにして日本に送り、そのことによって武将がどのような功績、手柄を挙げたか、そういう評価にしたのです。非常に酷い事です。さらに明治時代には伊藤博文が韓国を合併と称して、あしげにして、蹴散らして酷い事をした。この歴史的な事は私たちから消えないし、歴史からも消えないし、両国が今後仲好くやっていくためには一番基本的な認識はここが出発点だと思います。
私は原発が誘致される時に、これは危ないと、良く分からないけれどただ事ではないと、そして1965年の11月に原発候補地の場所に50人ほど集まって原発誘致反対の決議をあげました。これが私の原発反対の第一歩でした。勿論私は発電所には関心がありました。唐津には火力発電所がつくられました、火力発電所が出来たのは、水面を埋め立てして、佐賀県の炭鉱のその石炭を使って発電するという火力発電所、それも唐津の市内の近くにあったので、唐津市内に沢山のガスが、亜硫酸ガスなどが落ちるということで反対運動を私は、まだ二十歳代でしたが、署名運動とか反対運動しました。また日本は工業が急速に発展する中で沢山の公害が生み出した。四日市ゼンソクとか、九州の水俣病の公害、沢山の公害問題がでてきて大きな社会問題になってきた。私は学校の教師の一人として、そういう目の前の公害問題にも目をつぶることができなかった。
原発を危ないと思ったのは、私がそれまでやってきた事から見て直観的にと言いますか、これは危ないと思った訳です。しかし反対する人は極めて数が少なく、佐賀県でも100人も集まることはなかった。それくらいに国を挙げて国策として、そして大きな独占資本、電力事業者がやってきた。特に大事なのはエネルギーが今まで石炭でやってきた日本のエネルギー政策がアメリカの資金、アメリカの原子力、日本の経済がアメリカによって左右される、軍事的にも経済的にも基本の部分がアメリカに支配される。ここの所を見ますと、この流れはそれこそ国を挙げての流れですが、個々の反対運動を極めた人というのは極めて少数派であり、意見が通らない、それが初期の特徴、それがずうっと2011年の3月11日の福島事故まで基本的な傾向というのは続いてきたとも言える。ただ少なかったと言っても私は仕事があり、学校に勤めていました、私は中学校の教師をしておりました。そして教職員の中で、教職員の組合の活動、これに私は熱心に入っていった。そこでは労働運動、賃上げ闘争、平和活動がでてきまして、そして公害反対の運動ができました。そういう事で、組合活動の中で私は小学校、中学校、高等学校、その先生達の組合を中心に私は1973年には今の組織、当時は「原発反対」と言っていましたが、「原発対策住民会議」を立ち上げた。勿論農民の方達も入って、いろんな職業の人も入ってもらいましたが、基本は学校の教師が中心でそういう組織をつくってずうっと戦ってきた訳です。
それから私達は原発反対の運動体をつくる前に、ここでは大変な危険、その危険というのは、九州電力がここに原発をつくるにあたって金を役所に置いて、その金を自由に使って買収をやりだした。その買収は土地の売買交渉にも活用され、話し合いが難しい時にはお酒を飲ませ、まあ、いろんな事を、卑劣な事をやってですね、いわば手なずけていった。九州電力が数千万円の金を置とる訳です。それを取り出して町の会計から、当時予算が2,3億の頃ですけれども、2千万円の金を着服してそれがバレて世にでた。それを私達は原発がらみの汚職事件だというように捉えまして反対運動をしました。
私は、学校の教職員をしながら昼は学校で生徒に授業をし、夜は夜中までそういう活動をして、夜は家ではなく町民の家で、活動しているか、集まって会談をしておった。詳しくは申上げませんが結果的にはここの当時の町長も逮捕されましたし、幹部も、役場の職員も警察にどんどん呼ばれ調査を受けました。しかし、結果的には裁判にもならなかった。下っ端の金使いは裁判になっても幹部はならない。何故か、国の政策なり九州電力のよう大企業で、地方の独占の中では揉み消しが可能、それは表に出さない。そこに気づいた私はこれは大変だと思った。いわば私達がやっと目指した自由とか民主主義や、権威が奪われていく、このことと原発の推進とは別のものではなかった。つまり民主主義を壊して初めて原発が出来る。金を投じて原発できると。人の心を奪って、ダメにし、堕落させる。そんなことでしか原発は進まない。そこの所に気づいて私はずうっとこの50年間、反対の立場を止める訳にはいかなかった。ただそれだけんなんです。大した運動はしていませんが、私が一つだけ胸を張って言いたいのは、私にもいくらか問題があったかもしれないが、戦いだけは止めかった。これだけは胸を張って言える。
ですからそういう意味では3.11の福島事故が起きた時、私はそれからというものは非常に落ち込んだ訳です。つまり無力感、そしていろいろやってきた事が如何に小さな事であったか、力がなかったか、そういうものが先ずきましたから、そういう意味で非常にショックでした。2011年の3月11日以後は落ち込んでいる暇もなかった。あちこちに引っ張り出されて人の前で話しをしなくちゃならんという不得手ですけれど、そういう目に合いました。まあ個人的な事はいろいろありますが、それはそちらに置きまして、去年私は自分の伴侶を亡くしましたが、亡すまでには老老介護と言いますか、年寄りが年寄りを見ていく、それまた試練ですが、そういう目にも合いました。
ベトナム戦争は1965年のことですが、その時にはストライキなどもやり戦争は止めなくてはいかということで教職員組合の地方の幹部の関係もあったのですが、警察に逮捕されたこともあるということで、処分を教育委員会から過激な行動だとして受けたことがある。給料をカットされた。それは誰もが経験していることですし、戦前の日本の戦争反対の共産などの戦いを知っているものにとっては、それは大したことではない。私はルンルンではなかったが、私は処分には同意はしていない。また私の家内は全然同意はしていない、だが信頼していることは事実である。
私は決して自分が粘り強いとか押しが強いとか気が強いとか全然思っていません。それとは反対に、気は弱いし、動揺するし、迷うし、しかし、何故止めなかったか、それは何かというと学校に勤めているというのは生徒がいます、子供がいます、親がいます、母親がいます、生徒や母親はちゃんと私の気持ちを見抜いてくれて、従って教育委員会という役所が私を処分しても弾圧をしても守ってくれるのが身近にいる。私は和尚という職業も持っていますけれど檀家さんといってお寺に関係する人達が、外ではいろいろ言っておったかもしれませんけれど、結局は守ってくれた。つまり檀家さんとか子供や親から守られ、こういうことで今まで私は守られてきたな。つまりそういう力でもってなんとか今日まで生きてきて、こうして皆さんの前で話しをできているとつくづくと考えております。
原子力の問題については質問によっては分かる事はお答えしたいと思います。私が反対に投じた当時は日本で原発批判の本はほとんどゼロといっていいくらい。東京にいる友達が大手の出版したものを送ってくれた。それから大学の先生が四国ですけれどそこの研究室で出しているレポートを送ってくれる。広島にいる弟が論文を見つけては私に寄こしてくれた。まあその程度であった。まったく原発については昔も今も素人です。しかし、考えてみれば原発なんてなんでもない。部分的にはずうっと沢山あるけれど総合的には原発全体の学問はない。特に被爆の問題、人権上の問題、使用済み核燃料の問題、増殖炉の問題、沢山の問題がある。私はそういう問題について正確に理解はできなかったけれども、それはスリーマイルでもチェルノブイリでも、事が起こる前に問題が起きるぞ言っておった人がいる。そういうのは見てきましたから、そういう意味では基本的にはジグザグはあったが正しかったと今では考えています。

2.成富忠良氏
私が、なぜ原発反対運動に参加するようなったかというと、1941年生まれですから朝鮮戦争は覚えています。小学校の3年生の頃です。中学生になりましたら先生達が教育のためにストラキをやったことを覚えています。高校生になった頃は、僕の同級生に韓国の人がいました。唐津東松浦には炭鉱が沢山ありました。その同級生のお父さんお母さんは韓国の人です。今歯医者さんをしています。友達です。大学生になった時にはベトナム戦争、それから公害反対闘争、沖縄返還闘争。分からないままに参加しました。
岩波書店という書店があります。「世界」という本があります。学生時代はお金がなかったので、図書館で読みました。何を読んでいたかというと韓国からの通信です。これは絶対読まなくてはいけない、これは自分の歴史だと思いました。勿論今はその本は取っていますが、韓国のことについてはなんか気持ちが通じるというか、日韓の35年間の植民地支配、日本人として恥ずかしい気持ちです。酷い事やった。自分の家族を失ったらどう考えるか。従軍慰安婦という言葉は悪いですが、生存者の方を、20年ぐらい前に問題が起こった頃、唐津に呼んで学習会をしました。ここに住んでいる高校の先生は韓国の歴史の本を日本語に訳しました。私は高校の教師でした。子供達に、私は小学校、中学校、高校も含め先生達からやっぱり戦争はいかんと、間違いがおこる、平和が大切。もう一つ民主主義が大切だということを習ったような気がしました。自分がおかしいなと疑問に思ったことは口に出して質問しなさいということも習ったような気がします。
職員組合に入り、佐賀の高等学校で3千人近くいましたが、40代の時は書記長をしていました。高校を増やす運動とか公務員のストライキ権とか、勿論給料を上げろという運動もやりました。やりますといっても私がやった訳ではなく、皆でやった訳です。そういう自分の歴史の事を先ほど言いました「おばあちゃんの家」(韓国映画)に出た子役に似た私の孫に「じいちゃんはこういう生き方をしてきたよ」とこないだ手紙を送りました。返事はありません。私もそんなに長くはないので、せめて孫には伝えようと思いました。
原発反対の運動ですが、仲秋先生や先輩に誘われまして参加をしました。玄海町の町長以下10数名が逮捕された。これはおかしいと。お金で気持ちとかを買うとかはフェアじゃないと、留置されたのには理由がある。日本の原発のあらゆる所が過疎地で豊かな地域ではありませんでした。高校に進学する人が少なかった。少しでも豊かになろうと気持ちでされたんだと思います。話が飛びますが玄海原発の3号機、4号機が再稼働がすぐ迫っています。3千人の人が作業をしています。地元の玄海町の町長は高レベル放射性廃棄物の最終処分場を国が言えば受け入れると、検討するという言い方をしています。後の記者会見では自分の在任中には受け入れないということを表明はしています。つい一月前に唐津市の玄海原発のすぐ近くの鎮西町の所の住民が中間貯蔵施設をつくってもいいですよ、候補にして下さいと請願を唐津市にしました。これも新聞報道の後、取り消しがありました。ただ玄海町と唐津市は使用済み核燃料の候補地になっているのは間違いないんではないかと思います。どちらにしても使用済み核燃料がどこで最終処分するかというのは全世界の原発の所の課題だと思います。
10月佐賀新聞が佐賀県の県民の再稼働についての世論調査をしました。再稼働反対が50%、再稼働賛成が37%、県内では反対の方が多い。朝日新聞の全国の調査(10月)では、再稼働反対が57%、賛成が37%、最再稼働反対の方が多い。私がなぜ再稼働に反対するかというのは2つの理由がある。再稼働したら日本の原発は使用済み核燃料がもう一杯になる。再処理工場も高速増殖炉も事実上核燃料サイクルは壊れている。そして過酷事故が起こった時に避難することが出来ません。避難計画や訓練はやっています。今年もやっています。ただ実効性あるものにはなっていません。
最後に先ほど仲秋先生も言いましたが、福島の原発事故は終わっていません。今も続いています。汚染水問題一つとっても解決していません。事故の原因究明も出来ていません。事故の終息の道筋もまだ見えていません。何より避難生活をしている人が8万人近くまだいます。それで再稼働というのは企業の倫理にあるのかなと言う気がします。生徒に間違った事をするなと、教師ですから言ってましたので、私はやっぱり原発を動かすのはいかんという運動を続けます。私も1号機と同じように老朽化しました。時々物忘れもします。仲秋先生を始め皆さんと一緒に今後も運動を続けていきたいと思います。

3.質疑応答
 ・質問:原発の現状は?
・仲秋:玄海原発1号機、2号機、3号機、4号機と4つあります。1号機は既に廃炉が決定しました。40年を過ぎている。特に70年代の原発なので、私達はそれを問題にしたのですが、非常に壊れ易い。中性子の照射を受ける、照射脆弱といって脆くなる。日本の54基の原発の中で最悪の状態になったことが分かった。脆さが分かる指標ですが、脆化温度が上昇している。関西電力の高浜原発2号機では脆化温度が99℃になっている。このような危険レベルになっている原発の再稼働を認めた。60年運転を計画している。各原発はそれぞれ違いますけれども、それぞれが弱点を持っている。玄海原発3号機はプルサーマルですからプルトニウムを沢山使う。プルトニウムを使用することは危険だということは分かっている。今日はプルトニウムの危険性には触れませんでしたが、時間があれば是非説明したい。

・質問:各地の原発地域を回ってきましたが、何処へ行っても感じることは地元の人で反対する人が非常に少ない。なおかつ孤立している。こちらは如何でしょうか?
二つ目は微妙なことですが、玄海原発に対する裁判をやる人というのは非常に全体として少ない訳ですが、その裁判に係わる人もそんなに多くないはずですが、その裁判が二つあるという。特に二人のお話を伺っていますと非常に地元密着型で運動されているようなんです何か少ない中でやってるのに二つに分かれる必然性というのはあるでしょうか?
・成富:福島とか伊方とか全国の原発訴訟は1970年代に全国で取り組まれましたが、戦うには力不足であった。3号機のプルサーマルの導入から佐賀、唐津、鳥栖でも反対運動が盛り上がりました。住民投票をやるっという運動、もっと幅広い運動にかわりました。その中で裁判をやろうということが3.11以降ありましたので、僕らの団体も仲秋先生も呼びかけがあって、さあやろうということになったんですが、何故かどこからか横やりが入って別の団体のプルサーマル裁判が発足しました。そして今度は九州原発訴訟という裁判が立ち上がって1万人の原告を募りました。それぞれの運動体は一緒にやろうと。原発をなくすためには少々の違いはあっていい。でも原発はなくそうという一致点で8、9団体が一緒になって今運動を始めている所です。裁判だけは別々にやっています。唐津市でも2つの裁判に入っている人がいますし、2つはちょっと無理やなということで、私達は九州原発訴訟の方に入って裁判に係わっています。でも川内原発の再稼働に向けて全国の運動体が一緒になってやろうということで県内でも集会にしろ知事への要求行動、学習会なども含めて、相互に呼びかけて一緒にやろうというのが広まっています。
・仲秋:原発のある地元では反対する人が少ないというのは全国に共通していると思います。それはね何故かというと私が触れたように電力会社は例外なく金で人の心を動かすということをやることで、どうしても利害関係が非常に密接になっている。物が見えなくなる。別な言葉で言えば原発のある所ほど民主主義が奪われていっている。そういう点で物が見えづらくなっている。運動の進み具合とこれは大いに関係がある。共通した困難さだと思います。
今一つの裁判の件ですが、それまでの裁判はそれぞれ違った団体が原発をなくそう、反対しようということで歴史的経過が違うんです。ですから違いが出るんです。それはいいことです。問題はその中で去年あたりから謙虚な動きが、違った者同士が力を合わせてということがあちこちでできていると思います。それは思いもよらない所でそういう運動を歓迎だと思われている。例えば鹿児島で三反園知事の誕生は私でさえ想像できなかった。新潟の県も反原発知事が誕生した。それは分かっておりましたけれど、そういうふうに新しい動きが去年あたりからようやく日本にも出てきたことだろうと思います。非常にいい方向だと思います。日本だけでなく韓国とも連携して、偏西風が吹いているので放射能は県境も国境もありません。そういう意味では本当に皆が力を合わせて支え合って反対していくという課題がある。
・成富:安倍政権が平和憲法を否定したり、見識を否定したり、自衛隊を海外に派兵する集団的自衛権を認めたり、どこに進むか分からんという、本当に暴走するんではないか、安倍さんの歴史観というのは本当に反省があるのかと正直なところあります。プルトニウムが47トン日本にある。核兵器は開発しないけれど開発するポテンシャルな能力は保持するというのは1960年代からずうっと続いています。2018年、後2年したらアメリカと原子力協定の改定があります。どうなるのかなーと思っています。
・仲秋:去年末現在でプルトニウムの所有高は47.9トンです。だから今はもうおよそで48トンのプルトニウムを所有している。これは原爆を作ろうと思えば6千発分の材料になるというのが一般の信用する認識である。所が1969年の秘密文書、これは外務省が公表した、公表したのは2010年11月26日ですが、恐ろしいことを公表したんですね。中身は「当面日本は核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的、技術的ポテンシャルは常に保持すると共に、これに対する文句は言わせない。」これが正式の外交政策の大綱だと。これは訂正されていません。つまりかなり早い段階から日本の外交政策の基本は核兵器の潜在的能力を保持する、経済的にも技術的にも保持する、ですから原発再稼働の動機の一つである。基本的に私達が考えなくてはいけないことの一つは、核の議論は軍事利用はダメなことは言われているが、しかし「核の平和利用」という括弧付きの言葉ですが、これがずうっと日本が裏にある軍事利用を「核の平和利用」という言葉で騙してきた。
その証拠ですが1954年の3月1日、アメリカの水爆で死の灰が降ってきて大問題になり、それがその翌日になるのですが1954年3月2日の日本の国会審議で日本に最初に原子力予算を入れようとした政治家達が、これは中曽根が中心になってやったと言われていますが、その時の議事録にはっきり、原発を入れる理由の一つに国防計画についてという項目がある。それを読みますと原発を入れるということは先には核兵器という物を政治家達は内に秘めていた。そういう事が最初からあったのです。それがずうっとひた隠しにされると同時に「平和利用」という括弧付きの彼らのスローガンは国民を騙しておる一番大きな陰謀だったと私は思います。しかし日本は過去、現在、未来、核武装の隠された野望を棄てていません。この点の指摘というのは非常弱い、しかし私は現在の防衛省の稲田大臣、彼女も2011年3月頃に書いた本の中で語っている中に「日本は長期的には日本の独自の核保有を単なる理論や精神論ではなく国家の戦略として検討すべき」とはっきり書いてある。こういう大事なかたちの指摘もしていないのです。核武装をダメだということを。歴代、全部とは言いませんが主なそういうトップの人は、常に胸に内に核武装というものをずうっと秘めている。いろんな人の発言を調べてみると、核武装論者ばかりなんですね。これが実情と思います。
・成富:数年前、民主党野田内閣の時に自民党と公明党の提案で原子力基本法、宇宙基本法、少なくとも平和利用ということできました。その中に「国の安全保障に資する」という言葉が入りました。これはかたちだけでも平和利用と言ってきたのが、本当に軍事目的に使われる道筋を拓いたのだと感じがします。
・仲秋:2008年に宇宙基本法の目的に全く同じ言葉「安全保障に資する」が入った。それからアメリカと人工衛星、役には立っています、気象衛星など、所が密かに軍事利用、具体的に予算も使ってスパイ衛星、かなりの量で配置されている。つまり次の戦争に向かって一番基本的な衛星による監視が、かなり前からされている。原子力基本法には後追いでそれが加えられた。それが問題でも、それを問題視しないことが問題である。これをまともに問題にする事で原子力の未来がはっきりと浮かび上がる。原発は、核兵器の潜在的の問題と危険性の問題と、今言った政策の中に組み入れられて、この事を無視して、ただ原発は危険だ、危険だという技術論も大事だが、基本的な国家戦略に組み入れられていることに注意を喚起したい。2003年法改正時では宇宙開発は平和目的に限るとあった。それが5年後には「安全保障に資する」に変えた。原発の場合には安全神話ということで原発は平和利用だと言う事で、全面に出してそれでずうっときた。これは表看板。裏では今言ったように隠された企みがずうっとあった。それが今回原子力規制委員会が出してきたその中で姑息にも附則で、第2条の2項で、原子力基本法は「安全保障に資する」が付け加えたことに今の日本政府の危険な本質が隠されていると思います。付け加えると原子力基本法は、民主、自主、公開が三原則です。

・質問:原発反対としてスタートしたが、途中から対策に変わった理由は?
・仲秋:反対はですね、原発ができる前の時で、原発建設反対。出来た後は建設反対だけでなくて他の問題もあるから対策に変えただけ。

・質問:幸せはお金だけではないと言う方向の反対運動の可能性は?
・仲秋:ちょっと誤解がある。原発が来る事によって潤うというのは、そういう職業はある。過疎地帯ですから出稼ぎが多かった。つまりほとんどの男が家に居ないのです。阪神とか東京とか。ですからそういう点では生活が苦しい。原発が来るとそういうのが緩和されると、そこは認めなくてはいけない。利益があるのに原発に反対する、それは利益は誰にとっての利益かという観点が一つ。これははっきりしている。今一つの経済的な、例えば地方の経済的な影響があるから再稼働しなくてはいかんのだというのは、これははっきり正面から否定しなくてはいけない。何故か、ですが、経済というのは人を幸せにするのが経済、経済関係とは人と、物と、お金と、そういう観点の中で経済活動そのものは人間にとっていわば幸せになる、生活が良くなる、原発はこれは騙しの一番大きな手の一つで、すり替えている。福島の現実を見てみろ。例えば5年半以上経っているのに8万人の避難者は帰れない。故郷を奪われる。抽象的ではなくて、畑や山を奪われる、生活を奪はれる、人間関係をズタズタにされる。そのことが経済的効果とどう関係するのかということからいえば、まさに経済そのものを壊すのが原発、福島では経済的打撃を与える、勿論命も。それでも経済的効果をいまだに言うとは、これは疑問符である。頭がおかしくなっている。いわば進める側というのは、戦争というのを思い出せば分かるのです。戦争の時、日本の首謀者達は気が狂っているしかいいようがないほど、おかしくなっている。戦争を肯定すると言う事はそういうことです。安倍自公政権がやっている今の政策、まさに明治の頃の日本の富国強兵策、軍隊を増やして隙あらば外国に攻め入って自分の領土を増やす、自分の利益を考える、その時と基本的にはそっくりです。

・質問;貧しい人にとっては目先の補助金は魅力的では?
・仲秋:基本に戻ることしかないと思うんです。原発が来なかったら生活がダメになってしまうとか。炭鉱だって日本は物凄い炭鉱資源をもっている。しかしアメリカの都合が優先して潰した訳です。炭鉱をゼロにしたのです。そうしてどう対策をしたかというと産炭振興の法律も作らせて守っている。この代わりには原発が必要となる。だから再生可能エネルギーを考えるとか、原発に頼らない新しいエネルギーを日本に入れていくという選択が必要になる。
基本的にはもっと大きくいえば産業革命以来してきた事、私達は原発そのものを見直すべきである。私達は物があったから、金があったから幸せだということではない。本当の幸せではない。私達は、福島の県民がああ言う目にあいながら作り上げた電力を、今でも粗末にしていている。今の私達の食生活の中でどんなに日本は食べ物を棄てているかと、そのことを考えた時に文化そのものを見直すべきである。
原発の論理というのは、ただ原発をなくすだけでなくて私達の生活そのもの、それから産業革命以来の人類の発展そのものについても、私達は大胆に切り込んで、今何が大事なのかをこのような討論というか、話し合いを通じて築いていくそれが大事なのです。

・質問:白血病が発生について
・仲秋:疫学の研究もかなり前から資料が手に入っていましたから、保険所の、所謂政府の統計でも唐津地区、なから(?)地区玄海町は白血病の患者が多いということが明るみにでていました。最近でも2回ほど議会でも取り上げました。しかしその中身については新聞に出していますので、町民には知らせている。問題であるのはかなり長い間原発の近くの住民を特別検診していましたが、その資料を出せと言ってるが公開しない。何故公開しないのか。これは町の予算で検診をしている。それは町民には知らせるべきである。これは九電も金を出しているということでストップがかかり、内容は隠している。今だに出しておりません。本当の事が分かれば酷いことが分かるはず。
九電は3.11以降も酷い事をやっている。例えば議会が終わった10月23日に忘年会を九電主催でやっている。町長も区長長も議員も全部出て、ただ一人出ていないのがいる。何故か、案内が来なかった。来ても出なかったでしょう。つまり拒否された人は、原発には批判や反対をしてきた。だから今でも平気で差別が通っている。隠すとかそういうのがつきもんなんです。原発には民主主義の観点からいいますと、嘘はつきもんですからね。差別をする、そういうのがあって原発がある。そういう意味では巨悪です。物凄く大きな悪ですね、と私は思います。

・質問:福島事故の原因は地震の可能が高いのでは
・成富:国会の事故調査委員会は地震の影響もあるのではないかという事で調べる必要があると言いました。他の所は津波が原因だと言っていますが、岩波書店の「科学」とか「世界」に論文がどんどん出てきておりまして、福島事故の原因は勿論津波に原因があるけれど、今ご指摘の通り地震が先ず来て配菅を含め、壊してそれから津波が来たというのが、時系列で論文の形式で書いたものが次々出ています。津波を原因にして地震を原因にしなかったのは、地震が原因だったとすると全ての原発の地震対策でコストが物凄く掛るということで、意図的にそういうことをやったのではと考えています。勿論活断層も分かっていないことが沢山あります。地震と津波対策は必要と思いますが、スリーマイルもチェリノブイリも人のミスです。操作ミスであることを忘れてはいけない。

・質問:東京では原発再稼働反対の市民運動の中心に若お母さんがいるが、玄海では?
・成富:佐賀県でも市民の会を中心に統一候補は日本で最後にできました。ただ残念なことに連合の電気労組の問題があって統一が取れてないと私は思います。電気労組は原発が大切なのか、国民が大切なのかという批判はありますけれど、若い人の参加はなかなか難しいところがあります。佐賀では毎週金曜日に金曜行動が200回を超えており、唐津では毎月1日に、3.11行動をしています。なお唐津では国家機密法、戦争法反対の行動は毎週火曜日、70回ぐらい続きまして、今年の10月から月に1回に変えようということです。若い人がなかなか集まってこないという状況はあります。

・質問:玄海町の町長が玄海町に住んでいないのに腹が立つ。住民票が置いているが外に住んでいる。
・質問:原発の立地地域の人は、我々外部の人間とは立場が異なり、原発が動かなくては仕事がなくなるという人もいるでしょう。再稼働しなければ食べていけなくなる状況の人に反対せよと言うのは酷である。立地自治体以外の所から声を挙げ、反対運動をしていかなければならない。
・仲秋:回答になるかならないか、非常に微妙なことですが、電気は周辺、例えば福岡、百数十万人が使っている。だから地元に住んでいる者といえ、自分達が気づかなかったのではないか。電気だけは使っているけれど、ここが何十年といわば危険をずうっと感じてきた、戦ってもきた。そういう観点からみると、戦いは地元よりは周辺から攻めていくべきです。利益を電気の形で得てきた訳ですから現地では危険を承知で、少しの県民が阻止する。勿論福島県でも反対の運動があったけれど結果的には今は原発は福島は要らないと言っている。これが一番厳しい、当たり前でしょう。だから地元というのは、のほほんとしているのか、どんなに厳しくても署名集め、例えば、30軒、50軒廻っても署名は一人が二人なのです。寝られない事態もあります。ゼロ人の時もあります。それでも地元から反対運動をするのが基本です。当然電気の恩恵を受けて利益を受けている離れた所も同様に反対運動をすべきである。事故が起これば周辺も被害を被る。その証拠にチェリノブイリは350キロの地点でも人が住めない所が沢山ある。500程の村が壊滅している。チェルノブイリでは、そういう目に遭って続いてきている。例えば福島事故の時、最悪になった場合には原子力委員会は250キロまでは危ないと言った。そういう意味では今度の裁判では被害を受ける範囲を限らないで、30キロとか50キロとかではなく、風向きによっては100キロ、200キロ、そういう所も壊滅する危険性がある。こんどのことで知れ渡ったが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という例えのように、一番怖いのは何か、それは忘れることです。終わっていないのに、解決していないのに。

(井上浩氏記載)