長崎平和資料館 高實康稔館長のお話

高實康稔(たかざね やすのり)館長(岡正治記念 長崎平和資料館)のお話

日時:2016年10月28日 11:00~14:30
場所:岡正治記念 長崎平和資料館(長崎県長崎市西坂町)

1.岡正治 記念 長崎平和資料館について
岡正治記念 長崎平和資料館と言いますのは、今から21年前に設立したものです。岡正治記念と冠のように付いています。単に長崎平和資料館だけで良いのではという意見もありましたが、私がそれはダメだと言いました。正面の入口の展示が韓国朝鮮人の被爆者の実態調査に関する展示です。岡正治という私の恩師に当たる方は、牧師で市会議員であった方で、市会議員の時は市長に対して、どうして朝鮮人被爆者の実態調査をして、日本人被爆者と差別することなく、むしろ優先的に援護すべきではないかと何度も議会で主張されたのです。しかし、国も県も市も何ら調査もしないで、そして日本の厚生労働省もが差別待遇していた。それに対して改善を訴えることにした。そこで自分達で真実を解明しようと1972年から取り組み始めた。1981年に「原爆と朝鮮人」第一集を出版しました。原爆資料館には年間30万人とも言われる中高生が訪問するけれども、そこを見ただけでは、日本は原爆の被害を受けた被害の国民であると、原爆の恐しさと核兵器廃絶を訴える、それは正しい事であるとしても、その前に日本が何をしたのかということは、全然理解することが出来ません。そこで中学高校生に日本の植民地支配、さらには侵略戦争の歴史を学ばせる、理解させる歴史資料館を設立しようと、93年に訴えられたのです。そこで募金活動や署名運動をされていましが、94年7月に急に亡くなられました。私は岡先生の指導のもとに朝鮮人被爆者の実態調査をしておりましたので、まあどうしたものかと本当に途方に暮れまして、しかし、仲間達と共に何度も会議をして岡先生の意志を継いでいこうと決意して、翌年10月1日にここをようやく設立したのです。岡先生がこうした歴史資料館を設立しようと提唱されなければ、この資料館は存在しないのです。従って岡正治記念と銘をうっているわけです。私は当時長崎大学の教員でしたが、果して何年もつものか、日本語では「石の上にも三年」と申しますから、倒産するならしてでも3年間はもたせようと思いました。そして昨年は何時しか20年を迎えました。この10月に21年となりました。現在22年目に入ってという、ああこれだけ維持できたものだなーと思いながら嬉しく御来館下さった方々に心から有り難く思っています。
何がこの資料館を20年以上も支えたのかということについて、簡単にお話したいと思います。ここにもその一節を展示していますが、子供達が書く感想文、それには「あー知らなかった。何故学校で教えないのか、本当の事を知った上で韓国の皆さんとも、中国の皆さんとも仲好くなりたいと」こういう事を素直に感想文に書いてくれた。日本の教科書は歴史を隠したり、歴史を捻じ曲げたりしておりますが、こういった資料館を見学した子供達は非常に素直に、素朴に日本は酷い事をしたんだ、それを知った上で核兵器廃絶訴えることもしなければ、国際的に通用しないということを、素直に書いてくれまして、私はそれを最初書斉で読んだ時に、正直な話、涙が出ました。それから歯を食いしばって、また支援者を求めて維持運営していくぞと決意したのであります。もう一つこの資料館が20年以上も運営できた大きな宝、それは受け付けをして下さる方が、午前と午後をローテイションで回しているのですけれど、何と30人も支えて下さっている。今日受付をして下さっているのは、元中学校の国語の先生で森口政彦(?)先生で、最初から受付して下さっている。また被爆者でもありますので、フィールドワークは、これは森口先生の右に出る人はいないという、原爆の証言としても非常に素晴らしいものです。

・森口先生:私は7歳の時に長崎で原爆に遭いました。家族は9人いましたが、今生き残っているのは、兵隊に行って帰ってきた兄が一人と私の二人兄弟しかいません。私の記憶の中には、この西坂町は全滅していたんですが、沢山の白骨が散らばっていた。ここから爆心地まで約2.3キロです。私7歳の時にはっきり記憶しているが、長崎には沢山の朝鮮の人たちが強制連行されて造船所で働かされていた。朝6時ぐらいから造船所に連れてこられ、帰りは9時とか10時に帰る。私は造船所の近くに住んでいたの、彼らが、固められたり、何人かグループになったりして通っていたのを見た。直ぐ近くの方で大きな防空壕を掘らされていた。全部被爆した。一昨日も日本の中学生を、朝鮮人の被爆者、中国人の被爆者のコースをフィールドワークしました。しかし、日本の中学生も、高校生も全く強制連行も強制労働も、日本が植民地にしたということさえ知りません。それでこれを見せました。1937年に日本で出された地図です。日本は赤く塗ってあります。台湾も赤くぬってあります。これは中国の清からロシア戦争の時に奪いました。朝鮮は1910年に奪いました。こういうのを見ると、日本の中学生は77年前の出来ごとが分かる。ほとんどの中学生は日本は被害国だとしか思っていない。しかし、加害国だと知った時に大きな衝撃を受けるようになる。そして自分達が今から何をしなければいけないかということを、考えるきっかけを持つようになる。出来るだけ韓国や中国の生徒達と日本の子供達が、本当の歴史の真実を知りあって繋いでいき平和をつくって頂きたいと思います。

広島、長崎での民間による実態調査によって、どれほど少なめに見ても朝鮮人として差別されていた人々が、被爆したのは最低限10%を下らないということが明らかになっています。広島では3万人が亡くなり、長崎では少なくとの1万人が亡くなったということが、岡先生や広島のイ・チルウンさんの調査によって明らかになっています。ですから私が時間のある限り何時もお話させて頂いているソ・ジョンさんという方は、原爆で亡くなられた痛ましい被爆者の非常に象徴的な方ということになります。今世界遺産になって観光客が沢山押し寄せている軍艦島、端島というのが正式な名称ですが、そこに14歳で朝鮮から強制連行された。14歳と言えば中学校2年生です。その少年がいきなり日本へ行く事になったんだと、暴力的に連行されて厳しい海底炭鉱で労働させられていたということです。然しながら、ソ・ジョンさんはこれで生きて帰れるかもしれないと思ったと言われる半年後に、この三菱長崎造船所に同じ三菱のコンチェルンとして配置換えになった。しかし、そこで原爆に遭う訳です。三菱での朝鮮人収容寮というのは各地にあったんですけれども、端島から配置換えになった人達が住まわされていたのは、この幸町工場にありました。爆心地から1.7キロです。原爆の投下の時刻1945年8月9日11時2分、昼ですけれど、もしここに居たら亡くなっていた可能性が高い。しかし、三菱長崎造船所というのは4キロか6キロと離れています。そこで被爆します。鉄板が舞い降りてきて足に大怪我をされたんですけれど、それでも死体の片づけとか、瓦礫の処理をさせられて、重労働、原爆後のそういう重労働をさせられた。ソ・ジョンさんは何故仲間と共に帰国されなかったのかと言いますと、両親がその時に名古屋に居られたから、両親にも会いたいということで日本に残られた。しかし、海底炭鉱での貧しい食事、そして長時間労働、さらには被爆ということが影響していると思いますが、肺結核になられて、当時結核と言えば強制入院、そこでもう帰る事が出来なくなった。これだけは最後に必ずお話したいと思うんですけれど、ソ・ジョンさんは私を弟のように可愛がって下さり。何度もお会いして食事などもする時に、私にこう言われました。歳は私の方が若かったのですが、「先生ね、強制連行も原爆も恐ろしいけれど、本当にもっと恐ろしいのは差別ですよ。」朝鮮人被爆者で大怪我をし、原爆で体を怪我していても、「お前朝鮮人だろう、そっちいっとれ」とか、治療を十分受けられなかたという証言もあります。そしてソ・ジョンさんは入院先の病院でさえ差別を受けて、日本人の患者から朝鮮人が日本に残っているのは大迷惑だ、早く朝鮮に帰ればいいのにというふうに暴言を吐かれる。そこで時には殴ったり殴られたりということもあったようです。自分は日本に来たくて来たのではない。どうして日本に来て原爆にまで遭ったのか、炭鉱で働かれたのか、お前知ってるかと言った。相手は知らんと言った。そういって口論になった場面で、その病院の医者がですね、ソさんは優しくて真面目だからそんなに言うなと言ったのに対して、その日本人の患者は医者に対しても楯つくといいますか、お前は朝鮮人の肩を持つのかという話も聞きました。戦後未だに二つの国に分断されているというのも日本に大きな責任があると、私は思いますけども、戦後も日本は韓国民族に対して差別を改めませんでした。そのもっとも分かりやすいと言いますか、皆さんに理解して頂きたいのは、同じ被爆者であっても、日本から帰国されたり、或いは移民でブラジルやアメリカに行った人も含めて、被爆者でも差別した、そこに日本の戦後の差別の象徴的な事実があると思います。そしてソ・ジョンさんは、この資料館を設立する時にまだお元気でしたので、強制連行、被爆のことを詳しく私達に話して下さって、そして最後には生活保護を受けておられ決して楽な生活でありませんでしたのに、これを使って下さいと大金を寄付して下さいました。ですからソ・ジョンさんは強制連行や被爆の証言者だけでなくて、この平和資料館の設立に関しても恩人と言う人です。
ご挨拶と言いながら長くなってしましました。当時の朝鮮人を住まわせていた三菱造船の非常に大きな寮もありましたが、この様な原爆によって、ひとたまりもないような吹けば飛ぶようなバラックに住まわされていましたので、ここでは強制連行の歴史を展示しております。
これがソ・ジョンさんが食べさせられていた食料です。こちらが主食と言われるもので、玄米2割と豆かすが8割。豆かすと言うのは大豆から油を絞りとって後のカスです。しかし、当時の大豆の多くは日本が植民地にしていた満州から輸入しておりましたので、腐っているものが多かった。長崎は水産県でイワシやアジが沢山獲れるんですけれど、イワシを大きな風呂釜のような鍋に、頭も内蔵も取らずに、ただぐつぐつと煮込んだものでした。これを食べるとじゃりじゃりしてお腹を壊して下痢をする、非常にきつくなって今日は働きに行けませんと言うと、監督からこの怠けものが、勝手はできんと言って殴ったり蹴ったりしたんです。それで14歳の少年は、はい、働きに行きますと言うまで殴られました、と私達に話されました。皆さんに良く理解して頂きたいのは、連行や強制労働が過酷であったというだけではなく、日本全国にあった朝鮮人強制労働の場所、中国人強制労働の場所はどこででも暴力が支配していたのです。先ほどの森口先生が話されましたように、日本が日露戦争で獲得したサハリン、日本では樺太と言っていた所から南は沖縄まで、朝鮮人の強制連行、強制労働のなかった場所はないというほどの日本全国は、強制労働の現場でした。そこにある気鉢寮というのが三菱造船所の最も大きな収容寮でした。この寮は10棟あったのですが、1棟は食堂でした。この廃屋ちかくなっていた所にも住んでいた方もある。これを保存、日本の植民地支配の歴史を語る場所として保存運動を岡先生はされました。これは81年に世界の人へという朝鮮人被爆者の記録映画第一作として、盛善吉という監督のもとに制作され、全国上映運動したんですけれど、その頃に撮ったものです。当時は既に三菱造船の所有ではなく山田水産という民間の会社の所有だったんですけれども、86年に遂に解体撤去されてしまいました。そして内部には、これも私達の仲間が写真を撮ってくれましたが、そこにあります様に、「至誠、半島王朝史 頑張れ、習(?)、忍苦、鍛練」等ということが書かれていたのです。朝鮮人差別が非常に象徴的な言葉が半島人、半島人のくせになどと三菱でもその他多くの土木工事現場でも言われていたのです。
教科書に載っていない日本の植民地支配の歴史として、必ずお話ししているのは、明成皇后虐殺事件です。皇后と言えば、日本では誰ですかと言ったらそれは美智子さん、皆言います。美智子さんが突然外国人から撃たれたり、切られたりして殺されたらどう思いますか、と聞きますと、それはダメですよ、と皆んな言います。しかし、日清戦争直後1895年10月に明成皇后の宮殿に三浦梧楼、時の日本の大使を先頭に無頼漢達が押し寄せて日本刀で虐殺したんです。その日本刀が今まだ福岡の櫛田神社に奉納されています。
もう一つは福沢諭吉です。彼の侵略思想というのは、その思想的な恩師ともいうべき吉田松陰という人が、彼は個人的には安政の大獄で処刑されまし、個人的には不幸な死でありましたが、「取りやすき朝鮮、満州、シナを切り従え」と、非常に広大な侵略思想を持っていた。即ち吉田松陰と同じ思想を繰り返したのが福沢諭吉です。その吉田松陰の最大の弟子が伊藤博文。自分の師に当たる吉田松陰の思想を明治維新後、活かして朝鮮植民地支配、日清戦争、日露戦争、そして台湾植民地に繋いでいった。例えば「朝鮮はアジア中の小野蛮国にして文明は遠く日本に及ばず」、これが日清戦争の15年前です。「未開ならばこれを誘うてこれを導くべし。彼の人に果して頑陋、頑固で卑しいならば、これを諭して遂に武力を用いてもその進歩を助けん」などと。私はこう言った事を歴史的な事実を記憶すればいいと言っているのではありません。吉田松陰が、私塾として営んでいた松下村塾を、去年の7月軍艦島(端島)と同時に世界遺産にしたんですよ。それは安倍晋三の同じ故郷で、自分の大先生として尊敬しているのです。そして福沢諭吉を1万円札の肖像画にしているところに、日本は決して植民地支配や侵略戦争を反省していない。現在も外国に対してして蔑視、思い上がった思想を押し付けていることがはっきり現れていると思います。私は日本人として、このような日本の戦争の歴史、植民地支配の歴史を隠したり曲げたりするのではなく、これからもっと良い世界に信頼される良心的、倫理的な日本になってほしいと思って、この資料館を運営しています。
朝鮮民族であるならば誰で知っているユ・グァンスンさんについてお話したいと思います。中学校の教科書にはこれは載っていない。高校の教科書には載っている。1919年に自分のお妃が殺されて高宗が亡くなります。丁度アメリカの大統領ウイルソンが、民族自決主義、民族はそれぞれ自分の未来を或いは政治を決める権利があるということを宣言しましたので、その高宗が亡くなったこととウイルソンの民族自決主義に啓発されて独立運動がおこります。朝鮮全土で朝鮮独立万歳という独立運動が、展開されました。その時ユ・グァンスンもデモの先頭に立つんですが、両親は日本兵によって射殺されます。僅か15歳のユ・グァンスンは、それからも独立運動の先頭に立ったために捕まえられて、西大門刑務所に収監され拷問で亡くなります。そして「最後に日本に私を裁く権利はない。日本は必ず滅びる」と訴えたといわれます。こういった私は専門がフランス文学なもんですから朝鮮のジャンヌダルクと言われている所も大きな感銘を受ける事ですけれども、こんなに悲惨な拷問死をした韓国、朝鮮のジャンヌダルクを忘れてはならないと思います。
※柳神父からコメント;ジャンヌダルクは武器を持って戦ったが、ユ・グァンスンは武器を持たないで戦った。だからジャンヌダルクとは違うので、ジャンヌダルクとよばないで欲しい。

2.岡正治氏について
岡まさはる先生の半世記、人生の前半を書かれた「道ひとすじに」という著作があります。昨年ハングルに翻訳したのでそれが最適だと思います。韓国からのお客様が次々に買って下さるので、1冊しか残っていません。1945年8月6日、広島の原爆の時、海軍兵学校という日本の海軍の最高学府である海軍兵学校は、江田島にありまして、そこで無線通信の教官をしておられたのです。江田島は被爆地に入っていませんが、そこから広島原爆の原子雲を目撃することができました。出征を拒絶していましたので、最後まで下士官、下っ端の海軍兵士でしたけれど、自分の生徒達、将来幹部になっていくことで生徒の方が位が上という立場だった生徒達を、被爆地広島への救援に向かわせます。自らも三品に救援物資を運んだりするなかで、この戦争を続ければ日本は滅びると思いまして生徒や自分の同僚達に「天皇に戦争を止めようと訴えに行こう」と演説をされました。戦争の敗戦が近い状態とはいえ、日本の軍国主義のあの猛烈な弾圧中で、岡は狂ったと、周りの人は驚き、たちどころに上官に捕まえられて殴られたりしたのです。ご自身は軍法会議に掛り、銃殺されるのを覚悟で話したと、言っておられました。たちどころにリンチを受けて地下室に閉じ込められました。
小倉で洗礼を受けておられましたので、戦後のこれからは神に対して牧師として仕えたいという思いを抱き、33才でルーテル神学校に入学されます。二人の子供を連れてお連れ合いと共に東京で過ごされるのですが、残念なことにルーテル神学校を卒業する前に奥様は結核、結核と言えば当時は直らないと言われていたんですが、それで二人の子供を残して亡くなられます。ずうっと後になりますが、1994年7月にお亡くなりになる時、一人住まいだったとことが、二つ目の大きな不幸であったと、私はもう少し気をつけてあげればと申し訳なく思っています。この様に戦争反対というのは、海軍の兵士として、潜水艦で戦場を廻ったこともあり、南京に行かれたこともあるそうですけれども、そういったことから、この戦争は侵略戦争、日本のアジア侵略戦争であることを、非常に認識しておられることが分かります。そして38歳になって牧師となり、長崎で35年間日本福音ルーテル長崎教会の牧師をなさった訳です。1971年に市民から是非市会議員になって欲しいと、押し上げられ、無所属で非所属として立候補され、3期12年間市議会議員をされている間に、朝鮮人達がどういう理由で被爆したのか、日本人は好むと好まざるとに拘わらず戦争した国の国民である、その責任は免れない。しかし、朝鮮人は無理やり日本へ連れてこられ、或いは植民地支配の中で生活出来なくなって、日本に来た人達だ。この人達が原爆に遭ったことを、日本人はしっかり理解し、反省して、日本人より優先的に援護すべきだと、当時の市長に訴えられました。市長や他の議員達、革新も含めて岡さんが話をしている時に失笑を買うと日本では言いますが、薄笑いをしている状況でした。皆さんもご存じの通り日本は1957年に原爆医療法を制定して、被爆者への医療費の国費負担を決めました。11年後の1968年に原爆特別措置法を制定しました。所謂諸手当、その最大のものは健康管理手当ですが、これを支給するようになりました。当時これを原爆二法と申しましたけれど、然しながら日本国内の在住者に限ると、手帳を持った上で日本国内の被爆者に限るとして、在外被爆者は全て排除しました。それはあまりにも不当且つ差別、排外主義であると、強く訴えれられたのですが、市議会、県議会、日本国政府も何ら善処しようとしませんでしたので、自らこつこつと調査をする中で、遂に1974年にソンジント裁判、福岡であった裁判ですが、その判決がでます。
ソンジント裁判が、日本の在外被爆者の差別に対する抵抗の風穴を開けた最初の裁判ということが出来ます。私は日本政府の批判とか、或いは日本での反核平和活動に対してただ批判するために申上げる訳ではありませんが、この1974年4月のソンジントさんの裁判というのは、非常に重要な韓国人の起こした裁判と思っています。当時既に原水爆禁止世界協議会また原水爆禁止国民会議、社会党系及び共産党系の大きな反核平和団体がありましたけれど、このソンジントさんは福岡の拘置所に収容され、そして大村収容所におられた中で、提訴したこの裁判に、この二つの組織は支援しませんでした。申し遅れましたが、ソンジントさんは何故提訴したかと申しますと、自分の病気、健康を害しているのは広島での原爆のせいに違いないと、日本に居れば治療を受けられる。韓国に居るというだけで受けられないのは、納得いかないとして、所謂日本語でよく言う密入国、悪い言い方ですけれど、不法入国して、そして漁民の通知によって捕まってしまった。日本に沢山家族がいましたし、韓国に帰った被爆者と一般の人が沢山いましたから、家族を求めて、日本に入国許可を申請しても、許可されないので、多くの人が漁船等で日本に不法入国したんです。それ見張って、通告した者には当時お金がでた。在外被爆者、韓国在住の、戦後帰国した被爆者が、拘置所から提訴したというが大きく報じられた。福岡地方裁判所でしたけれど、これは放っておけないと言って、支援に乗り出したのは、福岡では伊藤ルイさんと言って、これは関東大震災での朝鮮人虐殺、約7千人も殺されたと言われる。この中で、日本人で所謂無政府主義者や社会主義者や、労働運動家なども殺されましたが、その中の大杉栄さんという方、この方の妻の伊藤野枝の養子であった橘宗一と共に井戸に投げ込まれて殺されましたが、その娘さんです。1974年4月に福岡地方裁判所の判決がでたのですが、これはソンジントさんの勝訴となりました。その判決理由と申しますのは、例えば不法入国者であっても日本に現在住んでいる限りは、この原爆二法を適用すべきであるという判決でした。日本では強制連行、強制労働、侵略戦争における虐殺、虐待に対して、100件を超える裁判がありますが、全て負けています。何故ソンジントの裁判は曲りなりにも勝利したかと言いますと、日本人の被爆者が当時40万人も50万人もいて、在日の韓国朝鮮人被爆者はその原爆二法が適用されていたので、見え透いた差別になってしまうので、これを排除することは出来ないと考えたのでしょうね。もう一つの理由は、これは非常に重要なことですが、例えば朝鮮人で特攻隊に駆り出されて戦死した人もいますし、現在靖国神社に21、182人という朝鮮人の戦死者が遺族の意志を無視して祀られている。靖国神社に祀るには、それは遺族として納得できないといって、合祀から消してもらいたいと裁判もありますけれど、ここが又日本の戦後の卑劣な政治の最たるものと言うべきですが、日本は、日本人の戦争犠牲者に対してだけ年金等による援護政策とっている。簡単に言えば軍人軍属年金と言っていいんですが、これを制定したのは、日本が国際社会に復帰する1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効、これが効力を発揮して、その二日後に軍人軍属年金法を制定して、日本のために戦争で亡くなったんだから援護してきたと言う口実、しかし日本国籍を持つ者に限るとやった訳です。日本国民の一人として情けなく悲しく思いますけれど、しかし原爆二法にはこの国籍条項というのはないのです。そこで福岡地方裁判所は、この原爆二法は国家補償の精神があると考えられるというふうに判決を下して、ソンジントさんに対する医療支給を命令した訳です。そこで日本の厚生省、現在は厚生労働省といいますが、そこが考えたのが、真に卑劣な通達だった訳です。判決から3ケ月後の1974年7月になって、厚生省の公衆衛生局長という一介の単なる局長の通達によって、今後国外の被爆者は、つまり日本に来た被爆者ではなく、帰国したり、既に帰国してしまった被爆者はこの原爆二法の適用としないと、日本に居るものに限ると言ったんです。これを402号通達と言います。そこで一般の市民や反核平和団体なども、韓国で入院したり、病気で苦しんでいる人を日本にお招きしたり、或いは自ら資金のある人は、日本に来て治療を受けるようになりました。しかしそれは余りにも差別だと、あからさまな差別だということで韓国で裁判を、韓国原爆被害者協会の会長でカクキフン先生が大阪地方裁判所に提訴します。被爆者健康手帳と言うのは、全国の都道府県の知事若しくは長崎市長、広島市長に、申請しなければならないとなっておりますので、大阪知事を被告にして裁判を起こした訳です。そしてここでも被爆者の裁判は大阪地方、高裁と勝利しました。その時の大阪府知事は太田房江さんという女性の知事でしたが、このような不名誉な被告にはもう耐えられない、もう上告はしないで、カクキフンさんの勝訴を確定したいと、厚生労働大臣と相談します。当時の厚生労働大臣は、現在の公明党には落胆しておりますが、当時の公明党の坂口力という大臣でした。太田さんと坂口さんの相談の結果、内閣としてもこれ以上裁判を続けても勝ち目があるまいということで、最高裁に上告しないで判決が、確定し漸くして在外被爆者に対しても援護、医療費の支給を受けられるようになりました。判決は2002年12月だったんですが、2003年3月から402号通達を廃止することによって、在外被爆者排除を改めることにしました。岡先生もカクキフン裁判については全力で支援をされたんですが、2003年に廃止になって被爆者であれば全員在外での健康管理手当とか医療の支給が、受けられるかというとそうでもなかった。それは何故か、先ず第一に手帳を持っていない者は、被爆者として認められない。手帳が欲しいと言っても、その時は二人の証人が要る、または証拠書類が要るということで、あなたは証拠がない、証人がいない、だから被爆者としては、認められないという長崎市長や都道府県知事が認めない。被爆者は手帳を持っている場合でも、ソンジントさんのように既に手帳を受けとり、日本で治療をうけたことがあるといった人に対しては、年金証書、あなたはこれから3年なり5年間の援護を支給しますという証書が、これが3年とか5年ですから、それを過ぎている者はもう無効だということになる。私は持っていたんだから、それを復活するために更新の手続きをしなければならないのですが、日本の被爆者の皆、更新の手続きをして今もずうっと受けている。しかし韓国の人は更新していないので、又日本に来て申請しなければいけない、それを来日要件といいます。日本に来て手帳を申請する、或いは年金証書の申請をする。そうしなければならないのだというのが、厚生労働省言い分な訳です。従って再び多くの韓国の在住の被爆者、或いはアメリカ、ブラジルの被爆者が日本に来て年金証書の更新、又は手帳申請のために日本に来られました。然しながら既に寝たきりの状態に、病院に入院している人では、今日本に来れば命が危ないかもしれないという人が当然ある訳です。その人の裁判も長崎で行いました、チェゲチョル裁判と言いますけれど、寝たきりの人まで日本に来いというのはそれは違法であると判決で又勝訴しました。そして最後に到り日本政府が考えましたのは、これからは在外公館、例えば領事館とか大使館に申請してもよいという。最初からそうすればよいと言った訳です。現在そうなっていますけれど、最後に残ったのは手帳そのものの証人を見つけるのが非常に難しいということ、しかしそれでも何とかそれを克服して申請する場合に、日本に来なければダメだというのを、又、厚生労働省、日本政府が要求した訳です。それで手帳を家族も取っているのにお母さんだけ手帳がないという人がいまして、この人が被爆者でないということはどうしても考えられないということで、又裁判をしました。これも日本政府、又敗訴しまして、手帳申請に際しても、在外公館で出来るようになりました。最後に残ったのが差別というのは医療費の支給です。医療費だけは日本政府が先ほどの裁判で負けてから、在外被爆者に対しては今年は13万円まで、今年は15万円までと上限を設けて支給していたんですが、日本国内の被爆者のように全額を負担しませんでした。これも差別ということで、当然大阪、広島、長崎で裁判をしまして、結論だけ申しますと、昨年の9月18日に遂に日本の最高裁判所で、医療費の差別が違法だとの判決で又原告が勝訴しました。ですから現在最大の問題は韓国原爆被爆者協会でも言っておられるように、百人を下らない被爆者が手帳が取れないこと、申請しては却下される、そして却下されたことに対して裁判がもうじき起こすことになっている。
日本人の被爆者の方にも、日本が戦争した結果として原爆まで落とされたとしても、原爆は使ってはならない兵器だと、従ってアメリカ政府に損害賠償の裁判を起こしたいという人はありました。しかし結局それは出来ませんでした。それは何故かと申しますと、裁判をするのには勿論弁護士、代理人が必要です。それと相談する中で最大の難点というのはサンフランシスコ講和条約でした。サンフランシスコ講和条約によって、例えば朝鮮人民民族戦争犠牲者は国籍条項で排除されたということもありましたが、このサンンフランシスコ講和条約の締結というのは、日本国及び連合国及びその国民(邦人を含む)は戦争賠償の請求を放棄すると明記されている訳です。いくら国家間の条約とはいえ個人の賠償請求県を奪うことは出来ないという国際法の解釈もできますけれど、しかし日本国及びその国民が請求権を放棄するとなっていると、アメリカで裁判をしても受理されないであろうということになった。それじゃ朝鮮被爆者はどうなのかと、日本国民と言えるのかと、日本国民及びその国民の請求権放棄の中に含まれるのか、ということがアメリカ政府に問われる、これは重大な法的な問題ということになります。もしサンフランシスコ講和条約によって朝鮮被爆者の賠償請求権を放棄されているとアメリカ連邦裁判所が判断するならば、日本の植民地支配を認めることになる。そこでアメリカ政府としても連邦裁判所としても、これをどう判定するか、世界を震撼させるともいうべき重大問題だと私は思います。

(井上浩氏記載)