金民雄教授講演(2)

「韓国キャンドル市民革命に学ぶ」講演会

講師:金 民雄(キム・ミヌン) 慶煕(キョンヒ)大学教授
日時:2017年5月28日 15:00から18:00
場所:南YMCA

1.はじめに
大阪は私が生まれた所なので、本当に来たかったです。大阪城で当時遊びました。あれから56年振りです。韓国の市民革命は成功しました。韓国の新しい大統領は毎日国民に希望を与えています。それでは日本では、市民革命は可能でしょうか。国際平和のためにも韓日市民連帯は可能でしょうか。これが今日私が、述べることです。

2.キャンドル市民革命の特徴 
韓国の市民革命は長い歴史をもっています。
今回のキャンドル市民革命は約2ケ月続きました。ローソク1本を持っていることはとっても小さくて弱い行動でした。ローソクを持つことに反対した人はいました。風が吹いたらローソクの火は消えてします。その中で知らない事実が一つあります。ローソクが歴史を変えました。始めはそんなに多くの人が集った訳ではありません。1万人、10万人、いつの間にかに100万人になりました。これはソウルだけの話です。全国では1,000万人が集まりました。無視できない状態になりました。
3月に私は日本に来ました。東京で講演をしました。その時、私はキャンドルデモの中にいました。これが成功だろうかという不安は抱いていました。今回は嬉しい気持ちで日本に来ました。市民革命の1段階目は成功しました。旧権力の体制は変えました。しかし、これからの道はまだ遠いです。しかし今の勝利の感じがとても重要なのです。勝利だけではなく、勝利の内容が重要なのです。20回もデモがありました。毎週土曜日に集まりました。休日がなくなりました。どうしてこんなことが可能になったのか。特徴を次に述べます。

① 暴力がない平和。これは重要である。この暴力のない平和をつくるまでには長い長い時間がかかりました。警察の武力による鎮圧は続いていた。一人の年配の方が死亡しました。この事件は重大なものでした。警察はこの事件により武力による鎮圧ができなくなりました。警察はこれにより非難を浴びました。市民は警察にきっかけを与えないように注意しました。最初は市民と警察の間には緊張感がありました。警察は罠をかけていたが、市民は決してその誘いに乗らなかった。市民は警察と対峙するとき叫び声を上げました。「非暴力、平和」、「非暴力、平和」。それで衝突もなく平和デモになりました。もう一つ重要なことは、デモの広場が安全な所になったことです。女性たちが参加することになりました。子供を連れて参加することができるようになりました。中学生、高校生も参加することができるようになりました。それで人数が増えてきた訳です。人数が増えたので勢力が増しました。キャンドルを持つということは弱く見えるかもしれません。しかし、全ての人がキャンドルを持っていたら、その光景は大変感動的です。100万人がローソクを持っている光景を想像してください。私はその中に参加した一人に過ぎません。しかし、私が参加して100万人になったのです。私が何故存在しているのか、その存在が重要な意味を持ちます。ローソクなしで参加すると自分の存在がなくなった感じがします。キャンドルを持っていると私の存在が蘇った感じがします。とても新鮮な経験でした。そのものすごい光景を通して市民たちは感動しました。この感動は連帯と結束を形作りました。年齢、学閥、全てのものがそこでは消えてしまいました。一つのキャンドルは弱いですが、一つになったキャンドルは強い力になります。皆さんが理解できるかどうか、分かりませんが、ローソクを持った人たちが次々にウエーブを作ります。とてもきれいな光景でした。ただきれいと言うだけではなく、市民たちが自らの力を確認した瞬間でした。

② これまでの集会では、リーダーがいて反対していました。今回は舞台に上がってマイクを持って上がった人は今まで舞台に上がったことのない人々でした。田舎から来たおばあさんがいます。大学を卒業していない派遣の人々がいます。中学生が舞台に上がっています。高校生がいます。無名の女性が上がっています。今まで話さなかった人々の声が広く行き渡りました。直接民主主義の現場になった訳です。これまで集会をリードしてきた人たちは、舞台を用意し、マイクを用意し、それ以外は何もしません。これもとても大変な変化でした。これは市民の成熟によってなされたものです。私たちが声を上げて直接に言い、これが歴史的な完成であり、人々はお互いに話を聞き合い、権威ある知識人たちだけでなく、市民たちの話し合いで、もっとも感動的でもっとも生き生きした話を聞くことができました。

③ 集会は集会の場所だけで終わった訳ではありません。いろんな所で話し合いがもたれました。集会の場所は、政治だけでなく、教育の現場にもなった訳です。激論をします。その前にもっとも重要なものが一つあります。フェイスブックです。フェイスブックを通して意見を交わし始めました。そこで激しく議論を行いました。現場に来る前に討論をして集まってきました。もう一つ面白い点があります。これまではデモが始まると商売している人々が、「あなた達のせいで商売ができなくなった」と文句を言いました。食堂も閉店しなければならないと、不満を言いました。今回はそういうことがなかった。デモが終わり、食堂に行き夜通しで酒を飲みながら激論をしました。特殊な商売繁盛になった訳です。それ故商売をしている人々まで応援するようになりました。このような状況になれば想像できますでしょう。お祭りが始まったのです。緊張感のあるデモが、生きがいを感じるお祭りになりました。

以上私たちが経験したこれまでのデモとは全く違ったものでした。ケガをしたり、連行されたり、悲惨な光景でした。しかし今回のデモの最初は悲惨なものでした。何故以前のようなデモから解放されたのか。この理由は市民たちが自分の力を確認したからです。自信が溢れました。

3.デモ開始から政権交代
今回選ばれた文在寅大統領は、党の代表の経験もあります。盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の秘書室長としての経験があります。しかし、人々は皆心配しました。彼にはカリスマが足りない。もどかしい。しかし、大統領になった後は、皆喜びました。人々が気づいたことがありました。新大統領は、自分を全面に出す人ではありません。人々が意見を前で主張する時は力があります。
リーダーがカリスマを持っている訳ではない。市民がまさにカリスマである。そのカリスマを自分のものにするとその人が本当のリーダーになる。私が言ったことを今目撃した訳です。とても不思議な経験でした。これは今の大統領をほめるための話ではありません。新しい大統領と新しい政府はキャンドルデモの上にいます。キャンドル市民革命の精神をもって政治をしなければ何時でも攻撃の対象になる可能性がある。市民は何時でも支持を撤回することができます。その結果を前の大統領で目撃した訳です。前の大統領は今拘束の状態にあります。信頼を無くした結果がどうなるかをはっきり見せた光景でした。この20回にわたる過程は簡単なことではありませんでした。初期に呼びかけたのは、「朴槿恵は退陣せよ」ということでした。しかし、誰かが「朴槿恵を拘束せよ」と。その時は、誰もついてきませんでした。それは過激し過ぎると。それが3回、4回と続くと人々は同じことを訴え始め、その通りになりました。
このデモで一番重要な役割をしたのは労働者階級でした。今回のデモで労働者は賢い行動をし、決して前へ出た訳ではありません。初期に2回ほど労働者の問題を提起しただけです。その時市民団体の反応は冷ややかでした。問題は朴槿恵です。何故労働問題を提起しているの、という状態になりました。
途中で「サムソンの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長を拘束せよ」との訴えがでました。人々はそれに従いませんでした。何故でしょうか。それを聞いた人は、その過程で大企業の横暴等を知るようになったという訳です。「サムソンの李在鎔(イ・ジェヨン)副会長を拘束せよ」という訴えは、初めは人気がなかったのです。しかし、人々はそのスローガンを言い始めました。今はどうなりましたか。李在鎔副会長は今拘束されています。これで皆は感じました。市民の力がどれほど怖いものか。この市民革命の過程で市民の意識が進化し始めました。これはとても重大なことです。
この力によって自信を取り戻したマスコミは、真実を暴露し始めました。それにより大きな力を持ち始めました。マスコミの力はとても大きいです。マスコミは社会の教育の力を持っています。人々が真実を知るようになり、怒りが爆発するようになりました。何をすればよいかを正確に感じ始めました。避けることはできません。市民は一歩一歩ずつ前に進み始めました。
しかし、その中で不安感を持っていました。それに対して朴槿恵政権はびくともしなかったから。制度圏も信じることはできませんでした。市民たちは立ち上がりましたが、制度圏は、またも私たちの知らない間に、解決するかも知れない。自分たちの間で今取引が行われているかも知れない。これまではそうなってきた訳なので。
それで最初は制度圏、特に野党は市民革命に参加しませんでした。市民革命の力を信じていなかったからです。彼らは最大の政治的な取引を試みました。例えば、初めに人々が発していたスローガンは、朴大統領自身に交代を要求していました。市民たちは退陣を要求したのに、それとかけ離れたものでした。市民たちはこう思いました。朴槿恵の退陣は政治的な障害の解消になる訳ではない。なんの条件もなしで退陣しなければならない。この中で面白いことが一つありました。大統領が退陣すると、国政の穴ができます。その状況になると政府は不安になるかも知れない。野党も退陣を訴えていない背景にはこの不安感がありました。野党が朴槿恵の退陣を要求するようになると、市民たちの中で誰かはこの不安を感じるかも知れない。それは制度圏としては逆の風になる可能性がある。それで自信を失くした訳です。しかし、今度は市民たちは国政巨悪に対しての不安感を一つも抱いていませんでした。朴槿恵が退陣しなかったら国政は元に戻らないことを考えていました。国政巨悪に対しての政治的なことは市民たちには通じなかった。
もう一つ、こんな政治的な危機がある時は、北朝鮮と韓国の緊張を利用したものです。しかし今度はこれも効果がなかったです。今までこの欺瞞に騙された人は、今回は決まっていることを知ったからです。だから今まで制度圏で使われた道具は今回のデモでは一つも使うことができませんでした。結局こんな過程を通して市民革命は市民に強大な力を与えました。一番主要な結論は既に下しました。朴槿恵は退陣して拘束しろ。

4.デモで歌われた歌
このデモの現場で歌われた歌があります。さきに述べたように、子供たちも楽しく現場に参加する現場になりました。その歌を覚えていますか。もう一つ面白い歌があります。歌詞は、大韓民国は民主共和国である、全ての権力は国民から出るものだ。ものすごく有名になった歌です。リズムもとても興味深いです。とても楽しいです。歌を歌います。
この歌は今回の市民革命の精神が何かというものを見せるものです。私が知っている若い夫婦がいます。2才の子が毎日この歌を歌っています。中学校であった話です。学校には教室があって廊下がありますね。子供が走ると先生が注意します。中学生らは、朴槿恵は退陣しろ、大韓民国は民主共和国である、と叫びました。先生はどうすることもできませんでした。これが韓国の雰囲気でした。女性と子供が立ち上がると勝つことができます。男性たちのみが立ち上がると警察が鎮圧することができます。子供たちと女性たちが立ち上がると警察もどうすることもできません。女性が正に革命家なのです。

5.60年代からの歴史
市民革命は数か月の間で起きた話ではありません。これは長い歴史を持っています。短くすれば60年代からのことです。60年代に朴槿恵大統領の父である朴正煕の軍事クーデター起きました。その前に李承晩政権がありました。李承晩は、昔独立運動をしたので、皆に尊敬され、絶対的な権力を持っていました。独立運動をしたことをもってオーラを持って誰もそれに抵抗できない人物でした。李承晩の後半は独裁政治で終わりました。学生たちが立ち上がってこの独裁政権を倒しました。
そしてその1年後朴正煕のクーデターが起こりました。全ての運動はできなくなりました。そうなるものと思いました。しかし、そうなった訳ではありません。民主主義の運動が起こり始めました。朴政権が崩れたのは1970年に入ってからです。18年間にかけての民主主義の運動がありました。多くの人々が亡くなりました。1970年代、朴正煕は維新体制を宣告しました。この維新体制というのは暴力的な体制でした。維新憲法に対する非難をしただけでも逃げなくてはならなかったり、友達が刑務所に入れられたり、厳しい日々を送っていました。私もその時に学生運動に参加しました。抑圧すればするほど韓国の市民は一歩も下がりませんでした。
1979年朴正煕は一部の部下に暗殺されました。それは単純な暗殺事件ではありませんでした。その時期にすでに釜山と馬山という地域で、市民たちの抵抗が始まっていました。この歴史的な力が朴正煕を追放する力を持つようになりました。それで私たちは新しい世の中が始まったと思いました。しかし、朴正煕が育てていた軍部の勢力がありました。1979年に朴正煕の体制は崩れました。しかし、私たちが気づいていないものがありました。朴正煕なしの朴正煕体制が維持していることを気づきませんでした。朴正煕が今まで育ててきた人たちが権力を握るようになりました。1980年代の春は、プラハの春と思いました。本当に新しい歴史が始まった。1980年5月光州でデモが始まりました。政府は軍隊をおくり、光州市民を虐殺しました。その事件は本当に怖い経験でした。これ以上民主主義を進めていくのは難しいであろう。5年間光州に関する話はできませんでした。
光州での虐殺事件は私たちにいろんなことを悟らせてくれました。光州市民たちを虐殺した時に論議がありました。南北分断の問題でした。南北分断の問題を解決しなければ民主主義は危機にさらされる。北朝鮮を利用して何時も南の政治に利用してきたのです。もう一つアメリカに対する幻想を捨てることができました。60年代と70年代に民主化運動はアメリカに対する期待感がありました。私たちを助けてくれるであろう。アメリカは民主主義国家であるから、しかし、1980年代の突撃隊の派遣は、その背後にアメリカがいるという真実に気づきました。皆さんはご存知かもしれませんが、韓国は韓国兵隊に対する作戦の権利を持っている訳ではありません。作戦権はアメリカが持っている訳です。韓国が勝手に突撃隊を派遣する訳ではありません。アメリカの黙認がなければ、またはアメリカの許可がなければ、そんなことが起こるはずはありません。80年代はその理由で抗議の運動が始まった訳です。非常に激しい反米運動が起こった訳です。
この過程を通して民主主義の運動は、朝鮮半島に対しての理解と世界に対する理解、が変わりました。戦争と平和の問題、東北アジアの問題、韓国と日本の関係、アメリカと日本の関係、この全ての問題を一緒に考えるようになりました。韓国の民主化運動だけでは全ての問題を解決することはできない。それにもかかわらず私たちが力を持たなくてはならない。アメリカに対しての期待は捨てました。統一運動がとても大切であることも知りました。国際間の変化を知ることもとても大切なことも気づきました。民主主義の運動がとても成熟することになりました。この運動の力で金大中政権ができた訳です。金大中政府と廬武鉉政府はまさにこの民主化運動の連続線上にいた訳です。
所がとても残念ながら廬武鉉政権が終わった後、李明博と朴槿恵政府がありました。その時私たちはこう思いました。今まで私たちは民主主義を固めてきました。誰が権力を持っていても民主主義が続くであろう。それに対して民主主義が崩れていく訳ではない。それは私たちの錯覚でした。一瞬で崩れました。民主主義がそんなに弱いものとは思いませんでした。民主主義は時間をかけて守らなければならないことが分かりました。例えば、金大中大統領は人権の問題に関してとても深い関心を持っていました。それは金大中大統領が昔から人権の弾圧を受けてきたからです。彼は日本とアメリカに亡命生活を送っていました。金大中がアメリカにいる時、助けてくれた人々はアメリカで60年代に人権運動をした人たちでした。その経験はとても大切な経験でした。
金大中政府になって以来、人権問題に携わっている憲法機関が設けられました。国家人権委員会です。これはとても大事なことです。世界どこへ行っても人権問題に対しての国家機関がある国は世界のどこにもありません。日本にもないでしょう。アメリカにもありません。とても大事な機関です。しかし、李明博と朴槿恵政権に亘って人権委員会は崩れ始めました。今回の新しい大統領は国家人権委員会を復権すると言いました。
検察と警察がいます。検察官は警察を指揮します。警察は独立したいです。捜査に対する独立権を要求しています。しかし、人々はこれに関して批判します。もしかしてそうなると今まで人権運動に関心を示していなかった警察が、もっと深刻な侵害をするであろう。警察は長い間、政治検察でした。検察にも問題があり、警察にも問題があります。両方が改革の対象です。検察から警察を分離するのは政治検察から警察を分離するものです。しかし人権意識を持っていない警察を独立させるとどんなことが起こるだろうか。それで今回の政府は警察の捜査独立権の前提より人権を先に解決し、国家人権委員会の勧告を受け入れる。とても大切な変革です。80年代、90年代から李明博に亘って民主化の運動は大変賢くなりました。運動圏側も賢くなりました。市民たちが力を持たなければ、政権によって何時でも孤立させられると思いました。孤立すると一番最初の方は、いくら犠牲の負担が大きくなっても、ここで犠牲になっても、非暴力のデモをすることが一番大事なことである。その結果が今回の市民革命に繋がりました。
一度考えてみてください。100万人が集まったにもかかわらず、翌日、道はきれいでした。一つの衝突もありませんでした。一つの問題もありませんでした。それは大変驚く経験でした。全世界をみてもフランスでどんなことが起こったかご存知じですね。10万人が集まったらどうなるかご存知ですか。車が燃えて転覆します。フランス革命があったのに、韓国の市民革命は正にそんな神話を設定した訳です。

6.100年以上前からの歴史
我々が歴史をみるとルーツはもっと遠いです。100年前の歴史から始まります。その100年の歴史は日本と深い関係があります。1894年に何が起こったかご存知じですか。東アジアでとても重要な事態が起こりました。東学農民戦争と日清戦争がありました。皆さんも日清戦争について教えてもらった経験がありますよね。この戦争はただの日本と中国の戦争と思われますが、しかしそれは真実ではありません。朝鮮の東学農民革命を鎮圧するための戦争でした。明治維新以来近代国家を設立した日本の最初の派兵でした。1894年は東学農民革命が起こった年です。1840年はアヘン戦争が起こりました。中国の中華思想が滅びる事件でした。1840年から100年にかけての中国の歴史は中国革命の近代史であります。1840年から1911年の70年間に、1911年に何があったでしょうか。中国の辛亥革命がありました。これは東アジアの全体がその輪の中に入っていることを示した。1868年は日本に明治維新がありました。東アジア全体が変革していた。日本は明治維新で答えた。
1894年は明治維新から30年が経っている。日清戦争は中国と清と近代国家の日本との戦争であると説明されている。日本の日清戦争の勝利は明治維新で推進してきた近代国家プロジェクトが勝利したことを示したものです。明治維新の正当性を確固にしたものでした。しかし、この戦争の後ろにあった朝鮮の農民たちの問題に気づいていませんでした。日清戦争の時の外大臣は陸奥宗光。彼が東学農民の4月の作戦を指導した人物です。陸奥宗光は「蹇々録(けんけんろく)」を表している。この本は長い間、外交の秘密の文章でした。今はこれを読むことができます。この本は当時の朝鮮の情勢を詳しく説明したものです。その当時の重要な関心は東学農民革命でした。天津条約で朝鮮出兵が「日清同等」になった。東学農民戦争が起こると中国が兵隊を送ります。この時の東学農民のリーダーは左右と競争します。理由はあります。外部の勢力と戦っていることに気づいたのです。全州という所が韓国にあります。これが有名な全州の条約です。東学農民革命を口実にして日本が軍隊を送ります。しかし軍隊を派遣した時は、東学農のリーダーたちはさらに問題を起こした訳ではありません。日本は国に戻りませんでした。その理由で日清戦争が始まりました。日清戦争を通して日本は朝鮮半島の清朝の影響力を排除しました。もっとも重要なのは東学農民革命のリーダー達は政府を攻撃します。全琫準(チョン-ボンジュン)という東学農民革命の有名な将軍がいました。日本軍により捕虜になります。日本は全羅道の淳昌(スンチャン)まで追い詰めました。東学農民革命に参加した農民を殺戮しました。この歴史は日本では教えていません。その時に派遣された日本兵士は殺戮した農民たちの遺骨を戦利品として日本に持ち帰った。私は大学の名前は覚えていませんが、ある大学の研究室にはその遺骨が残っています。そしてその遺骨にはどこから何時、持ってきたかがナイフで刻まれています。東農民革命のものは徹底的に隠されました。

7.日本との歴史
ここで一つ考えていかなければならないものがあります。明治維新から30年の近代国家がやったことは、朝鮮の農民を虐殺したことです。日清戦争の勝利には朝鮮の農民たちの虐殺が含まれています。この10年後ロシアと日本の戦争が始まります。日本が日清戦争に勝利した後、気づいたものがあります。日清戦争の勝利以来、ロシアとフランスとドイツが介入し始めました。日本は開港の権利を失いました。この事件は当時の日本の権威を失墜させました。私たちが戦争で勝利したのにあの国が日本のものを奪っていく。白人たちが奪っていく。その次何が起こったか。外交的関係がこんなにも重要である。その当時ロシアは不凍港を求め韓国に南下し始めました。これを警戒した国はイギリスとアメリカでした。アメリカとイギリスは日本を前に立ててロシアの南下を止めようとしました。今と似ているではないですか。ロシアが中国に変わったものです。イギリスと日本は日英同盟を結びます。ロシアと日本の戦争はイギリスとアメリカの支援で起きた戦争です。この戦争の勝利で真先にしたのは旅順の開港権を剥奪したことです。1905年朝鮮から中国の影響力を排除しました。ロシアの影響も。そして朝鮮半島は日本のものだと。植民地時代はそのようにして始まりました。明治維新の近代国家プロジェクトというのは日本の歴史的運命を変えた重要な事件でした。明治維新がそんな戦争を選択しなかったら人類の全体のために良い方向に行ったかもしれない。しかし明治維新の近代化プロジェクトは侵略戦争によって大きくなった訳です。これは私の私見ではありません。歴史的な事実であります。認めたくないだけです。日本社会と教育が。日清戦争が東学農民戦争を鎮圧した事件だと。朝鮮の人々は日本に対してどう思ったか。
明治維新以来、国家プロジェクトの成功を、アジアの人々は歓迎しました。一方、中国の革命のリーダー達は、若い時に大抵の人々が日本での留学の経験がありました。孫文、魯迅など有名な人たちが日本での留学を経験しています。期待をかけた訳です。しかし日本は侵略国家になってしまいました。私はここから日本の悲劇が始まったと思います。この事実を認めない限り日本は体系的な世界国家のビジョンを歩むことができないと。

8.3・1運動
1919年3・1独立運動が起こりました。植民地体制から10年たらず。私たちは小さい時この運動について学びました。その時どうしても理解できないことがありました。ただ外に出て大韓民国バンザイと言っただけです。それで独立が来るのか。今回私たちはキャンドルデモをしながら気づきました。ローソクを持つだけで民主主義は来ない。同じくバンザイと言うだけで独立が来る訳ではありません。また一つ驚いたことがあります。3・1運動は6ケ月続きます。その時はお互いコミュニケーションできる手段がありませんでした。どんな方法で知らせたか。山に登って松明を持った訳です。それで運動が全国に拡大し始めました。もう一つ気づきました。なんでこんな事で全国的に拡大されたのか。日本で全国的な運動ができると思いますか。いっぺんに立ち上がって運動を始めることができると思いますか。6ケ月続きましたがそれは容易なことではありません。この事によって日本の植民地の統制が変わりました。武断統治から文化政治へ。マスコミと教育機関を認めることになりました。ものすごい歴史の変化をもたらしたのです。ここで最も重要なものがあります。今回のキャンドルのデモは、キャンドルを持っても消される訳ではありません。1919年の3・1運動は命がけのものでした。
それでもう一度考え直しました。それは本当に素晴らしい運動です。この運動の結果で中国上海に臨時の政府が設けられました。独立運動の中心点がつくられたのです。それで私たちは気づき始めました。力がないように見える運動ですが、抵抗し続け、止めなければ100年の歴史をつくることができるであろう。100年の歴史がつくられてきた訳です。3・1運動は臨時政府がつくられました。今回のキャンドル市民革命は新しい政府をつくりました。
大韓民国の憲法の先頭に3・1運動の精神を継承するということが明記されています。昔はそのことが何を意味しているか分かりませんでした。その歴史なのでそのまま使っているのだろう思いました。しかし、それが今回のキャンドル市民革命を経験しながら、ただの文字だけではない事に気づきました。歴史的な精神である。これはとても重要なことであるということに気づきました。

9.光州事件
1980年5月の光州の虐殺、これは今は闘争という名前で呼ばれています。この時に歌った歌があります。光州民主化運動で認められた以外、今でも一緒に歌うことは禁止されています。国家記念式典でも。しかし、今回の新しい政府による国家式典でこの歌が歌われました。この歌がどんな歌か今から歌います。歌。
とても革命的な歌です。愛も名誉も名前も残さず、一生生きて行こうと、背を向けた訳ではありません、死んだので、旗だけ翻るのみ、しかし我々は最後までいく。この歌が歌われる所、我が民衆運動の歴史の一行、心から分かります。
今回は大統領がこの歌を歌ったのです。とても驚くべきことでした。この光州の記念式典でもう一つ驚いたことがありました。1980年5月18日に生まれた子がいました。今37歳です。その女性の父親が銃で殺されました。この女性は自分の父親に対する恋しさを語りました。皆が泣きました。話が終わって自分の席に戻る瞬間、大統領が立ち上がり、その後ろに付きました。女性は気づきませんでした。人々が女性に教えました。大統領はその女性を抱き上げました。その女性は父親の想いを懐きました。涙を流す場面でした。大統領はこんな約束をしました。今日の式典が終わった後、父親の墓をお参りしましょう。それで一緒に行きました。沢山の人々がなぐさめられました。市民革命の実りであります。

10.市民革命の今後
100年かけて数多くの人が犠牲になりました。しかし挫折しませんでした。そしてその中で変わった人もいます。転向した人もいます。それで転向した誰かは裕福な生活をしています。残っている人は敗北感を感じることになります。しかし、挫折はしなかったです。キリストの聖書には残された者という概念があります。世の中が変わっても、残された者は神さまが守るということがあります。新しい歴史の瞬間です。韓国の民主化運動はこのように残された人々がした運動でした。先に申し上げたようにキャンドルデモは最初から多くに人が集まった訳ではありません。しかし時間が経つにつれてどんどん集まってきた訳です。数だけが増えた訳ではありません。意識も進化してきた訳です。意識だけが進化した訳はありません。実際の権力になった訳です。市民が正に権力になった経験は重要なものです。市民権力が誕生した訳です。民主主義は市民権力の問題です。それを通して民主主義が守られるのです。先に少し述べましたが、歴史の問題が沢山あります。それだけでなく経済の問題もあります。歴史の問題は、文在寅が大統領になった後、安倍首相がお祝いの電話をしました。彼はこの一言を付け加えました。慰安婦の約束を守ってください。大統領はどう答えたか。これは我々国民が認めていません。国民の力を前に出しました。これが正に市民革命の結果です。日本はこれまでは全然違う韓国の政府を相手にしてきました。これはアメリカも一緒です。中国も一緒です。ロシアも一緒です。

11.日本の教育
この間横浜の大学で講演したことがあります。日本の教育の問題に対していろんな事を感じて帰りました。子供たちはあまりにも静かな子供たちに育っています。これは正に明治維新の教育の結果です。その過程はとても長いです。明治維新は近代的な国家をつくったということは革命的です。しかし封建体制を清算していないということ、主権のない天皇を固定しました。王政の体制をつくった訳です。民主政府ではありませんでした。明治維新を英語で言うと近代国家ということで「レボルーション」、革命です。封建の体制を改革し、王政を復権させたことによって近代国家と王政の国家が両立した体制です。しかしここでやっている教育とは何でしょう。意識のある市民ではなく、この大将に従っていく市民を育てることです。私がこの間横浜の大学に行った時、とても良い資料を見ることができました。1948年に発行した民主主義の教科書でした。キャンドル市民革命の過程で韓国では気づいたものが一つあります。民主主義の本質というのは何だろうか。政治と制度ではありません。人間の尊厳性である。これに気づいた訳です。しかし、1948年日本文部省が発行した民主主義教科書の最初の1行は何て書かれているかご存知ですか。民主主義は人間の尊厳をいうものである。それは驚くものです。

12.世界の民主主義のために韓日の協力
日本の民主主義は今どんな状態でしょうか。アメリカの今どんな状態でしょうか。力を持った国で民主主義に問題ができると、自分の国民を苦しめるし、隣の国にも苦痛を与えます。アメリカのような強力な国家の民主主義が崩れ始めるとその害はアメリカだけでなく日本にも韓国にも影響が及ぼします。しかしその点で日本と韓国は手を結ばなくてはいけないと思います。韓国と日本の市民たちが手と結ばなくてはいけないと思います。韓国はこれぐらい民主主義を達成した。日本の市民たちはこれを学びなさい。ではありません。1960年代のアメリカの人権運動は全世界に影響を及ぼしました。1919年の3・1運動は54運動に影響を与えました。日本の60年の安保闘争はヨーロッパにも影響を与えました。韓国にも勿論大きな影響を与えました。お互い影響し合ってお互い学び合います。今回は日本が韓国から学んでもいいと思います。その次また日本が良いことがあったら韓国に教えればいいと思います。お互い助け合います。理解し合います。東アジアの平和をどのようにつくればいいのかお互い力を合わせて協力しなければなりません。この全てのことの中心には民主主義の社会を一緒につくることです。民主主義社会がつくられなかったら独裁主義を防ぐことはできません。人種差別をなくすこともできません。朝鮮に対する差別も同じです。貧しい国に対しても同じです。日本は東南アジアに行ってどんなことをやっているだろうか。韓国も今同じことをやっています。それは絶対してはいけません。私たちはお互いに一つの人類であります。日本での特徴と韓国の特徴もあります。それは根本的には人間としてお互い会わなくてはいけません。一つの人類にならなければいけません。一歩進んで申し上げます。韓国と日本は世界全体からみると力を持っている国です。この力を利用して貧困にいる人類を救うこと。戦争を無くすこと。自然破壊をなくすこと。日本と韓国は手をつないですることは一杯あります。人類から尊敬される国になりたくないのですか。若い者が中心になって、日本、韓国、台湾、中国は歴史的に長い経験を共有した国です。ヨーロッパは一つになりました。私たちも一つになれると思います。キャンドル市民革命の最終的な課題は市民社会の正義と平和です。この道を皆さんと一緒に歩いていきたいです。一緒に歩いていけば大きな道が開けると思います。私はそれを信じています。一緒に進みましょう。ありがとうございました。

13.質疑応答
Q:今回の政変もこれまでの退陣後の逮捕等と同じではないか?
北朝鮮のミサイルで日本政府は過剰に反応しているが、一方、韓国は冷静だが?
A:革命に対する理解の問題ですね。韓国もここまでくるには時間がかかりました。80年代にこういうことが起こったのですから、批判が沢山あったと思います。軍事政権の力というのは強くて大変だった。そんな時に非暴力の平和などというのは可能なのだとは誰も思わなかった。今回の非暴力の革命というのが可能であった理由は、この40年間国民が国家の暴力を抑圧するような状況にしてきた。今回このようなデモが起こった時に、80年代に政府が弾圧するようなことはできなくなりました。国家権力の圧力だとかに関して市民の力が大きくなったのです。国家権力が勝手に圧力を加える事ができなくなってきました。他の言い方をしますと、キャンドル市民革命が非暴力という原則をたてましたが、そういうふうになるような現実を市民がつくってきたということが重要です。警察が水テッポウ、それで人が死んだので使えなくなりました。それを怖いと思ったら、警察が嵩にかかってどんどんそれをやったかも知れません。今回、市民はそれを怖いと思ってなかったのです。警察は暴力権力を使うことができなかった。そういうことが重なった訳です。ここまでに時間がかかったし、犠牲も沢山あったのです。犠牲の歴史というのが今回のデモに繋がっている。
日本の現実を見てみましょう。犠牲の苦しみというものをどのように考えるかということは実は大変な要因になるのです。神風といわれたではないですか。それは個人ではなく国家が主体の話です。そのことと自分の人生をかけてとか、いろんなために戦ってきたのかというのとは、全然違うのです。日本の明治維新プロジェクトの特徴というものがあります。それは国家のため犠牲になれということを強要する歴史だった訳です。しかし、人間の価値、自由、平等とか平和のために自分を捧げるというような教育だとか政策とかは非常に弱かった。ないことはないのですが、弱かった。日本で憲法をつくろうという運動がありました。議会をつくろうという運動もありました。その流れの中で大正デモクラシーというものが生まれました。その時、労働運動、教育運動が一つになりました。世界的に見たらロシアの革命がありました。その時に日本なりの民主主義の運動が実はあったのです。しかし30年代に日本は変わりました。イタリア、ドイツ、日本、ファシズムの国になっていくのです。それ以降日本は中国に侵略して戦線を拡大して。皆さんご存知のように太平洋戦争の当時、その時の反対運動が何故なかったのか。非常な小さな動きはありましたが。それと同じように最近にも動きはありました。
敗戦以降日本はその歴史を見てみますと、そのある時期というのはサイクルがあり、権力を持って戦うということが可能であった時期。日本の占領時代に日本は非常に変わりました。その時冷戦の政策というのがアメリカにありました。韓国にもアメリカの占領政策がありました。その時アメリカは朝鮮の南半分の実質的な動きを抑えるという働きをアメリカはしました。アメリカを賛美する人たちを育てていく政策をアメリカはやった訳です。その代表的な人物が李承晩大統領です。日本だって同じではないでしょうか。東京裁判の歴史をみてみますと、日本だけを問題にしている。その後のファシズム勢力というものを補完する形になります。それが自民党ではないですか。それで生き残ったところでは、左翼とかという人たちは弾圧を受けざるを得なかった。さっき話した1948年の文部省がつくった民主主義に対する説明がありましたが、アメリカの支配者の中で一部の人たちというのは非常にリベラルな進歩的な人たちでした。そういう人たちがさっき言った文部省の進歩的なものをつくったのです。全体的に見た場合にはアメリカが冷戦戦争のために利用した。ファシズムの体制を完全に清算しなかった。その歴史的な結果というのがどうなったのか。それが安倍です。
日本ではファシズムの体制が清算されずに平和と民主主義になったと思わされてきた。だから形だけ変わった訳です。それが実は自民党です。今の体制は100年の歴史がある。だから安倍になって急に悪くなった訳ではなく、ずうっと歴史があって安倍が出てきた訳です。日本が民主主義の国家になるには苦しみがある。難しい。歴史の問題、教育の問題、日本は非常に難しい。日本の勢力というのは、朴正煕と手を結んでいたのです。60年代の民主化闘争というのは日本の状況に関して大変批判的な発言をしてきました。80年代になってアメリカに対する批判的な運動でありましたけれど全体的にみた場合には、韓国の民主化闘争の意識の中では、それは日本の問題であるとすごく思っています。そこの中にアメリカの問題も入っている。それが韓国民主化闘争を正当化する要因になっている。もう一つ付け加えると、日本は歴史認識が運動を成長させました。その時に日本では学生運動、労働者の運動、教育者の運動がありました。日本の経済的な復興というものが結局運動を潰してしまった訳です。本当はそっちの方に行ったんだが、経済的な発展が実は日本の民主主義の芽を摘んでしまった。韓国で市民運動をしている人は、日本の動向を非常に詳しく調べて批判的にみている。だから経済的な発展というのは民主主義をもたらすということは無いんだということを、日本をみて韓国は分かっていました。中国もそうでしょう。

Q:民主的な権力の確立を目指さなければダメではないかと思いますが?
A:アメリカにも日本にもいろいろ問題があるように、韓国にも問題があります。韓国民主化運動というのは韓国の平和運動に関係があります。韓国の平和運動というのはアジア全体の平和運動と関係しています。安倍が持っている軍事的傾向を止めないとアジア全体の緊張が大きくなる。日本がアメリカの影響力から脱出できない限り同じような問題が起こります。そういう問題がある限り、政治を変えたということで韓国は変わる訳ではありません。満足できる訳ではありません。将来今からやらなければならない事が沢山あります。政治的な民主化をすることは勿論なこと、経済的な不平等を無くすということもあります。韓国の平和をつくるということはそんな簡単なことではない。非常に難しい問題です。平和協定は南と北の両者だけで解決できる問題ではない。そこに中国とアメリカが関係しています。朝鮮半島で平和が実現できるというのは、実は安倍は望んでいない。朝鮮半島に緊張があるからそれを利用して安倍は軍事化するという訳です。そういうように全部が関係しています。アメリカもそうではないですか。アメリカは武器を売って儲ける国です。韓国は世界の中でアメリカの武器を一番多く買っている国です。今の状況でもアメリカは韓国が平和な国になって行くことは実は望んでいない。慰安婦問題で合意ができたということは、実はアメリカが後ろでプッシュしたから日本が合意できた。日本とアメリカと韓国が軍事同盟をつくって進もうとしている訳です。歴史的葛藤を解決しない限り、そうでないとこのような状態の中では絶対に韓国は受け入れません。韓国人にとっては韓日の軍事同盟は絶対ありえない。受け入れられないと国民を思っています。60年代の日韓条約ですが、これもアメリカがプッシュしたから日韓条約を結んだ。韓国に金をあげると、韓国の経済的発展に日本が協力しないといけないということをアメリカが日本に対してプッシュした訳です。そういう論理の下で進みました。私は実は日韓条約には沢山の問題があることを説明したいと思っていますが、その時はアメリカはベトナム戦争の時です。ベトナム戦争の中でアジアの政策をどうするかを考えた時期です。今回はアメリカと中国との間の覇権に関する闘いがあります。中国は物凄く大きくなりました。アメリカのヘゲモニーはだんだん弱くなってきている。だからアメリカにとっては日本も必要だし、韓国も必要だということ。そういう情勢が実は韓国の民主化闘争をやっている人の頭に中にしっかりインプットされている。朴槿恵を倒すとかいうことは政治的な一つの過程に過ぎない。将来の韓国が解決しなければならない問題というのは非常に沢山あるということです。文在寅は大変な人気があります。それには秘訣があります。彼は韓国国民が支持して、こうやって欲しいという事だけを選んでそれを今実行しています。今の力を合わせていくといろんな議論がある問題も解決していく方向に行くと思います。それが新しい文在寅大統領の試練になるのです。市民運動の時点から考えると、今の政府を支えていくことが大変重要です。それがなくなると日韓の間が危機に面します。もし上手く行かない場合、市民が大統領に対して叱るということができる体制に何時もスタンバイしています。もう一つ重要な事があります。市民革命をやった人たちは、実は国家の今の体制の中に入っていっているのです。今の文在寅政権の少なくない人たちが市民運動の中から入っている。市民運動をやってきた人たちがその中に入って実際働いています。一つ例を取ります。財閥を批判していた知識人がいます。彼は理論家で市民運動を支えてきた人ですが、公正を求めるという委員会があるのですが、それに対して韓国の企業は今非常に困っています。その責任者が文政権の中枢に入ってきた。

Q:市民運動で歌われた歌は、韓国の憲法の第一条の精神を歌にしたものだと思うんですが、韓国では憲法の教育は十分なされているのでしょうか?
A:十分なされています。
教育の関係について少し話します。韓国においては教師の闘いは非常に重要な戦いなのです。勿論言論の戦いも重要です。日本の市民運動のために教育と言論の自由、それを改革しない限り市民運動は難しい。日本のマスコミというのは日本のこういう本当の問題を明らかにしていません。70年代まではあったのです。その後、全く死んでしました。韓国では宗教的運動が実はあるんです。それは結局労働、教育の問題まで入っていきます。その影響は韓国にとって大変大きい。教育というのは継続的に弾圧されてきました。朴槿恵の時は、法律的に守られるものではなくなっていた。今回は新しい大統領になって回復されると思います。

Q:今回のキャンドル市民革命で警察や軍隊の介入をなかったのは何故か?
Q:市民が介入を怖がらなかった理由は?
A:それは韓国には100年の歴史があります。その運動の中で警察の力、暴力的な力を使ってはいけないことが広がって出来なくなった訳です。もし公権力がそういうことをやろうとしても、それは難しかったのです。警察が弾圧することがなくなってしまった。韓国の国民自身が戦うことを放棄しなかった。

Q:台湾と韓国、日本の繋がりをどう考えるべきでしょうか?
A:明治維新の中で日本が最初に侵略したのが台湾です。そういう意味で朝鮮と台湾の運命は一つになっていい訳です。アジアにおける連帯の運動と政策のプロジェクトがあればいいのでは。アジアにおける歴史がどういうものであるのかを知らさなくてはいけない。

14.最後に
覚醒した市民をつくる、歴史認識を持つ、この二つが核心です。日本がその方向で行けば日本に市民運動もきたいできるのではないか。

(井上浩氏 記載)