第10回平和学習会

「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第10回

日時:2018年2月25日 14:00~17:00
場所:大阪南YMCA
講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

要点
1.集団的自衛権に代わる安全保障構想
2014年に安倍政権が集団的自衛権の解釈を閣議決定だけで変更した。
集団的自衛権を認めないという立場を採った場合に代わりの案として、澤野先生は、どのような国家とも軍事同盟を締結しないし、お互いに軍隊を派遣し合うという集団的自衛権を一切認めない永世中立を提案している。憲法9条は戦力を保持しない非武装と交戦権を放棄している。交戦権の放棄とは、A国とB国が交戦している時に、どちらかに加担するのを禁止するもので、第三国の武力紛争に加担しないこと、中立国でなければいけないというのが9条の理念である。そこから永世中立の考えがでてくる。

2.国連憲章51条の集団的安全自衛権
国連憲章51条で国連加盟国は個別的自衛権並びに集団的自衛権を行使できると書いてあり、各国はそのような権利を国際社会上は認められる。但し、各国がどのように受け入れるかは、各国の憲法で決めるものとなっている。各国の憲法で日本の9条のような権利は放棄しますと定めれば、それは認められる。しかし、日本政府は国連に加盟している以上、国連憲章に書いてある通りに、個別的自衛権も集団的自衛権も行使するのが当然であるとし、むしろ憲法9条が異常なのだと言う。国連優位論で説明してきている。

3.長谷部恭男氏の集団的自衛権批判について
長谷部さんの考えは、憲法9条は個別的自衛権を持っていて必要最小限の防衛力で専守防衛OKであることである。古い政府見解と長谷部さんの見解は一緒である。しかし、それを安倍内閣が集団的自衛権の行使を認めたので、憲法違反でおかしいという批判をした。
澤野先生は、9条はもともと専守防衛も認めていないと考える。長谷部さんの理屈は、安倍政権以前の自民党がやってきた解釈はOKであり、専守防衛、個別的自衛権を認め、集団的自衛権を否定することを強調することにより、逆に個別的自衛権だけはあったことを強調することになる。安倍政権を批判するのはいいけれど、ベースにある議論に弱点を持っているので、安倍政権の加憲案が出てきた時に理論上はこれでは不安になる。

4.武力に依らない自衛権論
自衛権自体は否定できないけれど9条は軍事力を放棄しているので、整合性を図るために「武力に依らない自衛権」論を護憲派は持ち出した。その具体的な内容は何かと言うと、①平和外交交渉、②警察力で防衛する、侵略されたら軍隊がないから警察力で対応、③人民が自ら立ち上がって排除、④国連軍で守ってもらう、という4つ程度を護憲派の学者達が提案していた。例えば平和外交交渉は自衛権でなく憲法で外交権として当然できるので、自衛権とは別である。警察力で防衛するという場合は、警察力は警察法で犯罪取り締まりに任務が限定されており、仮に侵略された場合に暴力として行使するとそれは陸海空軍その他の戦力になってしまう。国連軍に守ってもらうというものも、これは自衛権とは別で、国際法上では国連軍というのは集団的自衛権ではなくて集団的安全保障という別の概念で、個別的自衛権とはレベルが違うものです。
自衛権というのは武力で守るというのが、国際社会で一般的な理解で、武力で守らないものは自衛権とは言わない。従って「武力に依らない自衛権」というのは矛盾したものになる。「武力に依らない自衛権」がありますというのは、実は言葉上矛盾した概念で成り立たない。
9条が武力に依る自衛権を放棄したということは、自衛権そのものを国家は放棄したというのが、少数派ですが憲法学者の理解です。しかし、多数派の護憲学者は、自衛権そのものは、国家は放棄できないという前提があり、しかし9条は武力を放棄しているので、どうやって整合するのかという時に、「武力に依らない自衛権」という発想を生み出した。

5.国家の自衛権
自衛権と言うと、一般の人は、個人の正当防衛権をイメージします。相手が襲ってきた場合には刑法は個人に反撃する権利を認め、相手をやっつけて怪我をさせても無罪になる。これは刑法の個人の正当防衛権、国際法で言うと個別的自衛権になる。国家の正当防衛権を自衛権と言っている。これは個人の場合に類推している訳です。所が、国家と個人では意味が違います。個人は、その人しかない生命に関わるから反撃を加えるという一種の自然権みたいなことが当然ある訳です。所が国家は人工的につくられたもので国家の人格というのはフィクションとしてはありうるのですが、国家の中にはいろんな人がいて、戦争反対の人もいますし、軍隊は要らないという人もいます。それを国家は軍事力で防衛できると言い切るのはおかしい。確かに会社とか学校などの法人があるが、それは法が定めているのであり、国家も同じである。だから国家それ自体に自衛権があるかないかは、憲法がどう定めているか依るのであり、それに無関係に国家に自衛権があるという言い方は間違いである。つまり憲法が、その国家に自衛権を付与しているかしていないかを客観的に解釈しないと、憲法を無視して国家が人間個人として自然権、自然に自己を防衛する権限があり武力を保持できるといような類推解釈は、国家と個人を同じレベルで見るので、これは法律的には間違いである。従って憲法9条は一切の戦争や武力放棄しており、言い換えれば日本国家は憲法と無関係に自衛権があるという解釈はおかしい。

6.国家の自然権
国家というのは各個人がこういう国家をつくろうとして人工的につくるもので、国家は最初から存在しているものでない。戦前の明治憲法の国家は、国家有機体説で、国家は人間の頭脳があって体があって、村の共同体のようにここから個人は逃れられないし、反対もできないという国家の中に個人が生まれて死んでいくものであった。社会契約論では国家は、最初はなく、先ずは各個人がいて必要な限りで契約を結んでこのような国家を作ろうと、国家は後でできる。キリスト教の影響もあるが、ロックとかルソーが考えているような個人の自由平等な権利を持っている人々が政府をつくって、それに従って政府が政治を行って、その恩恵を国民が受ける。人民の人民による人民のための政治、リンカーンの言葉ですが、民主主義と言う言い方もできる。この発想には国家は最初にはない。

 7.野党時代の自民党の憲法草案
明治政府は、ドイツの国家有機体説、国家は共同体的なもので、社会契約説の自然法思想を否定する発想で憲法をつくった。明治政府は自由民権運動を弾圧し、明治憲法をつくった。
自民党の憲法草案の注釈書に、今の日本憲法は社会契約思想、個人の自然権思想によって成り立っているので、これを否定したいとはっきり書いてある。そこで何が出てくるかというと、聖徳太子の和の政治思想です。そして天皇中心の共同体という非常に分かりやすいものである。自民党の憲法改正案のベースにはこのような主張があるということを理解する必要がある。

 8.自衛隊違憲論のポイント
自衛隊違憲論は、9条の陸海軍その他の戦力を保持しないことです。自衛権を認めたとしても自衛隊を否定する考え方もあるが、それは武力に依らない自衛権を認めてしまうからです。その自衛権とは具体的には何ですかというと侵略者を警察力で阻止するという。しかし、それは武力を使い軍隊と同じで、その他の戦力に該当し憲法違反になる。
憲法9条は内閣に平和外交を義務付けている。平和的生存権、世界の諸国民が平和に生きる権利を確認すると書いてある。日本内閣は、世界の諸国民が平和に生きる権利を実現するために努力する義務を外交権の中で負っている。平和外交権を積極的に発動すればいいだけで自衛権などは関係ない。

 9.必要最小限の自衛力の問題点
自衛隊は、必要最小限の自衛力で戦力に至らない自衛力で、9条の戦力に該当しないと政府は言っている。彼らの理屈は、憲法に書いてないけれど国家というものは当然国家の自然権として、国家の防衛のための自衛権があるのだという。自衛権だから何か力がなければダメである、権利だけがあって力がなければおかしいでしょうと。これが自衛力だと言う訳です。必要最小限の自衛力は戦力に該当しないとする。その必要最小限の自衛力はどのように基準を決まるかと言えば、その時々の軍事力の発達によって決まる。今は核兵器の時代だから必要最小限の核兵器は必要最小限の自衛力に該当し、必要最小限の核兵器は持てるというのが政府の見解です。だから必要最小限と言っても歯止めがないはレトリックなのです。政府は核兵器を持てるだけでなく行使できると言っている。自衛隊を憲法に明記すると核兵器も使えることになる。

10.日本国憲法からみた原発問題
澤野先生は、原発は憲法の観点から憲法違反である考えている。原発の存在とか稼働とか作るとかは憲法違反ではないかということを、正面切って初めて主張した。原発が基本的人権を侵す、生命権とか生存権を侵すことは分りやすい。商売ができなくなる営業権とか、働く職場がなくなるとか、これらは全部人権として憲法で保障されているものですが、これが奪われてしまうということで人権侵害という憲法違反です。もう一つ澤野先生は憲法9条に違反すると述べている。原発は戦争と関係ない平和利用ですから憲法論にならないのですが、原発は潜在的な戦力で、軍事力に展開できるもので、陸空海軍その他の戦力に該当するので、原発は憲法9条に違反する。

11.ドイツの原発廃止に対する訴訟
ドイツが2020年までに原発を廃止するという政策を打ち出した。所が原発会社3社がドイツ政府を、原発の財産権や営業の自由を侵害するということで訴え、ドイツ連邦憲法裁判所が原告勝訴の判決を下した(2016年12月)。その中の1社はスウェーデンの原発会社(ドイツの2つの原発の運営会社)で、ISD条項でドイツの国内で損害を被ったとしてドイツを国際裁判に訴えている。
ドイツの今の憲法は原子力の平和利用の権利を認めるとはっきり書いてある。原発は憲法でOKで、憲法違反ではありませんということで電力会社は原発を運転してきた。しかし、メルケル首相は原発を止めますと言い法律を変えた。憲法では原発は認めているのに禁止した訳です。これは憲法違反ではないか、企業の財産権の侵害ではないかと訴えられた。
これは日本にとってもかなり問題である。日本がTPPに加盟していれば原発を廃止した場合にアメリカの会社から訴えられる可能性がある。

12.民主党政権の政治
民主党政権とは何であったのかになると、3代の民主党政権は今の安倍政権がやっている政策のほとんどを共通するものをやろうとしていたということになる。民主党政権下の憲法政治のうち、集団的自衛権の見直し(制約された集団的自衛権)論、日米同盟強化の方針の下でのTTP推進、原発推進、武器輸出の緩和、辺野古新基地建設の政策は、安倍政権下でより積極的に拡大する方向で継承されている。このようにみてくると、現在野党の立憲民主党、民主党などが安倍政権の憲法政治に対し、立憲主義(立憲平和主義、立憲民主主義)に立脚してどの程度の批判的スタンスをとりうるか、注視していく必要があろう。

詳細
「脱原発と平和の憲法理論」
第4章 集団的自衛権論批判と永世中立による平和・安全保障構想
-憲法9条との関係でー
Ⅰ はじめに
2014年に安倍政権が集団的自衛権の解釈を閣議決定だけで変更した。従来の政府の解釈は、自国を自分で防衛する個別的自衛権に基づいた専守防衛が原則であるということである。政府は、日本国家として理屈上集団的自衛権を持っているが専守防衛に限定するとしてきた。日本国家として集団的自衛権自体は持っているが、憲法9条があり、個別的自衛権に限定しているので、他国と共同防衛する集団的自衛権の権利行使は9条に違反するからできないとこれまで言ってきた。この解釈を2014年に安倍内閣は、集団的自衛権を単に持っているだけでなく、行使できるのであると変更した。これをベースにして、安保関連法案を成立させた。
集団的自衛権を認めないという立場を採った場合に、それに代わるどのような安全保障構想あるかを考える必要がある。代わりの案として、澤野先生は、どのような国家とも軍事同盟を締結しないし、お互いに軍隊を派遣し合うという集団的自衛権を一切認めない永世中立を提案している。永世中立も集団的自衛権も国際法上の概念です。憲法9条は戦力を保持しない非武装と交戦権を放棄している。交戦権の放棄とは、A国とB国が交戦している時に、どちらかに加担するのを禁止するもので、第三国の武力紛争に加担しないこと、中立国でなければいけないというのが9条の理念である。そこから永世中立の考えがでてくる。
1951年に日本が独立国家になった後、日本は永世中立国になるか安保体制(日米軍事同盟)に入るかの論争が起きた。吉田内閣は日米同盟の路線を採った。これは実質上集団的自衛権体制に入ったことを意味する。確かに自衛隊は専守防衛としてつくられたために、集団的自衛権は建前上否定されていた。しかし、実質上は行使していたと言っていい。これを正面切って2014年に集団的自衛権の行使を認めた。

Ⅱ 集団的自衛権の概念と評価
国家が自衛権を持っている以上、国連憲章51条で国連加盟国は個別的自衛権並びに集団的自衛権を行使できると書いてあり、各国はそのような権利を国際社会上は認められる。但し、各国がどのように受け入れるかは、各国の憲法で決めるものとなっている。各国の憲法でそのような権利は放棄しますと定めれば、それは認められる。しかし、日本政府は国連に加盟している以上、国連憲章に書いてある通りに個別的自衛権も集団的自衛権も行使するのが当然であるとし、むしろ憲法9条が異常なのだと言う。国連優位論で説明してきている。
スイスやオーストリアは国連に加盟しているが、永世中立国であり、集団的自衛権を行使していないが、それを他国は咎めない。国連憲章が、各国に集団的自衛権を行使しても良いですよと言っているが、それを各国がその国の憲法で独自に判断すべきもので、国連憲章通りにやらなくてはいけという義務は負わなくてもよいというのが、一般的な了解事項です。所が、安倍政権やそれを支持する少派の学者達が、国連憲章に書いてある通りにしないといけないという事で、9条の方がおかしいということで、集団的自衛権の行使もできるし、集団的自衛権を持っているという議論で押し通してしまった。

Ⅲ 憲法学説における集団的自衛権の現状
国会で安保法制は憲法違反であると発言し有名になった憲法学者の長谷部恭男さんの理屈は、政府を批判するには良いが理論上は問題がある。長谷部さんの考えは、憲法9条は個別的自衛権を持っていて必要最小限の防衛力で専守防衛OKであることである。古い政府見解と長谷部さんの見解は一緒である。しかし、それを安倍内閣が変更したので、憲法違反でおかしいという批判をした。
澤野先生は、9条はもともと専守防衛も認めていないと考える。長谷部さんの理屈は、安倍政権以前の自民党がやってきた解釈はOKであり、専守防衛、個別的自衛権を認め、集団的自衛権を否定することを強調することにより、逆に個別的自衛権だけはあったことを強調することになる。
安倍政権は9条加憲、自衛隊を明記する案を出してきているが、それの対抗案として民進党,立憲民主党は、自衛隊を明記するだけではダメで、個別的自衛権を書かないとダメですよと言っている。自衛権があるかないかをはっきりさせないで自衛隊だけを明記するのは意味がないのだと言っている。長谷部さんの理論というのは、民進党や安倍加権案に対してほとんど批判力を持たないという結果になる。立憲民主党が、安全保障の議論をするために長谷部さんを講師に招いて勉強会をしたと言われている。澤野先生が前から批判している通りになってきている。安倍政権を批判するのはいいけれど、対案の出し方が問題で、ベースにある議論に弱点を持っているので、安倍政権の加憲案が出てきた時に理論上はこれでは不安になる。
集団的自衛権の批判は分かりやすいのでよいとして、専守防衛のための必要最小限の防衛力を認める個別的自衛権はどうですかというと、それは当然あるのではないですかというのが護憲派の9条解釈では結構有力です。護憲派は個別的自衛権があるとすれば、それは放棄できないと言います。国家には集団的自衛権は放棄できるとしても個別的自衛権までは国家としては自国防衛のための自衛権は放棄できないと言います。一方で、9条は一切の武力を放棄している。
個別的自衛権と武力放棄をどのように説明してきたかというと、「武力に依らない自衛権」はありますという言い方をしてきた。武力に依らないで自衛するということで自衛権を多数が説明してきた。これが護憲派の解釈で、長沼ミサイル基地裁判で地裁判事がこれを使って自衛隊違憲判決を下した。自衛権自体は否定できないけれど9条は軍事力を放棄しているので、それをどのように整合性を図るかというと、武力に依らない自衛権があります、その具体的な内容は何かと言うと、①平和外交交渉、②警察力で防衛する、侵略されたら軍隊がないから警察力で対応、③人民が自ら立ち上がって排除、④国連軍で守ってもらう、という4つ程度を護憲派の学者達が提案していた。地裁がこれを初めて使って、自衛隊はそれに反し違憲であるとした。この「武力に依らない自衛権」の中身ですが、例えば平和外交交渉が自衛権だという言いうが、澤野先生は、これは自衛権でなく憲法で外交権として当然できるので、自衛権とは別であると考える。警察力で防衛するという場合は、警察力は警察法で犯罪取り締まりに任務が限定されており、仮に侵略された場合に暴力として行使するとそれは陸海空軍その他の戦力になってしまう。つまり軍事力に転換すると警察にはそんな任務はないし、法律もない。もし警察力を軍事力に使った場合は戦力に該当し、違憲にもなるし、そんな任務を警察官に命じるのは法律ではなく、人民の抵抗権、あるいは民族自決権です。国家の自衛権と個々人が持っている抵抗権とか民族自決権は別の概念です。国連軍に守ってもらうというものも、これは自衛権とは別で、国際法上では国連軍というのは集団的自衛権ではなくて集団的安全保障という別の概念で、個別的自衛権とはレベルが違うものです。個別的自衛権というのは単独で武力で防衛するという意味ですから、国際社会では自衛権というのは軍事力で守るという概念で、軍事力で守らないものを自衛権と言わなくていいのではないかという考えは、憲法学者の間では澤野先生を含めて少数派ではある。
外国の憲法学者が憲法9条を見た場合、自衛権はありませんと言う。もし自衛権があると言うならば憲法9条を変える必要がある。即ち現状では国家の自衛権は日本にはありませんと、言っている。何故かと言えば、自衛権というのは武力で守るというのが、国際社会で一般的な理解です。武力で守らないものは自衛権とは言わない。従って「武力に依らない自衛権」というのは矛盾したものになる。「武力に依らない自衛権」がありますというのは、実は言葉上矛盾した概念で成り立たない。だから9条が武力に依る自衛権を放棄したということは、自衛権そのものを国家は放棄したというのが、少数派ですが憲法学者の理解です。ドイツの憲法学者は澤野先生らと同じ理解です。しかし、多数派の護憲学者は、自衛権そのものは、国家は放棄できないという前提があって、しかし9条は武力を放棄しているので、どうやって整合するのかという時に、「武力に依らない自衛権」という発想を生み出した。
遡るとこの言葉を使ったのは最高裁長官になった横田喜三郎という砂川事件の最高裁判決を書いた国際法学者(東大)です。彼は戦後もともと徹底して軍隊を認めない学者であった。しかし、最高裁長官のあたりは、自衛隊、日米安保を合憲とするように変わってきた。
マッカーサーも最初はスイスのような中立国になれと言っていた。吉田茂も1946年頃の国会で共産党が9条を反対するのはおかしいではないかと言い、自衛権があるとかないとかという議論していると、戦争を誘発することになるから宜しくないと言っている。吉田茂は事実上自衛権放棄説に近い。所が1950年の朝鮮戦争が起きて、警察予備隊をつくって、マッカーサーが日本には自衛権そのものはあると言いだした。その時から「武力に依らない自衛権」というのがマッカーサーや吉田茂からでてきた。政府がそれを言いだし、自衛隊を徐々に認めていったので、護憲派の学者はその概念(武力に依らない自衛権)を逆に使って自衛隊を批判してきた。それが通説化していた。しかし、澤野先生や山内敏弘(憲法学者)とか少数説ですが、「武力に依らない自衛権」説というのは言葉の矛盾ではないか、それは成り立たないのではないか、だから9条というのは国家の自衛権そのもの、集団的自衛権も個別的自衛権も全て放棄しているとの解釈です。自衛権と言われるものは一切要らない。その言葉を使っているとごまかされてしまうし、憲法上決して説明できるものでない。

Ⅳ 政府の集団的自衛権見直しとその問題点
日本国は集団的自衛権を持っている行使できないというのがこれまでの政府見解でしたが、澤野先生の9条解釈では、集団的自衛権を行使できないだけでなく、そもそもそれ自体を放棄している。例えば選挙権を考えてみると、選挙権を持っていても放棄はできます。国家が集団的自衛権を持っていたとしても9条があるので行使できませんと。これは選挙権の関係とよく似ている。自衛権と言うと、一般の人は、個人の正当防衛権をイメージします。相手が襲ってきた場合には刑法は個人に反撃する権利を認め、相手をやっつけて怪我をさせても無罪になる。これは刑法の個人の正当防衛権、国際法で言うと個別的自衛権になる。国家の正当防衛権を自衛権と言っている。これは個人の場合に類推している訳です。所が、国家と個人では意味が違います。個人は、その人しかない生命に関わるから反撃を加えるという一種の自然権みたいなことが当然ある訳です。所が国家は人工的につくられたもので国家の人格というのはフィクションとしてはありうるのですが、国家の中にはいろんな人がいて、戦争反対の人もいますし、軍隊は要らないという人もいます。それを国家は軍事力で防衛できると言い切るのはおかしい。確かに会社とか学校などの法人があるが、それは法が定めているのであり、国家も同じである。だから国家それ自体に自衛権があるかないかは、憲法がどう定めているかに無関係に国家に自衛権があるという言い方は間違いである。つまり憲法がその国家に自衛権を付与しているか、していないかを客観的に解釈しないと、憲法を無視して国家が人間個人として自然権、自然に自己を防衛する権限があり武力を保持できるといような類推解釈は、国家と個人を同じレベルで見るので、これは法律的には間違いである。従って憲法9条は一切の戦争や武力放棄しており、言い換えれば日本国家は憲法と無関係に自衛権があるという解釈はおかしい。澤野先生の憲法9条の考えは、非武装で交戦権を放棄しているので、日本国家は憲法9条によって集団的自衛権はもとより、個別的自衛権、軍事力で自衛するということも放棄していることになる。自衛権というものは武力で自衛するというもので、武力で自衛すると言う概念を放棄している以上、自衛権はないことになる。自衛権がなければ国家ではないのではとの素朴な疑問が起こってきます。所が国家の場合は武力で自衛しない方法はいろいろありえます。平和外交交渉とか人民が自ら抵抗する、ガンジーのようなものとか。国家が軍事力に依拠しない自衛方法は歴史上いろいろあります。国家が自衛権を放棄したからと言って内閣が平和外交交渉しなければ危険はなくならないし、必要最小限の警察力で外国の軍事集団の犯罪行為を取り締まるというのは憲法上できるし、国際法上でも認められている。国家に自衛権がないことは何もできないということではない。これまで祖国防衛という素朴な感情的なスローガンで胡麻化されてきた訳です。厳密に法律の世界で自衛権というものを捉えると素朴なものとは意味が異なる。

Ⅴ 憲法9条と集団的自衛権および永世中立
自衛隊のイラク派兵について、全国11ケ所で違憲裁判がありました。とりわけ注目されたのが、名古屋高裁の判決です。名古屋高裁が、自衛隊をイラクに派遣したこと自体は違憲だとはいっていないが、派遣された後の自衛隊のイラクでの活動が、憲法9条が禁止する武力行使に該当する、紛争地域において米軍を航空機で運んだりしたことは事実上集団的自衛権行使に該当すると初めて述べている。名古屋高裁に提出した弁護士の準備書面に、澤野先生の理論が使われていた。澤野先生の理論は、イラク派兵は実質上集団的自衛権の行使に該当し、憲法9条では集団的自衛権を認めない永世中立を原理としおり、従ってイラクに派兵するのは中立義務違反であり、交戦権を実質上行使したことになり違憲であることになる。名古屋高裁の判事は、判決上は澤野先生の理論は一切使っていないが、結論は派遣された一部の自衛隊の活動に違憲性があるとの判決が下されています。

Ⅵ 永世中立(論)の活用による北東アジアの平和・安全保障構想
澤野先生は代替案として自衛権によらない安全保障というのはありうるということで、非武装永世中立というもの、とりわけ東アジアと北東アジアにおいては地域安全保障制度をつくることを提言している。軍事同盟によらない地域の安全保障制度、これはいろいろ世界にありますが、日本関連では「6ケ国協議」というものが一端つくられたことがあります。この中で朝鮮半島の非核化構想が一応合意されています。朝鮮半島の南北の軍事同盟関係を切断させるという、つまり中立地帯を他の4ケ国が保証し、そこから軍隊を引き揚げる、南北朝鮮をどうするかはお互い話合いで決めたらよい。外部勢力はそこから引き揚げるという中立地帯を他国が保証する構想です。そこはいずれ北東アジアには軍事同盟によらない地域安全保障機構をつくるべきであるという時に、永世中立という9条の観点が生きてくるのではないかということを提案している。

質疑応答
Q:国家に自然権はない?
A:国家というのは各個人がこういう国家をつくろうとして人工的につくるもので、国家は最初から存在しているものでない。戦前の明治憲法の国家は、国家有機体説で、国家は人間の頭脳があって体があって、村の共同体のようにここから個人は逃れられないし、反対もできないという国家の中に個人が生まれて死んでいくものであった。社会契約論では国家は最初はなく、先ずは各個人がいて必要な限りで契約を結んでこのような国家を作ろうと、国家は後でできる。従って戦前とは逆の考え方である。憲法の前文は社会契約説で成り立っている。キリスト教の影響もありますが、ロックとかルソーが考えているような個人の自由平等な権利を持っている人々が政府をつくって、それに従って政府が政治を行って、その恩恵を国民が受ける。人民の人民による人民のための政治、リンカーンの言葉ですが、民主主義と言う言い方もできる。この発想には国家は最初にはないのです。所が、明治憲法は異なり、各個人の自然権を否定している。個人は国家の恩恵を受けているので権利を奪いますよということです。

Q:明治憲法をつくる時にそのような議論はどうでしたか?
A:植木枝盛や東洋のルソーと言われた中江兆民、土佐の自由民権派などは社会契約論的な発想でした。所が、明治政府はこれらを否定するドイツの国家有機体説、国家は共同体的なもので、社会契約説の自然法思想を否定する発想で憲法をつくった。明治政府は自由民権運動を弾圧し、明治憲法をつくった。
今の自民党の憲法草案の注釈書に、今の日本憲法は社会契約思想、個人の自然権思想によって成り立っているので、これを否定したいとはっきり書いてある。そこで何が出てくるかというと、聖徳太子の和の政治思想です。そして天皇中心の共同体という非常に分かりやすいものである。自民党の憲法改正案のベースにはこのような主張があるということを理解する必要がある。

Q:自衛権の定義は定まっているのか?
A:基本的には定まったものはないが、慣習上ほぼ武力で自衛するということが国際法上は一般的である。武力で自衛するのを国家の自衛権と称する。軍事力で自衛しないことになると、それは自衛権で説明する必要はなくなる。国際紛争を軍事力で解決しないだけの話であれば、そのような権限は、国家は持っている。憲法上外交権とか平和外交や平和的に紛争を解決すべき国家の義務もあります。それは自衛権を言わなくても国家権力は憲法で与えられている。個人の権利を守るために警察権を持っているとかは問題ない。

Q:安倍首相が、学者のほとんどが自衛隊を違憲だと言うが、国民のほとんどが自衛隊は認めている、だから憲法で自衛隊を認めることは必要だと発言している。学者が自衛隊を認めているかどうかという事と自衛権を認めているかどうかは違うでは?
A:自衛権があるかないかを質問されたらほとんどの憲法学者は肯定します。自衛隊は違憲かどうかどうかという質問と、憲法9条で自衛権があるかどうかの質問まったく違う。憲法学者の9割は自衛権があるかないかの質問を受けたらありますよと答える。自衛隊が違憲かどうかを質問されたら7割は違憲だという。

Q:自衛隊違憲論のポイント?
A:自衛隊違憲論は、9条の陸海軍その他の戦力を保持しないことです。自衛権を認めたとしても自衛隊を否定する考え方もある。つまり武力に依らない自衛権を認めてしまうから。具体的には何ですかというと侵略者を警察力で阻止する。しかし、それは武力を使い軍隊と同じ、その他の戦力に該当し憲法違反になる。
憲法9条は内閣に平和外交を義務付けている。平和的生存権、世界の諸国民が平和に生きる権利を確認すると書いてある。日本内閣は、世界の諸国民が平和に生きる権利を実現するために努力する義務を外交権の中で負っている。平和外交権を積極的に発動すればいいだけで自衛権などは関係ない。

Q:今後の運動方向?
A:自衛権で説明することは避けた方がよい。集団的自衛権を否定するために個別的自衛権はあるのだと強調することが護憲派の動きです。これは止めた方がいい。集団的自衛権は当然ダメであるけれど個別的自衛権であればいいのかということになる。9条を前提として考えている以上は自衛権という概念で説明するということは必要ないと考えた方がよい。自衛権という言葉でいろんなことを言いだすと難しいことになる。

Q:アイスランドは軍隊を持たないし、コスタリカも軍隊を持たない。実際はどのように防衛しているのか?
A:コスタリカの場合は、自衛権は持っています。自衛権自体は否定していない。コスタリカの憲法の条文では常備軍を保持しないとなっている。但し、いざという場合には再軍備が可能になる条文です。しかし事実上は常備軍を持たないとしている。
アイスランドはこれまで自国の軍隊はなかった。ないのでどうしていたかというと米軍とかNATO軍に守ってもらうというやり方をしていた。非武装なので他国軍に守ってもらうという発想である。現在のアイルランドは軍事同盟で守ってもらうのを止め米軍基地をなくした。
実はこれは吉田茂の発想でもあって、日本は1950年の段階では軍事力はなかった。占領下で軍隊は全て解体され、自衛隊は1954年にできるので、それまでは自国の軍隊はないのです。それで吉田茂が考えたのは、日本は非武装国家であるから安全保障をどうするかという時に、米国に守ってもらおうと、他国軍、です。それで日米安保保障条約を1951年に締結した訳です。
1950年の時の吉田茂政権は、日本には軍隊がなく非武装であるが自衛権自体はあるとの答弁をしだした。だから武力に依らない自衛権が生まれた訳です。その時に横田喜三郎とか国際学者がそれを正当化する理屈をつくった。所が、自衛隊ができると個別的自衛権は武力で守るということに変わる。武力に依らない自衛権が武力に依る自衛権に、自衛隊ができた時に修正される。それが9条の戦力に該当するが、必要最小限の自衛力は戦力に至らない自衛力で、自衛隊は戦力に該当しないとはっきりと今でも言っている。何故ですかというとそれは戦力でない自衛権だからですと。それでは自衛権はどこから来るのですかいえばそれは国家として自衛権があるからです。だから自然国家の自衛権から自衛力がでてくるというのが彼らの理屈です。戦力ではないけれど自衛力はあります、これは自衛隊ですが、これはどこからでてくるかと言えば、憲法に書いてないけれど国家というものは当然国家の自然権として、国家の防衛のための自衛権があるのだと。自衛権だから何か力がなければダメである、権利だけがあって力がなければおかしいでしょうと。これが自衛力だと言う訳です。必要最小限の自衛力は戦力に該当しないとする。その必要最小限の自衛力はどのように基準を決まるかと言えば、その時々の軍事力の発達によって決まる。今は核兵器の時代だから必要最小限の核兵器は必要最小限の自衛力に該当し、必要最小限の核兵器は持てるというのが政府の見解です。だから必要最小限と言っても歯止めがないはレトリックなのです。政府は核兵器を持てるだけでなく行使できると言っている。自衛隊を憲法に明記すると核兵器も使えることになる。
自然国家の自衛権の観点からみると、戦力でない自衛力がでてきて、これは歯止めがなく、一番基になっているのは国家に当然自衛権があるというのが出発点で、これを否定しないといけない。国家の自衛権という権限が当然あるから、それを守る自衛力がいるという必然性を作り出す。

第5章 民主党政権下の憲法政治の憲法論的検討
  Ⅰ はじめに
Ⅱ 安全保障政策
   1 民主党政権と鳩山首相の安全保障政策論
   2 菅政権の安全保障政策
   3 野田政権の安全保障政策
ここは3代続いた民主党政権下の、特に安全保障政策を述べている。
野田政権になるとほぼ今の自民党政権に繋がっている政策が提案されている。集団的自衛権の民主党の捉え方は、個別的自衛権は当然認めていますし、集団的自衛権も完全否定でなくて制限的な集団的自衛権を認めるものである。民主党の憲法提言は、まだ条文の形でつくられていませんが、鳩山氏個人の憲法草案がありますが、これは小沢一郎さんのものとほぼ同じです。自衛権の捉え方は大体同じで、かなり自衛権に拘っている。これは立憲民主党の枝野さんの考えと同じなのです。2013年に書いた枝野さんの個人憲法試案ですが、自衛権を憲法に書き込んでいる。安倍さんの加憲案のように単に自衛隊を書き込むだけではダメで、裏付けとなる自衛権を書かないと意味がないと言っている。これは逆に加憲論を煽っているような感じである。枝野さんは自衛権に非常に拘っていることが分かる。立憲民主党が安倍さの加憲論を批判しているが、自身のかっての主張とそんなに違いがないのだという議論がないし、メディアにもない。そこは問題だと考えている。視聴者は気づいてないかも知れないが、一番問題になる所をついていない。表面的なことに時間を費やしている。

Ⅲ 原発政策
1 民主党政権の原発政策と憲法問題
脱原発基本法案が小泉さんや細川さんらの働きによって国会に上程するということで野党は全面的に協力することにはなっています。まだ条文の形にはなっていないが、一応原発0法案の骨子は出されており、運転中の原発は直ちに停止、停止中の原発は今後一切稼働させない、2050年までに全電力を自然エネルギーにするなどが具体的な形でだされている。これは初めて出てきたものでなく、前にも1回国会にでたことがある。

2 日本国憲法からみた原発問題
澤野先生の原発についての考えは本書の最初の方で学習したように、憲法の観点から原発が憲法違反であることになる。原発の存在とか稼働とか作るとかは憲法違反ではないかということを、正面切って初めて主張した。原発が基本的人権を侵す、生命権とか生存権を侵すことは分りやすい。商売ができなくなる営業権とか、働く職場がなくなるとか、これらは全部人権として憲法で保障されているものですが、これが奪われてしまうということで人権侵害という憲法違反です。もう一つ澤野先生は憲法9条に違反すると述べている。原発は戦争と関係ない平和利用ですから憲法論にならないのですが、原発は潜在的な戦力で、軍事力に展開できるもので、陸空海軍その他の戦力に該当するので、原発は憲法9条に違反する。

3 原発禁止に関する外国の憲法論、憲法および法令
ドイツのメルケル首相が2020年までに原発を廃止するという政策を打ち出し、それを具体化する法律を改正した。所が原発会社3社がドイツ政府を訴えました。つまり原発の財産権や営業の自由を侵害するということで、その中の1社はスウェーデンの原発会社(ドイツの2つの原発の運営会社)です。ドイツの会社自体は請求しなかったが、スウェーデンの会社がISD条項でドイツの国内で損害を被ったとしてメルケル政権が国際裁判に訴えられている。
これは日本にとってもかなり問題である。日本がTPPに加盟していれば原発を廃止した場合にアメリカの会社から訴えられる可能性がある。TTPのISD条項の裁判は国家主権を犯すおそれがあって、カナダやアメリカやメキシコの間では争いがあった。原発の問題で既に問題が起きている。
日本ではあまり話題になっていないが、澤野先生はこの件について調査中である。ドイツの今の憲法は原子力の平和利用の権利を認めるとはっきり書いてある。原発は憲法でOKで、憲法違反ではありませんということで電力会社は原発を運転してきた。しかし、メルケル首相は原発を止めますと言い法律を変えた。憲法では原発は認めているのに禁止した訳です。これは憲法違反ではないか、企業の財産権の侵害ではないかと訴えられた。ドイツの左翼系の党や緑の党は原発を禁止するように憲法を改正してどうかという提案をしている。
オーストリアは1999年に憲法では核兵器を禁止する、原発も禁止すると二つ同時に書き込んでいる。オーストリアでは「原発禁止法」といのが1978年に制定された。これはドナウ川のツベンテンドルフ原発建設に反対する住民運動が起き、住民投票にかけたら否決されて、「原発禁止法」ができた。その後、スリーマイル島事故(1979年)、チェルノブイリ事故(1986年)が起き、やはり原発禁止法は意味があるということになった。さらにオーストリアは永世中立国ですが、NATOに軍事加盟した方が良いのではないかという保守政党が時々でてきます。NATOに加盟するということは核兵器が持ち込まれる可能性がでてくる。それはまずいということで憲法上はっきりと核兵器を持たないということを書くと同時に原発も禁止した。それ以降は脱原発に法律全て変えて、オーストリア政府はヨーロッパ全体でこの運動をやろうと、自然エネルギーの普及ですが。ドイツの左翼政党とか緑の党とか社民政権がモデルケースとして参考にしようとしたのがオーストリア憲法です。スイスも脱原発に国民投票で向かっています。
コスタリカは世界で初めてだと思いますが、原発を事実上可能にする法令をつくることに対して最高裁憲法法廷が違憲判決を下した。コスタリカも永世中立を国である。

Ⅳ 議会制民主主義 - 国会議員定数削減論を中心に
   1 民主党政権下の議会制民主主義論の問題点
ここは議会制民主主義の問題を述べている。民主党が3年間政権を取った時に、日本の民主制度、議会制度についていろいろと実験的に提案していた。その提案というのは問題が大きいものであった。憲法が想定している議会制民主主義を良くするという内容ではなかったよう思う。

 2 国会議員定数削減論の正当化論
   3 国会議員定数削減論の問題点(その1) ― 「経費ムダつかい見直し」論について
   4 国会議員定数削減論の問題点(その2)
       - 「政権選択可能な選挙の実現」論について
(1) 小選挙区制選挙導入後の政治改革と政権交代の実態
(2) 小選挙区選挙の憲法論的検討
国会議員の定数削減、これは自民党も言っていますが、メリットがあまりない。議員定数を80削減しても経費の節約は56億円程度で意味がない。他の予算の削減、防衛費とか米軍の協力予算とか、そちらで簡単に出せるような額である。議員定数削減という形で提案することは国会の機能をむしろ低めて政権を批判する力を失わせることになるでは。
小選挙区制中心の選挙制度の導入は、もともと小沢一郎氏が自民党の終わりぐらいから言いだした考え、所謂「政治改革」の問題、腐敗防止とかを小選挙区制の問題に焦点を当てて、焦点を逸らせてしまった方向に来ている。その流れに今乗っている点でも問題が大きい。
小選挙区制が何故憲法上問題なのかということですが、これは憲法の平等の原則、有権者の政治的意思を国会に平等に反映させることであれば、比例代表制が当然論理的に結びつくもので、小選挙区制は逆に国民の多様な政治的意思を切り捨てるもので憲法の法の下の平等に反すること、国会議員は全国民を代表することなので、小選挙区制になると特定の少数の人たちの意見を害することになる。だから自民党が3割の得票で7割の議席を占有するということになり、全国民の意見を平等に代表するという原則に反し、理論的におかしい。
小選挙区制によって政権交代を可能にするという発想は世界的にはほとんどない。アメリカは小選挙区制ですが、アメリカの政治学者が言っていることですが、小選挙区制と2大政党制で政治を行うことほぼは「発達した民主国では、ほとんど絶滅寸前の珍種な民主主義論である」というのが政治学者の世界では一般的です。イギリスはこの典型ではあったのですが、今はかなり変わってきていて、自民党も民主党も古いイギリスの議会制民主主義のモデルをイメージしていますが、イギリス自体が止めようと動きが出たりしたりしています。
昨年の内閣による憲法7条による衆議院の突然解散、党利党略によってどんな理由であろうが内閣が決めれば衆議院を何時でも解散できることは、最高機関である国会に従うべき内閣の方が優位に立って国会を何時でも首にするということはおかしい。イギリスは内閣が下院を解散する場合には、下院の3分2の多数が賛成しなければ解散できないことに2011年に法律ができた。だから内閣の都合によって下院を解散させることができなくなっている。

Ⅴ 改憲論
   1 憲法審査会と憲法改正国民投票法に関する動向
民主党政権は改憲論には自民党政権とは異なって消極論の立場に立ったので、民主党政権下では改憲論議はあまり活発には起こらなかった。しかし国民投票法の制定に協力したとか、憲法審査会を動かす方向に協力してしまったとかいったことをやった訳です。ただ積極的ではなかったので評価できる部分はありますが、民主党政権は両面性を持っていた。

2 内閣法制局長官の国会答弁禁止におる解釈改憲指向
(1) 内閣法制長官の国会答弁禁止の意図
(2) 憲法と内閣法制局の役割
内閣法制局長官を国会で答弁させるなという政策もあった。つまり邪魔になるのだ。それまでの内閣法制局は、どちらかと言えば憲法を守る感じで、集団的自衛権について従来の内閣法制局はできないとの立場であった。所が民主党政権の時からそれに批判的になってきた、小沢一郎とかが自衛隊の海外派兵をやるべきだとかの意見が出てくると、内閣法制局長官に喋らすなと、民主党政権が勝手に決めるのだと。今の安倍政権と同じ発想で政権を運営しようとしでしていたことが良く分かる。結局それは撤回されましたが。

3 民主党政権下の改憲論議

  Ⅵ おわりに
民主党政権とは何であったのかになると、3代の民主党政権は今の安倍政権がやっている政策のほとんどを共通するものをやろうとしていたということになる。民主党政権下の憲法政治のうち、集団的自衛権の見直し(制約された集団的自衛権)論、日米同盟強化の方針の下でのTTP推進、原発推進、武器輸出の緩和、辺野古新基地建設の政策は、安倍政権下でより積極的に拡大する方向で継承されている。このようにみてくると、現在野党の立憲民主党、民主党などが安倍政権の憲法政治に対し、立憲主義(立憲平和主義、立憲民主主義)に立脚してどの程度の批判的スタンスをとりうるか、注視していく必要があろう。

以上

(2018年3月7日 井上氏記)