第19回平和学習会報告

「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第19回

日時:2019年2月23日 14:00~17:00
場所:大阪南YMCA
講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

1.沖縄の県民投票
明日は沖縄の県民投票がありますが、最初は「YES」か「NO」の選択肢でしたが、中間の「どちらでもない」が入り3択になった。多分反対の方が多いだろうと予測できる。従来から知事選もそうですし、これまで2度ほど基地建設の県民投票を実施していて、いずれも反対が多数意見であった。ただ、その結果にかかわらず政府としては従来通り埋め立てを継続すると公言している。国民投票は法的拘束力なく、一種のアンケート投票のような位置づけになっており、法的には弱い。憲法改正の国民投票のような法的拘束力を持つ訳でもないので、弱いというのはやむを得ないが、それでも反対意見が多数を占めれば政治的効果が非常にあるので、反対運動にとっては意味がある。
厳密にいうと憲法の95条で、「その地域に関する利害関係のある事柄については、その地域のみ適用される法律を国会で提案して、住民投票にかける」というのが本来の筋です。通常、法律というのは国会の多数決で一般的には制定できるのですが、ある地域のみ適用される場合には、その法律をつくってその法律について住民投票にかけるとなっている。従って、基地建設の法律について反対するかどうかを住民投票にかけることになるが、多分反対が多数になります。しかし、これまで一度もそのような法律を日本の国会でつくって住民投票にかけてこなかった。だから、一方的に政府は住民の土地を強制的に取り上げてきて、今のような状況になっている。そのような状況は、既に憲法違反的に沖縄の土地が強制的に収用されてきて、今は辺野古沖で同じようなことが決められようとしている。
根本的には、日米安保条約とその地位協定で、米軍が日本のどこでも好き勝手に基地を造る権利があるように日本政府も説明してきている。実はそのような条文はなく、日本で基地を造ることが赦されるという表現になっている。日本政府がはっきりと「NO」といえば拒否できる。しかし、日本政府は結局基地を受け入れてきたので、米軍がどこに造ろうが何も抵抗しない。
基地とは違うが、神戸港は核兵器を積んだ外国の軍艦は入港できない。それは神戸市が条例で非核証明書を出さない限りは入港させないという、地方自治権として政府から独立して、住民主権があるし平和憲法があるから、平和憲法を地方自治で独自に行使できる訳です。神戸市はそれを実施している。同じように基地建設についても沖縄はできるのだけれども、結局アメリカの言いなりに基地建設が進められている。やっぱり安保条約とそれを具体化している地位協定を見直すか撤去させるかがないと中々難しい。

2.憲法改憲
安倍改憲が今年提案できるかどうか。昨年までの国会では、結局、安倍改憲は提案できずにきているのですが、今年の前半は、天皇関係の儀式が5月前後にあり、参議院選挙があり、前半部分では改憲の議案がはたしてできるかどうかは微妙である。参議院選挙の後、どのような議員配分になるかによって、自民党がかなり議席を失うと改憲は非常に難しくなる。安倍首相はオリンピックまでに改憲を実現すると公約しているので、参議院選挙がどうなるかが、注目点である。

3.「非武装中立と平和保障」―憲法9条の国際化に向けて-(澤野義一先生著)

第二部 日本国憲法9条と非武装永世中立
 第一章 日本国憲法の平和主義
  Ⅰ 平和憲法の源泉
平和憲法の歴史的背景について述べている。

Ⅱ 平和憲法の規範論
   1 平和憲法の規範論
明治憲法と現行憲法を比較するという側面からみても9条は徹底した戦争放棄である。平和主義を支えるものとして、政教分離の原則は、天皇と宗教(神道)と軍隊という戦前の軍国主義を支えた三位一体制度を否定したことが重要である。しかし、その後、靖国問題で、否定したものを復活させようというかたちで改憲も進んできている。憲法でいうと20条(信教の自由、政教分離)ですが、個人の信仰の自由を徹底して認めるためには政治と宗教を分離するしかない。これは世界の憲法の中で特殊性があり、かなり興味深いものです。世界はまだこのような感じではなく、イスラム教では政教一致で、個人の宗教の自由はない。ドイツとかバチカンも政教分離ではなく、イタリアは国家と宗教は関わりあいがあるが、ある程度個人の自由は認めている。

2 憲法9条の法解釈論
立憲民主党の山尾志桜里さんの「立憲的改憲論」は、9条1項はそのままで、2項を書き換えたらよいというもので。護憲的改憲論のタイプです。9条1項は戦争放棄の目的、2項はその目的を達するための手段として陸海空軍を持たないと定めている。1項の方は憲法改正できないが、2項の方は手段であるからある程度変えてもいいのだという説が、この当時(1997年)から結構有力なのです。東大の有名な憲法教授である小林直樹は、社会党の石橋政嗣委員長の非武装中立論の変更に非常に大きな影響を与えた。2項の方はある程度変えてもよく、必要最小限の自衛力を認めるとか、3項を追加して最小限度の防衛力を認める改正をしてもよいと言っていた。政治学者の山口二郎教授(立憲デモクラシーの会の代表)は、1997年当時9条1項は変えないで、3項を追加して必要最小限の防衛力は持てるといっている。それ以降も追加の改正論者がでてきている。山尾志桜里さんは、立憲主義の立場から必要最小限の防衛力を認める憲法改正をしてもよく、その案は、9条の1項、2項は置いたままで、9条の2を追加するもので、その内容は、「前項の規定は我が国に対する急迫性の侵害が発生し、これを排除するため他に適当な手段がない場合に於いては、必要最小限の範囲内で武力を行使することを妨げない。また、前項の武力行使としてその行使に必要な限度に制約された交戦権の一部に当たる措置を取る事ができる。また、この武力行使のために必要最小限度の戦力を保持することができると定める。」である。これは安倍改憲すら言っていない「戦力を保持することができる」が書いてある。9条を厳密に解釈するのではなく、9条は単なる理想論だから、法的拘束力はありませんという解釈が大手を振っている。

  3 憲法9条の規範力論
 (a) 憲法9条=政治的マニフェスト説
  
 (b) 統治行為論
砂川基地最高裁判決(1959年)で有名で、それは自衛隊が違憲かどうか、日米安保条約が違憲かどうかは、高度に政治的な問題であるので、最高裁としては憲法判断は回避し、それは国民が政治的に決めるべき問題であると述べている。
この時の最高裁長官は米国大使に外務省を通じて事前に会って、日米安 保条約は憲法違反でないという判決を出すからと、約束して判決を書いた。これは1959年の12月に判決を出します。翌年は日米安保条約の改定の時であり、それに合わせている訳です。これは司法権の独立を最高裁自ら放棄して書いた判決である。だからこの判決はおかしいのではということで、当時の関係者が最近砂川事件再審請求訴訟を起こしたが、2017年11月15日、東京高裁は砂川事件再審査請求訴訟を棄却する判決を下した。

 (c)  憲法変遷論
9条という条文は全く変わっていないのであるが、時代と共に、あるいは国民の意識変化によって9条の意味が変わるという解釈がある。本当であれば、意味が変わるのであれば手続き的には憲法改正して意味を変えるのが筋論である。所が、それは手間もかかるし解釈でどんどん変えてもOKであるという考え方を、有名な憲法学者の橋本公亘が言いだした。彼の教科書では「自衛隊は憲法違反である」と書いてあった。所が最高裁判事に採用されるのではないかとなると、9条の意味は変化しましたということで、テキストを破棄して新しいテキストで「自衛隊は合憲です」とこのような理屈で解釈を変えてしまった。
同じように社会党は、自衛隊は違憲と言っていたが、自衛隊は憲法上は違憲であるが、自衛隊法があるから合法であると変えた。筋論は法律が違憲であれば違法であるはずであるが、それを合法と解釈している。所が、時間が経つと自衛隊は合憲になり合法になる。社会党は自衛隊合憲論になり非武装中立を放棄して崩壊した。石橋政嗣さんの頃からこのような傾向がでてきた。

 (d)  自衛隊=違憲・合作論
 (e)  憲法9条=改正可能説
 (f)  憲法前文・9条=矛盾説
この説は北岡伸一氏(自民党のブレーン)が述べている。憲法前文と9条は矛盾するという無茶苦茶な考えです。矛盾するから9条を改正するというものです。

Ⅲ 安保・外交政策の原則
外交政策と憲法の関係を検討した。
1 憲法上の原則
 (a) 紛争の非武装的(非軍事的)解決
これは9条から当然でてくる原則である。安保政策、それから外交政策もこの考え方でやるべきである。実際はそうなっていない。安保外交政策としては澤野先生が主張しているのは、日米安保体制に代わるものとしての非武装永世中立政策が9条から要請される。
対外的な関係においても非武装というものを徹底させると考えるとすれば、非暴力防衛(ヨーロッパで研究されており、日本でも研究している宮田光雄さんがいる)を安全保障に組み込むべきである。軍事的に対抗する側面も考慮するが、もう一方で非武装で防衛するという市民的不服従の抵抗の仕方も政府の軍事戦略の中に組み込んでおくという動きがヨーロッパではある。しかし、日本政府はそのような側面は全く考慮しません。高度に産業化した社会では有効な抵抗、とりわけ領土が小さく資源がなく、さらに原子力発電所を多く抱えている日本では、非軍事的なものが重要ではないかということです。

 (b) 非軍事的な平和的生存権の保障
平和と人権は非常に関わり合いがあり、特に日本憲法の前文に「全世界の国民は平和に生きる権利がある」という条文が入ったというのはかなり注目できる。これは現在国連なんかも注目しだしている。戦争の原因になる専制と隷従、圧迫と偏狭を除去するというのも国際平和に関連するということで、この観点が非常に重要である。平和に生きるためには、軍事力があって平和に生きる権利が守られるというのが、従来の発想です。今なくなりましたが、東ドイツの憲法は早くから平和的生存権の言葉は入れていました。しかし、これは軍事力で守られるという考え方ですが、日本憲法の場合は、軍事力によらない方法で平和に生きる権利を守るということで、前提がかなり違う。戦争と人権の関係で、軍事力なしに平和に生きるということを、人権として強く考えいく時に、戦争とか戦争を準備する国家とか社会の中では、一体何が起きているのだろうかをみておく必要がある。軍隊は何のためにあるかというと、それは自国民を守るためだというのが常識的な発想ですが、これは歴史的にも統計的にも検証されたものをみると、実は軍隊は外国人よりも自国民を多く殺している。第二次世界大戦の沖縄もそうですが、自国民を殺す。特にベトナム戦争以降は一般国民の方が兵士よりも多く死亡するようになった。兵隊と兵隊が戦うという戦争を別の面からみる必要がある。
発展途上国をみれば明らかに民生予算より軍事予算が多い(生存権の軽視)。核戦争時代では戦争がおこなわれなくても核の施設や実験から被爆者がうまれていること、これがはっきりしたのは福島の原発事故からです。それまではまさかそんなことは起きるとは考えていなかった。核被曝は生命そのものを破壊する生命権(憲法13条)、健康権(25条)を破壊する。福島原発事故後、国や東京電力を相手に生命権とか健康権で裁判が展開されている。その中で生命権に含まれる人格権が、裁判所でも避難者の権利として認める判決がでてきている。前橋地方裁判所の国と東電に避難者の賠償請求を認めた判決(2017年3月)で、権利的な根拠として指摘しているものとして、「平穏に生活する権利というのは自己実現に向けた自己決定権を中核にした人格権である。原告が請求の根拠とする平穏生活権は(1)放射性物質で汚染されていない環境で生活し、被ばくの恐怖と不安にさらされない利益(2)人格発達権(3)居住移転と職業選択の自由(4)内心の静穏な感情を害されない利益-を包括する権利」です。原子力損害賠償法では民事賠償は認められないけれど、それとは別個の権利として損害賠償請求が認められる。
戦争は自然・資源・文化財などを大規模に破壊する面があって、環境の侵害になる。これに対する対抗軸としては、戦時における文化財保護条約というのを国内法的につくるのがよいのではというのが澤野先生の提案です。例えば、京都とか奈良に文化財が多数ありますが、もし日本が戦争に巻き込まれた場合に一挙にして破壊されてしまう。戦時における文化財保護をどうするかを考えると、文化財の付近に軍事施設があるとなると国際法上、合法的に破壊される恐れがある。だから文化財の付近には一切軍事施設を置いてはいけないし、文化財を軍事的に利用してはならないことをはっきりさせる条例をつくるべきである。これは「無防備都市」とも関係している。軍事施設がない所を武力攻撃することは、現在の国際法上禁止されている。同じように文化財も同様ですが、本来であれば国会で法律をつくればよいのであるが、なかなかできないので、自治体が条例をつくって一切軍事施設をつくってはならないとすべきである。実際1950年の半ばに奈良とか京都で文化財を守るために、戦争廃止と結びつけてやったらどうかという運動が起きたことがある。しかしその後運動は消えてしまうが、1990年前後から「無防備都市」運動の流れでもう一度見直すべきであるというのが澤野先生の主張である。
戦争を前提とする国家体制は、徴兵制をとり、有事の際は思想・良心・表現・移動などの自由権を制限する。日本では有事法制ができているので、国民保護法とそれに関連する国民保護条例が事実上自由権の制限ができるようになっている。戦地になってしまうと、外国人の排斥が起こるし、女性に対する性的人権侵害が生じる。それから戦争に協力しない障がい者を差別してしまうという現象が起きる。それから平時の場合は死刑を廃止する国が世界で過半数を占めていますが、戦争になると死刑を復活できると書いてあるものがあって、結局死刑と戦争というのが、ある面では関連性がある。
日本は直接戦争はしないが、日米安保、自衛隊の強化の中で、教科書検定の問題とか、自衛官の合祀の問題とか、人権侵害が事実上発生している。平和的生存権の観念は、国連決議でも確認されていますが、2016年の国連総会で新しい平和の権利宣言が出され、平和的生存権を国連でもっとはっきりと実行しようと、各国にそれを実施して欲しいということで、宣言が出された。

 (c) 安保・外交国会中心主義
安保・外交は内閣が勝手にやっているようですが、日本憲法をみると条約を最終的に承認する決定権は国会にあると書いてあり、現状は憲法を無視している。共同宣言とか政府レベルの宣言で全て決めているという問題がある。

(d) 地方自治尊重主義
明治憲法では地方自治というのは保証されていなく、保証する条文がなかった。知事も全部国から派遣される構造になっていた。日本憲法は住民主権により独立した地方自治が保証されたので、当然地方自治は憲法の平和主義の原則を地方自治で当然実現できる。一定の外交も地方自治が独自に展開でき、姉妹都市などによってそれなりの外交はできないことはない。
憲法95条は、地方自治体に対してのみに適用される特別法については、本来は立法を制定して住民投票で決めるというのが正しいけれども、この手続きが、沖縄で適用される米軍用地特別法とかの法律ではなされなく、全く県民投票にかけられていない。これは違憲性が非常に強いと思われるし、辺野古基地の建設も条例で決めるのではなく、国会で法律をつくって住民投票にかけてやらないといけないのですが、これもやらないので、地方自治が奪われている。
実際95条で住民投票にかけた法律は最近はないのですが、1950年ぐらいには、非常に有名なものがあって、戦前軍港として使われていた佐世保とか呉とか舞鶴とか4つの港を軍港として使ってはいけない、港は平和的に使う必要があるという法律が1950年にできます。それはその地域だけに適用される訳なので、住民投票で8割か9割の賛成で成立した。幣原は、憲法9条の精神、平和の精神を、港を軍事的に使用しないという法律を住民投票で実現したことは、非常に素晴らしいと言った。
これは9条と関係ないが、瀬戸内海を自然公園として制定する法律ができて、これも関係する岡山、広島、愛媛とかが住民投票にかけて成立している。その地域の住民のみに利害関係がある法律については、国会の単なる多数決でなくてプラス住民投票にかけるというのが95条に書いてある。本当は今やっている沖縄の基地問題については、この手続きをやらないといけないのですが、全く採用されていない。

 2 政府の方針
 (a) 自衛隊の海外派兵禁止規制
自衛隊ができた1954年に自衛隊法ができて、自衛隊は海外に派遣しませんということを国会で決議した。つまり専守防衛であるとしたが、だんだんと形骸化してきている。

 (b)集団的自衛権の不行使原則
これも従来から政府から言われてきたものですが、安倍内閣によって完全に集団的自衛権の不行使原則は否定されてしまった。

(c) 非核三原則
これも日本政府が掲げてきたし、現在も掲げていますが、非常に問題のある嘘っぱちの非核三原則です。非核三原則をこれだけ取り出すと良い事を言っているようにみえますが、実際は、非核三原則は日米安保とセットいなっている。だから核の傘の下という事が前提になっていることを見失ってはいけない。つまり非核三原則は日米安保を前提とした米国の核の傘の下に依存するという条件でいわれている。非核三原則は核廃絶とは別個なものであり、さらに核エネルギーの平和利用の原発推進政策と一体であり、原発を容認するということが前提になっている。非核三原則だけを取り出すことは、当時の文脈からいうと大きな誤解の基になっている。

 (d) 武器輸出三原則 
安倍内閣で、大きく変容されて、防衛装備移転三原則が出されたので、これは否定されているのが現状である。

以上
(井上 浩氏記)