第13回平和学習会

「平和憲法とこの国の自立を考える」輪読&勉強会 第13回

日時:2018年8月25日 14:00~17:00
場所:大阪南YMCA
講師:澤野義一先生(大阪経済法科大学法学部教授)

要点
1.天皇制
  (1)韓国のイ・デス牧師の問題提起
何故韓国の民衆運動が、日本ではあまり見られないような激しいのかとの話の中で、日本の憲法は完全なる民主共和国ではなく、天皇制、象徴天皇が存在しているので、日本の民主主義において市民運動の根本が弱いのではないか。
  (2)憲法と国家の形態
憲法がどのような形態(君主制、共和制等)になっているかということと、実質上それが民主国家になっているかどうかは別もの。しかし、日本の場合はかなり特殊性であり、天皇を中心とする神の国という国体が戦後もずうっと生きている。それが日本社会が民主的に運営されない大きな原因になっている。
  (3)天皇の「公的行為」拡大と「生前退位」の憲法問題
天皇のビデオメッセージで、これまでは天皇のやってきた「公的行為」、象徴としての行為は非常に重要なので継承して欲しいと強調していた。これは実は自民党の改憲草案とピッタリと合っており、ビデオメッセージはこれを正当化することになる。その点に関する世論の見方は足らないのではないか。
  (4)天皇の生前退位の問題
皇室典範の第4条で天皇の生前退位はできないことになっているが、これは明治憲法での天皇制になって初めて生前退位を禁止して、一世一代の天皇という形に固定した。天皇の意思として、生前退位したいということで、一代天皇に限り生前退位を認める特例をつくった。しかし「日本会議」系の学者達、知識人達は、本当はこれをやりたくなかった、即ち天皇国体論を弱めてしまうことになるからです。
  (5)森友学園運営に関する憲法問題
2006年の第一次安倍政権の時に教育基本法を改正し、一部改悪し、愛国心教育ができるようにした。これをベースにして籠池氏は、教育勅語の暗唱強制、君が代を歌わせるという教育をやり始めた。学校づくりにおいて天皇を中心とする教育が復活してきた、非常に時代錯誤的な動きですが、これは天皇制国体が復権しているという驚くべき現象がおきていることを示している。
  (6)質疑応答
Q:国事行為以外の公的行為は憲法違反?
A:憲法上の規定から言うと、天皇が出来る行為は国事行為に限定されている。憲法学者の中には憲法の国事行為しか天皇は厳格にしてはいけなく、今やっている外国訪問とか国会開会式でお言葉を述べるとか、慰問活動とか、これは憲法上できないのではないかというのが、憲法学者では強いです。
しかし、世論はこの点を批判しない。タブーになっている。
Q:日本の天皇制とヨーロッパの君主制との一番大きな違いは?
A:日本の天皇制は廃止できないという考え方が強いです。日本の場合は国家神道の関係性が残っているという感じがあるが、ヨーロッパの場合は、宗教性よりもかなり政治上の君主制であるので、日本国民のように国体論と一体になっていない。
Q:天皇に対する国民の感情は明治維新後に醸成されたもので、如何に明治以降の国民に対する洗脳が巧妙かつ組織的であったということの解明を最もやらないといけないのでは?
A:そこの問題が最も重要だと思いますが、これは憲法論ではできなくて、社会学とか、もっと広い学問で全体的にアプローチしないと難しいものです。
日本は共和制の観念が非常に弱い。やはり歴史的な限界を持っており、なかなか抜けきれないということが続いている。
Q:戦前、天皇機関説とかでましたが、そのような考えが育たないというのは、法的に規制するようなことは日本で馴染まないということですか?
A:天皇というものを憲法とか法律の外に例外的に置くようなことは、立憲主義ではない。立憲主義というのは、憲法に定めたことしかできないというのが立憲主義です。しかし、明治憲法の下では、一応天皇も元首だとか権限が書いてありますが、書いてない事もできるという立憲主義を超えた所の憲法を超越した位置づけをした。
Q:天皇の戦争責任について
A:戦争責任については天皇が悩んでいたとの最近の報道があるが、個人的には戦争の責任を感じていたかも知れないが、公けには辞めるということは多分なかったんだろう。

2.自民党の9条改憲案について
安倍9条改憲案は、現行9条を維持した上で9条の2として「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律で定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」の条文をつくった。
(1)9条への自衛隊明記による「戦力」不保持規定の空文化
必要な自衛の措置のために自衛隊を保持するということにすると、前項で戦力を保持しないと言っているけれど、後の方の条文が法律的には優先する。
(2)9条に「自衛権」を明記すべきか否かの論議には警戒を
安倍改憲は「自衛隊」を明記するだけで、「自衛権」を明記しないというのが特徴になっている。実は「必要な自衛の措置」を取りうるという表現は、国家固有の「自衛権」を前提としており、砂川最高裁判決も書いているし、これまでの政府見解でも自衛権があることを前提としている。
(3)護憲派、野党の改憲論
安倍9条改憲に反対する「護憲派」の中にも「自衛権」を容認したり、「自衛権」を明記する改憲案を提起する動きがかなりでてきている。

3.「非武装中立と平和保障」(澤野先生の著書)
―憲法9条の国際化にむけてー
第3章 憲法9条と自衛権論
Ⅰ 個別的自衛権論
1 国際法上の「個別的自衛権」概念
国連憲章51条に「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」という表現で各国が国際法上「自衛権」を有することを確認している。
*「自衛権」の解釈について
第一に、「自衛権」の発動という場合に、武力と考えるべきではないかと思われる。武力によらないで自衛するというのは、「自衛権」に入らないではないか。9条のように武力放棄した場合、「自衛権」を発動できないことになる。
第二に、国家あるいは国家主権から「自衛権」を放棄することは、国家主権の多くの主権の一部である軍事権力を放棄することであり、国家がなくなるということでもなく問題ない。国家権力はどのような権力を行使できるか、憲法で定められた形でしか行使できないので、憲法に書いてない権力行使は出来ない。
第三に、「自衛権」の国際法上の法的根拠は、国際慣習法ないし国連憲章にあると考えられている。
第四に、国際法、国連憲章で「自衛権」を認めているが、これはあくまでも権利行使がでると言っているが、その権利を各国が行使するか、行使しないかは各国の憲法で自由にできるというのが独立した主権国家に認められていることです。

2 憲法9条と「個別的自衛権」論
(1)「武力によらない自衛権」説の問題点
国際法の一般的な「自衛権」を前提とすると、憲法9条上は武力を認めないので、「自衛権」は放棄されていることになる。所が多くの護憲派の憲法学者は、「自衛権」そのものは国家からは取り去ることはできないという前提で、かつ9条があるので「武力によらない自衛権」という概念を唱えてきた。「武力によらない自衛権」の内容は、①事前の平和外交、②警察力、③群民蜂起、④侵略国国民の財産没収・追放、⑤国連警察行動への依存、などであるが、「国家の自衛権」とは違い、わざわざ「武力によらない自衛権」という概念を立てる必要性がそもそもないのではないか。
(2)政府の「武力によらない自衛権」説の由来と問題点
朝鮮戦争が起こってから、警察予備隊ができ、その時に「武力によらない自衛権」を政府は主張した。この「武力によらない自衛権」の力点は、自衛隊がないから、個別的自衛権はあまり考えていなく、「武力によらない集団的自衛権」の方を考えていた。日米安保条約で、日本は基地だけを提供する事で、この「武力によらない集団的自衛権」の方を使っていた。「自衛権」があるから自衛力あり、必要最小限の自衛力は保持でき、その基準は軍事技術の発達とともに変わり、核戦争、核兵器の時代では、必要最小限の核兵器の保有できるということになる。

詳細
1.天皇制について
 (1)韓国のイ・デス牧師の問題提起
韓国のイ・デス牧師が先日(18日)に、南YMCAで韓国と日本の反核平和の連帯の運動について話題を提供された。韓国の日本からの独立運動、所謂、3・1運動の話と、今の朝鮮半島の平和構築の動きがありますが、その歴史的な関連性の話をされました。その中で、韓国の憲法と日本の憲法を比較して、何故韓国の民衆運動が、日本ではあまり見られないような激しいのかとの話の中で、韓国の民主運動、戦前からの独立運動や市民革命は、国民が主権者である民主共和国の韓国の戦後憲法につながっているが、一方、日本の憲法は完全なる民主共和国ではないからである。それは天皇制、象徴天皇が存在しているので、日本の民主主義において市民運動の主体が弱いのではないか。それは象徴天皇の存在が影響しているのではないかという話をされた。そこで憲法学では象徴天皇制をどうみているかを補足してみたい。

(2)憲法と国家の形態
日本の戦後の憲法は、基本は国民主権になっている。国民主権を前提とした天皇制とはどのような国家形態、学問的にどういう分類をする必要があるかという問題がある。今の憲法を学問的に、君主国あるいは君主制とみるか、共和国あるいは共和制とみるか、あるいはその中間の混合形態とみるかという問題がある。                                                                                                                                                                                                                                                                                  表

この表に書いたのは憲法上の国家の形です。これはかなり形式的な分類で、必ずしも国家や政府の実態を反映していない。民主政治という観点からみると、共和制とい国家が民主的かと言われると必ずしもそうではない。君主制の国が民主的でないかというと必ずしもそうではない。そこで別の分類がある。
それは独裁制か民主制かという国家、あるいは政治の分類がある。例えば、韓国の憲法は共和制なので、民主主義的に優れているのかというと、時々共和制の国家であっても、独裁制になる。一番分かりやすいのはヒットラー政治です。あれは完全な共和政治です。ドイツ君主制が第一次世界大戦で敗北してワイマール共和国、大統領制の共和国になったのですが、所が独裁政治になっていった。一方、イギリスは今でも君主国と言われていますが、独裁国かと言われたら、そうではない。建前上は、イギリスは君主制です。君主主権国家ですが、デモクラシーが世界で最も早く成立したと言われていて、君主制でありながら民主制である。
君主国か共和国かという憲法で書かれた形式的な国家形態の分類があるのですが、これ自体が、必ずしもそれが独裁的であるか民主制であるかとは別のものである。従って韓国の憲法が民主国家と明記したので、確かに民主的なんですが、時々独裁政治になったりしてきた。これは主権者、公民のデモクラシーの意識がどの程度高いとか、選ばれる指導者あるいは国会議員等の質にも関係していることも念頭に置く必要がある。
現在、君主国と言われているのは28ヶ国で、国連加盟国が193ヶ国それぞれ憲法を持っており、憲法の正式名称にはその国の国家形態が書いてある。フランス共和国憲法とか北朝鮮人民共和国憲法、ドイツ民主連邦憲法とか。君主国であるイギリスは憲法がないのですが連合王国憲法で、君主国はヨーロッパに多く、今は立憲君主国になっていますが、主権の所在は国民主権をベースにした君主制の形です。これまで歴史的に君主国は基本的には君主主権、明治憲法もそうで天皇制という帝国憲法でありますが、段々と民主制が定着してくると、君主制が生き延びるためには国民主権を受け入れないといけないということで、君主という建前ですが、ほとんど象徴的な扱いになってきている。いずれ君主国は、歴史的には消滅するであろう。君主が残るのは、トランプのカードのキングとクイーンだけだということが言われている。
憲法が共和国であるからと言って、それが民主的であるかは別ものである。むしろ君主制であるか共和制であるのかは、国家の本質からみたらこれは副次的なもので、国家権力は人民を支配する独裁制の傾向を本質的に持つものであり、国家の本質が、そもそも何んであるかが重要であるという言い方をしています。
それから君主制と共和制は何を基準にして分けるのかというと、2つの解説があって、主権の所在がどこにあるかに依って分けるという説が一つで、君主制は君主主権を前提とするものを指す。だから国     民主権が確立した場合は、君主という外形を持っていても学問的には基本的に共和制に移行しているという見解が有力です。これは学問上の分類で、君主的なるものが外形上存在しても、学問的にそれを君主国とみるかどうかについては、例えばクジラは外見上、魚に見えるが学問上は哺乳類で別であるとことと同様に、君主制の残りかすを持っていたり、外形を持っていても、基本的にそれを君主国、あるいは国王とみるかは別で、国民主権になった場合は、本来の君主制とはみないという見解が有力です。それにもかかわらず日本とかヨーロッパに国王はいますが、君主制とみる説は何を根拠にしているかというと、主権がどちらにあるか関係なしに憲法上、世襲制的な王がいる場合は、これをもって君主制と捉えるという見解があります。現在世界で28ケ国が君主制といっている説は、その形式の方を重視しています。その28ケ国が君主国といっていますが、国民主権に置き換わっており、日本憲法も戦後から国民主権に変わっており、ヨーロッパもスエーデンとか君主制といわれますが、本質は国民主権に変わっている。国民主権に変わってしまったという事は、君主制を憲法改正で廃止することができるということです。憲法手続きによって君主制を完全なる共和制に切り替えることができるということが可能であれば、原理的にも天皇制を廃止できることになります。
所が、日本の改憲論者は、そのように解釈しない。日本国憲法は、主権の存する国民の総意に基づく天皇であるが、その天皇とは、国民主権者が憲法改正によって天皇制を廃止することができないという非常に主観的な解釈をする。憲法9条は変えてもよいが、天皇制は変えられないという解釈をしている。世襲的なものが憲法に残っていると、そこを重視する、特に日本会議系の議員や憲法学者はそのようにみている。
纏めると、憲法がどのような形態になっているかということと、実質上のそれが民主国家になっているかどうかは別ものであるということです。しかし、日本の場合はかなり特殊性であるのは、天皇を中心とする神の国という国体が戦後もずうっと生きている。それが日本社会が民主的に運営されない大きな原因になっている。

(3)天皇の「公的行為」拡大と「生前退位」の憲法問題
天皇のビデオメッセージが出され、天皇は高齢になったので天皇の地位を下りたいと暗黙の主張をした。ただ、これまでは天皇のやってきた「公的行為」、象徴としての行為は非常に重要なので継承して欲しいと強調していた。天皇の「公的行為」として国会開会式出席とお言葉、外国訪問、慰問の活動等は積極的に継承されたいと言っている。これは実は自民党の改憲草案とピッタリと合う事になっている。自民党改憲草案では、天皇を元首として位置付けている。それから天皇の「公的行為」というものを拡張する解釈が明記された草案で、結果的にはビデオメッセージはこれを正当化することになっている。その点に関する世論の見方は足らないのではないか。
日本会議系の憲法論によると、日本国憲法1条が天皇の地位は主権者国民の総意に基づくと定めているにもかかわらず、憲法改正によっても天皇制は廃止できないと解されている。というのは、国民主権の根底には、長い歴史と伝統により継承されている不文憲法ないし日本固有の自然法として、天皇「国体」(天皇中心の君民一体の自然的・道徳的秩序共同体)の存在が想定されているからである。さらに彼らは聖徳太子の「17条の憲法」や「和」の精神が憲法の前提になるということも言っている。これは今の日本国憲法が前提としている個人の尊厳、これはどちらかと言えば欧米の自然権思想、社会契約思想に近いものであるが、これを自民党改憲草案は否定している。

(4)天皇の生前退位の問題
皇室典範の第4条で天皇の生前退位はできないことになっているが、天皇の退位の意向を尊重して認めようということになった。所が、天皇「国体」論者にとっては、生前退位はやってはいけないことになっている。江戸時代までの天皇は、生前退位を頻繁にやっていたが、明治憲法での天皇制になって初めて生前退位を禁止して、一世一代の天皇という形に固定した訳です。だからこれを変えてしまうということを、やりたくなかったのですが、天皇の意思が、生前退位したいということで妥協して、一代天皇に限り生前退位を認める特例をつくったという形になった。しかし「日本会議」系の学者達、知識人達は、本当はこれをやりたくなかった、即ち天皇国体論を弱めてしまうことになるからです。

(5)森友学園運営に関する憲法問題
子供に対して教育勅語を暗唱強制、君が代を歌わせるとか、大阪護国神社に連れて行くとか、このようなことをやっていた籠池氏は、日本会議系の関係もあり、その時は真面目にそう思っていた。何故そのようなことをさせたかは、2006年の第一次安倍政権の時に戦後の憲法と一体化してきた教育基本法を改正し、一部改悪し、愛国心教育ができるようにした。これをベースにして籠池氏は、あの教育をやり始めたということです。学校づくりにおいて天皇を中心とする教育が復活してきた、非常に時代錯誤的な動きですが、これは天皇制国体が復権しているという驚くべき現象がおきていることを示している。
戦後の教育基本法が教育勅語に代わってできたが、この時もいろいろ議論があって教育勅語と教育基本法は、併存できるのではないかという人達も結構いました。日本憲法がありながら、教育勅語もあってもいいのだという人が結構いました。それで森戸辰男文部大臣が出てきた時に、これではまずいということで、教育勅語を教育現場から回収するということと、衆議院と参議院で教育勅語の排除・失効決議を行い、教育勅語が復活しないようにした。その時にひょっとしたら教育勅語は将来復活するかも知れないという恐れから森戸辰男は対策を講じたが、復活してきたのです。
50年代から自民党政権下で改憲論と同時に教育基本法の改悪論があったが、あからさまに教育勅語を行おうということは、戦後70年も経って出てくるとは何事であるかということになる。要するに、天皇制国体論が底流にあるということを示しているのである。

(6)質疑応答
Q:国事行為以外の公的行為は憲法違反?
A:憲法上の規定から言うと、天皇が出来る行為は国事行為に限定されている。内閣の助言と承認によって形式的に国事行為を行うとなっている。実際はそれ以外に象徴ということを根拠に公的行為があるということで、いろんな形でやっており、どんどん拡大してきた。それが国民の間に象徴天皇制というものを普及させてしまっているのではないか。憲法学者の中には憲法の国事行為しか天皇は厳格にしてはいけなく、今やっている外国訪問とか国会開会式でお言葉を述べるとか、慰問活動とか、これは憲法上できないのではないかというのが、憲法学者では強いです。
所が自民党改憲草案では、このような「公的行為」もできるように憲法を改正するということにしている。今の天皇がビデオメッセージで述べたことが、結果的には自民党改憲草案と一致してしまっている所が問題です。しかし、世論はこの点を批判しない。タブーになっている。

Q:日本の天皇制とヨーロッパの君主制との一番大きな違いは?
A:日本の天皇制は廃止できないという考え方が強いです。日本の場合は国家神道の関係性が残っているという感じがあるが、ヨーロッパの場合は、宗教性よりもかなり政治上の君主制であるので、日本国民のように国体論と一体になっていないと考えている。だから戦争に負けたら君主国が共和国に変わるという歴史があります。日本の場合は、そこはそうはならない。国民と天皇の一体的存在という観念が結構支配層にも国民にも存在していることが、運用上、慣習上そうなってきていることが、天皇制を支える基盤がかなり違うのではないかと思う。
ヨーロッパは、国王も一種の国民との社会的契約、フィクションによってつくられている。だから契約に違反した国王は、暴君として排除されるという論理があります。これは中世からあります。キリスト教の社会では国王の権力は、宗教的なもので与えられこともありますが、一応合理的な国民と国王の統治の契約があって、この契約に違反した場合は、国王でも追放するということができるという前提で、君主主権とか国民主権とかがあります。所が、日本の場合は、保守派の天皇中心に考える人たちは、国民主権とか君主主権とかいう概念、主権というのは国家権力をどちらが取るかという革命的な概念で、日本の共同体的な国家には相応しくない。それはヨーロッパの概念で、国民主権とか君主主権とかは主権の所在が何処にあるかといったような議論で、天皇を位置付けるのは間違いであると天皇論者は言っている。結局、国民主権にしても人権の観念にしても個人の尊重にしても、そんなのは日本の社会では合わないという発想で改憲論者は言う。そのような発想で憲法というものを考えているので、これは世界的にみてもかなり異質な発想で考えている。
ヨーロッパの君主の行為は憲法に規定されている。多くの国は書いていますが、イギリスだけは憲法がないので法律で規定している。イギリスの場合は慣習法というのが結構あって明文はないが長い伝統があり、こういうルールで国王は運営しますとか定着してきている。実は、ほとんどイギリスの国王は元首であるが、建前上は君主主権になっている。しかし、ほとんどその機能は果たしていないので、元首といっても君主の役割はしていない。実質は、議会や内閣が実施している。イギリスの王家は日本の皇室と違ってかなり開かれています。イギリスの場合は、世論的に日本よりもっと進歩的で、共和制でもいいよとさらと言います。日本人はさらっとは言いません。

Q:天皇に対する国民の感情は明治維新後に醸成されたもので、それ以前の1千年近くはそのような感情は日本国民になかった。如何に明治以降の国民に対する洗脳が巧妙かつ組織的であったとしか思えない。ヒットラーが日本国民の天皇崇拝を、脅威と驚きをもってみたと、ゲッペルスが書いているようですが、それほど日本の天皇崇拝は特異のあるということですが、これの解明を最もやらないといけないので?
A:そこの問題が最も重要だと思いますが、これは憲法論ではできなくて、社会学とか、もっと広い学問で全体的にアプローチしないと難しいものです。
日本は共和制の観念が非常に弱い。進歩的と思われる鈴木安蔵さんら7名の知識人による憲法草案も儀礼的天皇としており、今の憲法にかなり近い。唯一大統領制の憲法草案を書いたのは高野岩三郎で、鈴木安蔵らと一緒に憲法草案を書いたが、別個に単独で出した草案では大統領制の共和制の憲法を提出している。それはかなり少数派です。最も進歩的と言われた鈴木安蔵らの憲法研究会の憲法草案すら儀礼としての天皇、ほぼ今の象徴天皇に近いのです。やはり歴史的な限界を持っており、なかなか抜けきれないということが続いている。
日本の自由民権運動は徹底していなく結局天皇制なのです。勿論、薩長の明治藩閥政府は当然天皇支持者ですが、それに反発した土佐の板垣とか中江兆民とかいろんな意見がありましたが、これは必ずしも天皇廃止論者ではない。やっぱり天皇尊重論者で、天皇の下での自由主義化です。それから自由民権運動は、初期は政府批判ということで民権論でしたが、徐々に国家権力の方によって行き、ナショナリズムなって、結局は朝鮮征伐論になる。だから民権運動は国権論の様相をそもそも持っており、天皇主義者でもあるし、我々が習ったイメージでは、自由民権運動は日本の市民革命を担った素晴らしい流れだということであるが、必ずしもそうでなく、見直した方がよい。福沢諭吉にしても、初期は非常にリベラルな自由主義者であったが、晩年になるとやっぱり朝鮮征伐論になる。自由民権運動はかなり民族的愛国的でナショナリズムで、だからだんだん晩年になったら自由民権運動は分裂し、過激主義者にもなって朝鮮に行って革命をやろうとか無茶苦茶なことをすることになる。

Q:憲法での天皇は象徴であるが、今の天皇の象徴とは何を見れば良いかと言えば、激戦の島に行ったりとか災害地とか行ったりという行動でしか推し量りようがない。だからそれを見て我々も育ち、今の若い人も育ち、天皇はあのような姿なのだと、あれが象徴なのだと、多分それしか掴みようがないと思う。そこに非常に平和的な人ではないか、平和的な皇室ではないかなとの印象を多分もつと思います。それが即、政治的、軍事的に結び付けられることは今の所あからさまにはない。しかし、国会でそのような」動きがない訳ではないが、巧妙にやればやれない事もない余地もあるかも知れません。その時に憲法上に象徴として掲げていることが、日本の将来の方向を誤らせることを日本国民として認識する必要がある。
A:もともと天皇には象徴性と政治性とがあって、本来の天皇の姿は象徴性であった。明治以降の明治天皇とか昭和天皇とか、権力を与えられたのが非常に例外的で、どちらかと言えば、政治の中心には天皇はいなかった。歴史的には忘れ去られるような存在でした。明治、大正、昭和の前半の天皇が全く異質で、戦後本来の天皇に戻ったんで、これが本来の天皇の姿で、これこそが好ましいのだということでむしろ正当化する動きがある。

Q:戦前、天皇機関説とかでましたが、そのような考えが育たないというのは、法的に規制するようなことは日本で馴染まないということですか?
A:天皇というものを憲法とか法律の外に例外的に置くようなことは、立憲主義ではない。立憲主義というのは、憲法に定めたことしかできないというのが立憲主義です。しかし、明治憲法の下では、一応天皇も元首だとか権限が書いてありますが、書いてない事もできるという立憲主義を超えた所の憲法を超越した位置づけをした。明治憲法をつくった人たちからして、そのような位置づけしている。それではダメであると美濃部達吉が天皇機関説を出し、大正デモクラシーの時代は公務員試験でも、それは正しいとされていた。
勿論、美濃部達吉だけでなく同志社大学の田畑忍先生などもいた。大正デモクラシーという民主主義の時代には、天皇機関説がかなり支配したが、その通説が、昭和の軍国主義になると、これは危険思想になり追放されていき、美濃部の憲法の教科書は発禁処分になる。
A1:中学の憲法の授業で、象徴天皇の象徴とはシンボルだから平和の象徴のハトと一緒であるというのが非常に印象に残っていますが、その程度に軽く考えた方がいいのでは。本当に天皇の意思で明治、大正、昭和の時代で政治が行われてきたかというと、そうではなく取り巻きが天皇を利用していた。取り巻きにとって都合の悪いことは天皇を無視するなりごまかしたりしてきた。今も同じように憲法の縛りが邪魔だから変えようという動きできている。それに対して国民主権という時、本当に日本人は主権者意識をもっているのか、お上が言えばうん言い、若い人であれば周りの空気を読んでと、国民主権と言う前に個人の自立化があって初めて主権の意識が出てくる。戦前の隣組と同じだと最近ますます感じています。

Q:天皇の戦争責任について
A:戦争責任については天皇が悩んでいたとの最近の報道があるが、個人的には戦争の責任を感じていたかも知れないが、公けには辞めるということは多分なかったんだろうと思います。結局天皇を守ったのはマッカーサーで、カッカーサーが象徴天皇として残すことが、日本の戦後をアメリカが支配し易いということで、残った。その代わりにマッカーサーノートの3つの原則、天皇を残すことと、その代わりに全ての戦争を放棄するという妥協を受け入れた。所が天皇は象徴であったけれど、1950年代の初め頃に、沖縄を今後50年とか支配しても構わないということを、積極的に天皇自身が言っている。天皇自身は個人的には戦後大分経ってから靖国の問題などで少し距離を持ったと思いますが、敗戦当時自ら辞めるとかいうのはなかったと思います。

2.自民党の9条改憲案について 
3月25日に自民党大会で安倍9条改憲案がでた訳ですが、これは現行9条を維持した上で9条の2として「前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、そのための実力組織として、法律で定めるところにより、内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮監督者とする自衛隊を保持する。」の条文をつくった。現行憲法の1項、2項、特に2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」を維持した上で、この条文をつくった。これについてどう見るかというかという所が、今いろいろ議論されている。

(1)9条への自衛隊明記による「戦力」不保持規定の空文化
結論は“9条への自衛隊明記による「戦力」不保持規定の空文化“ですが、つまり「必要な自衛の措置のために自衛隊を保持する」ということにすると、前項で戦力を保持しないと言っているけれど、後の方の条文が法律的には優先しますので、結局戦力を保持しないと言っている条文は空文化して、必要な自衛の措置のための自衛隊という所が強調されて行くことになる。
(2)9条に「自衛権」を明記すべきか否かの論議には警戒を
安倍改憲は「自衛隊」を明記するだけで、「自衛権」を明記しないというのが特徴になっている。所が、自民党の中には「国の自衛権を妨げない」というのを置いたらどうかという案もある。自衛隊を明記するよりもむしろ自衛権の存在を明記した方が、良いのではという議論もあり、有力な見解としてありますし、そして自民党の改憲草案は、そのような形になっている。
安倍改憲案は自衛権につて何も書いてないが、これは自衛権を認めないという意味なのかどうかということになると、実は「必要な自衛の措置」を取りうるという表現は、国家固有の「自衛権」を前提としないと出てこないものであるということは、砂川最高裁判決に書いているし、これまでの政府見解でも「必要な自衛の措置」というのは自衛権があることを前提としていることになる。つまり自衛権を9条に明記するかどうかに関係なく、あることが前提になっていることなので、現在、自民党の中の多数意見としては、書く必要はないといことで、書かないのが有力で、またその方が国民受けする。国民が自衛隊を認めている以上、ただ自衛隊を明記するだけなので問題ないだろうという考えです。逆に自衛権を明記すると、個別的自衛権なのか集団的自衛権なのかについて、余分な議論が発生するので、当面はこれでよいというふうに考えているようだ。

(3)護憲派、野党の改憲論
所が、安倍9条改憲に反対する「護憲派」の中にも「自衛権」を容認したり、「自衛権」を明記する改憲案を提起する動きがかなりでてきている。これは結果的には自民党の改憲論に巻き込まれるものではなかろうかというのが、澤野先生の危惧している点です。「護憲派」の中で、「自衛権」を明記した方がいいという改憲案があります。

*自由党の小沢一郎氏の改正案
現行の九条の一項と二項の後に、「ただし、前二項の規定は、平和創出のために活動する自衛隊を保有すること、また、・・・国連の指揮下で活動するための国連待機軍を保有すること・・・を妨げない。」という三項を追加の案を早くから提案している。

*立憲民主党の枝野幸雄の民主党時代の改正案
現行の九条の一項と二項を残し、九条の二として、「①我が国に対して急迫不正の武力攻撃がなされ、これを排除するために他に適当な手段がない場合においては、必要最小限の範囲内で、我が国単独で、あるいは国際法規に基づき我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を守るために行動する他国と共同して、自衛隊を行使することができる。・・・③内閣総理大臣は、前二項の自衛権に基づく実行行使のための組織の最高指揮官として、これを統括する。」の条文を二項に追加する案を提案している。
専守防衛、即ち、個別的自衛権と制限付き集団的自衛権を認める憲法改正で自衛隊は当然認める。民主党は憲法の改正案はつくらなかったですが、2005年に憲法提言をだしています。ここにはっきりと個別的自衛権、専守防衛と制限付き集団的自衛権を認めるという立場が民主党の方針でした。それを枝野さん条文化したものと考えられる。

*希望の党の長島昭久氏ら
九条の一項と二項に続けて、「前二項の規定は、我が国にとって急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限の範囲内で、自衛権を行使することを妨げるものと解釈してはならない。」の文言を追加する案を提案している。
これは自衛隊を明記するのはダメで、そんなのは技術的なことで、根本は国家が自衛権を行使できるかどうか問題で、自衛隊を明記するかどうかは細かいことで、法律で定めればよい話で、憲法では「自衛権」ということを行使できることを書くのが大切であり、自衛隊とかは組織論の話は、法律で定めればよい。このような観点で安倍改憲案を批判している。こうなると2010年の自民党の改憲案とあまり変わらない。

*伊勢崎賢治氏、小林節氏
彼らも、自民党案に近いと思いますが、9条2項を改正して専守防衛の自衛隊を明記するという案を提唱しています。

*共産党
自衛隊を明記する九条を変えることには反対なのですが、専守防衛の個別的自衛権を認めている立場を取っている。
元共産党議員の筆坂秀世氏は、自衛隊を憲法違反とするなら、立憲主義的には自衛隊を違憲のまま放置しないで解体を主張すべきではないか。しかし、それが非現実的なことなので、「共産党ですら、自衛隊の解散などを主張しません。そうであるなら、自衛隊をきちんと憲法の中に位置づけましょうよ、というのが安倍首相の主張」であると、述べている。だから共産党は立憲主義的ではないと批判している。共産党は自衛隊活用論で憲法9条は改正しないが、自衛隊は専守防衛として活用できるとして、個別的自衛権を容認している。

*長谷部恭男氏
長谷部氏も集団的自衛権の行使は憲法違反、それは何故かというと憲法9条は個別的自衛権だけが認められているので、集団的自衛権は認めないという論調である。つまり長谷部さんの前提は個別専守防衛の合憲論なのです。従来の政府見解なのです。長谷部さんはリベラル派とされていますが、このような憲法学者がでてきています。

*日本会議の識者
「日本共産党は、自衛隊は憲法違反だとか段階的に解消していくとか言いながら、民進党と連携するために、便宜的に自衛隊解消は凍結するとか、今は自衛隊を活用するといったことを言っている。その一方で、『立憲主義を守れ』と訴えているわけですが、これほど立憲主義を愚弄した態度もないと思います。まさにご都合主義的立憲主義以外の何物でもない。」と主張している。
日本会議は、共産党は自衛隊を明記する九条を変えることには反対なのですが、専守防衛の個別的自衛権を認めている立場を取っているから、自民党がだしている憲法改正に反対する理由はないじゃないですかと言っている。これは野党を分断するために、このようなカードをだしてきた。

以上のように、共産党からリベラル派からほとんどが憲法9条の下で集団的自衛権はダメであるが、個別的自衛権は認めるという議論が増えてきている現象が見られるというのが最近の動きです。
澤野先生は、9条の下では自衛権という概念は放棄されているとの主張ですので、個別的自衛権も集団的自衛権も含めて認められないとの主張しているが、憲法学者の中でもかなり少数派です。

5.「非武装中立と平和保障」(澤野先生の著書)
―憲法9条の国際化にむけてー
第3章 憲法9条と自衛権論
ここは護憲派からみた自衛権論です。
Ⅰ 個別的自衛権論
1 国際法上の「個別的自衛権」概念
「自衛権」という概念の定義をしないと、それを認めるとか認めないとかの議論ができない。前提として国際法上、「自衛権」はどのように見られているかを押さえた上で、それが憲法9条ではどのように評価するかという論理的な考察をした。
国連憲章51条に「国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛権の固有の権利を害するものではない」という表現で各国が国際法上「自衛権」を有することを確認している。
「自衛権」の定義は、刑法での正当防衛権と大体同じような考えで、刑法では個人ですが、それを国家に当てはめている訳です。他国が違法な武力行為を加えてきたという前提で、これに対して反撃を加えて相手国をやっつけてしまっても、国際法上の責任は問われない、刑法の正当防衛の場合も罪を問われないと同じで、国家の場合も違法な武力攻撃に対して反撃を加えても相手をやっつけても、戦争責任とか賠償とか問われない。但し過剰防衛はダメです。これが自衛権の定義になります。
このようにはっきりした「自衛権」という概念は極めて新しく、それは国際連盟が1920年に初めてつくられて、どちらの国が侵略したかを認定する国際機構は初めて登場したので、侵略か自衛かという判定が可能になった訳です。1928年のパリ不戦条約で、戦争は一般的には全て禁止、違法にするという概念が登場してきた。その反作用として全く戦争ができないのは不都合なので、自衛のためであれば戦争は合法だということで、ここで初めて自衛権ということがはっきりしたと国際法上は言われている。1920年、1928年の辺りが今言われている、“違法な武力攻撃に対し、防衛の緊急性がある場合、反撃の均衡性の条件”、の「自衛権」の三要件が打ち出された。つまり「自衛権」というのは侵略戦争がダメだということがはっきりしたので、それ以外の戦争として「自衛権」が唯一戦争、武力行使ができる概念になった。国際連盟ができていない1800年代はどうなっていたかというと、戦争が起こった場合、「あなたの国は侵略しましたね」とかいう判定する第三機関が存在しなかった。その当時は「戦争自由(無差別戦争)」論の時代で、どちらが正しいとかは問題にしない、即ち戦争に正義があるかないかということは問題にしない。戦争は自由でどちらが正しいかということは判定できないので、結局始まったら合法であると、但し、無差別でなく一定の戦争のルールを守れば合法であるという戦時国際法があった。正規軍と正規軍のみが戦いなさいとか、軍隊が一般国民を攻撃するとかいうのは戦争犯罪になりますよとか、捕虜を虐待してはいけませんとか、非人道的兵器を使用してはいけませんとかいう戦争のルールを守る限りは、武力紛争は合法であるというのが19世紀でした。
第一次世界大戦後、戦争が大規模化するとこのような発想でやるのは何かおかしいということで国際連盟ができ、パリ不戦条約から初めて正しい戦争と悪い戦争を分け、正しいのは「自衛」であり、侵略のみが悪であるという「正戦説」です。中世のキリスト教の正戦論が国際法として復活してきたということです。これが一般的には現在の国際法でも同じであり、武力攻撃が唯一正当化できるのは「自衛」しかない、「自衛」という名目を立てない戦争は認められない。アメリカは何時も侵略していますが、「自衛」といっています。これは不戦条約に基づく限りは唯一の正当化としては「自衛権」の行使と言うしかない。

「自衛権」の解釈について
第一に、「自衛権」の発動という場合に、実力行使と言われていますが、実体はこれは武力と考えるべきではないかと思われる。武力によらないで自衛するというのは、「自衛権」にはいらないではないか。これは国際法で考えてきた「自衛権」は、武力で自衛する意味なので、9条のように武力放棄した場合、「自衛権」を発動する概念にかからなくなると言う点を押さえておく必要がある。日本ではこの点についてはっきり述べる国際学者がいないのですが、澤野先生の調査では国際法学者ディンシュタインが同趣旨のことを述べている。
第二に、「自衛権」というのは武力で守るということですから、武力の保持を憲法で禁止したりすると、あるいは国際法が不保持を認めている国家であれば、国家主権から「自衛権」を放棄するというは可能であると言っている学者もいる。だから、国家あるいは国家主権から「自衛権」を放棄することは、国家主権の多くの主権の一部である軍事権力を放棄することであり、国家がなくなるということでもなく問題ない。たしかに国際憲章で「固有の権利」と書かれていますが、国際法学者によると、これは厳密な意味の「基本的人権」が「固有の権利」だという意味ではなく、これはかなり修飾語的な表現として言っているので、「基本的人権」であれば「自然権」として放棄できないが、国家には「自然権」がないから放棄してもよいのだ、国家そのものを放棄するのとは意味が違うと言っている。
社会契約論の国家論を依拠して考えれば分かるように、武力で自衛するという国家権力を憲法が認めかどうかで決まるので、憲法でそういうものがないとなると放棄してもよいという解釈は十分成り立つ。立憲主義で、国家権力はどのような権力を行使できるか、憲法で定められた形でしか行使できないので、憲法に書いてない権力行使は出来ない。
第三に、「自衛権」の国際法上の法的根拠は、国際慣習法ないし国連憲章にあると考えられている。
第四に、国際法、国連憲章で「自衛権」を認めているが、これはあくまでも権利行使ができますよと言っているだけで、「自衛権」を行使しなさいという義務付けを国連加盟国に課している訳ではないので、その権利を各国がどのように行使するか、行使しないかは各国の憲法で自由にできるというのが独立した主権国家に認められていることです。

2 憲法9条と「個別的自衛権」論
(1)「武力によらない自衛権」説の問題点
国際法の一般的な「自衛権」を前提とすると、憲法9条上は武力を認めませんので、「自衛権」は放棄されていることになる。所が多くの護憲派の憲法学者は、このような考え方を取らなかった。即ち武力によらないが、「自衛権」そのものは国家からは取り去ることはできないという前提に立っている。結局武力によらないということと「自衛権」を結び付けてしまった。つまり国家主権には自衛権」は不可欠であり固有の権利であるとの前提で、かつ9条があるので「武力によらない自衛権」という概念を護憲派の人達はずうっと唱えてきた。「武力によらない自衛権」の内容は、初めて自衛隊を違憲とした長沼ミサル基地訴訟の第一審判決(札幌地裁1973年9月)の中で、学説の多数説を依拠して示されている。5つの内容を示しており、①事前の平和外交、②警察力、③群民蜂起、④侵略国国民の財産没収・追放、⑤国連警察行動への依存、などの手段が考えられると述べた。これは通説であったので、護憲派としてはあまり違和感がなかった。所がよくよく考えてみると、この中身は国家の自衛権と称していいのかと少数派は疑問視してきた訳です。
平和外交権は、国家である以上、憲法上やらねばならないが、これは武力によらない自衛権と呼ぶ必要性があるのかどうか。警察力の場合は、警察官は権利行使できますが、侵略軍に対抗する権限は警察法上ありませんし、警察力も武力行使すれば交戦権行使になり、その限りで憲法違反になる。群民蜂起とは、人民が自ら戦うという方法ですが、これは国家の「自衛権」とは関係なく、人民の抵抗権で、性格が違う。侵略国国民を追放するというのは、戦争であっても国際人道法上問題がある。国連に守ってもらうというは、国家の「自衛権」とは別の集団的安全保障という概念です。「武力によらない自衛権」として述べられた内容は、「国家の自衛権」とは違い、わざわざ「武力によらない自衛権」という概念を立てる必要性がそもそもないのではないか。

(2)政府の「武力によらない自衛権」説の由来と問題点
憲法がつくられてから1950年頃までは、憲法9条は「自衛権」を放棄している説もかなり有力でした。いろんな法学者が言っていましたし、吉田茂首相も、国会で共産党の「国家の正当防衛権は必要では?」との質問に対して、「そのような発想が戦争を誘発するのである」と答弁している。吉田茂も完全に否定した訳ではないが、あんまりそのような事を議論すべきではないのだと、懐疑的見解や実質的な放棄説であった。
所が朝鮮戦争の辺りから、マッカーサーが「武力によらない自衛権」はあるのではないかという形で先ずは言いだした。「武力によらない自衛権」という概念は、護憲派が後で考え出すのですが、最初に考えだしたのは政府の方です。政府の方が僅かの期間だけ、4年間ぐらい、マッカーサーが、朝鮮戦争が起こってから、「自衛権」そのものはあるんじゃないかということを言いだして、それから警察予備隊、保安隊を正当化していく形になった。その時に「武力によらない自衛権」を主張していた。自衛隊が創設されるまでの4年間、「武力によらない自衛権」という概念を使っていた。
まだ占領下に置かれていたという事情もあり、そろそろ日本が独立して国際社会から承認され、独立国家になると何らかの「自衛権」が認められるはずであるが、しかしいきなり武力があるということになると国際社会から監視されているので、いきなり言えないので、「武力によらない自衛権」ぐらいはということで、先ず警察予備隊を正当化していく。まだ自衛隊ができていなかったのでこの「武力によらない自衛権」は、力点はどこに置かれていたかというと、自衛隊がないから、所謂、個別的自衛権はあまり考えていなかった。むしろ「武力によらない集団的自衛権」の方を考えていた。つまり米軍によって守ってもらおうと、日本の軍隊でないアメリカ軍で守ってもらうという日米安保条約を、日本は基地だけを提供する事で、この「武力によらない集団的自衛権」の方を使っていた訳です。「この武力によらない集団的自衛権」の下で日米安保条約が正当化されると、永世中立論というのが、集団的自衛権と全く対抗する概念になります。敗戦後に政府内部では永世中立国になったらいいのではないかという内部検討がされており、1950年初めまでは、マッカーサーが日本は東洋のスイスになってはどうかと言う意見もありました。日本が独立した暁には、日米安保同盟ではなく、永世中立国として軍事同盟を認めない道もありますよと言う」意見も結構ありました。所が「武力によらない集団的自衛権」論がとられることによって、吉田茂も東大の国際法学者の横田喜三郎もこれを正当化し、永世中立論は過去のもので国連ができた時代ではダメであるということになっていく。
政府としては自衛隊ができると、「自衛権」というのは結局「武力による自衛権」といように解釈します。但しそれは自衛戦争を認めるという言い方はしません。9条は、戦争は一切認めないという点は言うんですが、では何故自衛できるかというと、それは自衛権による自衛力、自衛権がある以上は何らかの力があり、それが自衛力である。その自衛力を担うのが自衛隊である。これは軍隊ではない、あるいは戦争するものではないという言い方で正当化してきた。必要最小限の自衛力は認められる。それは戦力ではない。憲法9条は戦力を放棄していますから戦力でない自衛力という言い方をする。「自衛権」があるから自衛力ある、それは必要最小限である。必要最小限の自衛力の基準はどのように決めるかと言えば、絶対的基準がないので軍事技術の発達とともに変わるもので、相対的なものである。核戦争、核兵器がある時代の必要最小限の自衛力は、必要最小限の核兵器の保有であるということになり、2年前には安倍内閣は、核兵器の保有だけでなく使用もできるという解釈しています。従って非核三原則というのは政府としては政策としては言うけれど、憲法解釈としては、核兵器は保有できる訳です。非核三原則はあくまでも政府の政策ですから、止めますよと言えば明日にでも止められる。アメリカの核の傘の下でやっているので、核兵器廃止条約なんて全く問題外です。絶対締結しませ

                      以上

(井上浩氏記)