安倍首相の「コロナ非常事態宣言」と≪神の宣教(missio Dei)

ミッション・ステートメント 20‐1 糸島
安倍首相の「コロナ非常事態宣言」と≪神の宣教(missio Dei)≫
投稿者:福岡国際キリスト教会・糸島集会 牧師 木村公一氏(2020 年 5 月 10 日改訂)

はじめに
 宗教の中枢には、社会における人間の実存的・霊的な課題が据えられていますが、それは政治と深いところで関連しています。なぜなら、政治が人間のために、人間的な仕方で、人間によって為されねばならない務めを負っているからです。この両者、すなわち宗教と政治の接点には≪信教の 自由≫と≪公共の福祉≫という課題があります。この二つの課題をめぐって宗教と政治はあるときは癒着し、あるときは緊張関係を保ってきました。

 新型コロナウイルス(以降「コロナ疫禍(えきか)」と省略)の世界的な感染拡大を受けて、去る 4 月 7 日、安倍首相は「緊急事態宣言」を発令しました。「緊急事態宣言」はある意味で壮大な社会政治的実験です。すでに学者たちがこの「実験」を研究し始めています。その成果の一部が学術書 や政治社会誌で刊行されています。それらの成果を権力政治に携わる政略家たちや広告会社や国際 資本が利用しないなどと誰が断言できるでしょうか。事実、外出制限下に置かれた国民の意識がコ ロナ疫禍の恐れにとらわれているときに、奇妙な政治の動きが内閣や立法府において起こっています。

 さて、「緊急事態宣言」を受けて、多くの教会は ―「宣言」以前に少なからぬ教会が ―「密集を余儀なくされる教会堂が集団感染の温床にならないために、また、教会が主日礼拝を今までの形で続行すれば、社会的信用を失うことは明白なので、礼拝はしばらく中止する」と常識的に判断したようです。本論はこの「常識」を神学的・社会学的に問う試みです。仮に教会がその「常識」を主 の御言葉の上位に置くことで、あるいは、主の御言葉の外部に置くことで判断したのであれば、大きな問題ではないでしょうか。「主の御言葉の外部に置く」とは、「緊急事態宣言」は信教の自由と 何ら関係しない、と考える人たちの判断です。私たちの問題提起は、何も感染を拡散させる過激な 行動を支持するものでも、また、PCR や抗体検査を一般的に行なわない政府方針のもとでの「集団 免疫」に賛成するものでのありません。

 それでは、教会(牧師・信徒)は聖書をいかに読み、祈り、考え、説教し、主の宣教に参加すべきなのでしょうか。本論に入る前に、出発点を明確にしておきます。 「緊急事態宣言」≫対≪ 教会という直接的な対立軸もさることなが ら、その中間に「世間の常識」という常数があるということです。それを図式化すれば、右のようになります。つまり、教会はある意味で 「緊急事態宣言」よりも手強い「世間の常識」をも相手にしており、 それを通して、「緊急事態宣言」を考えなくてはならないのです。なぜなら、「宣言」の発令を無造作に 煽ったマスメディアと国民に責任の半分があるからです。

 この文書は、この二ヶ月間、糸島集会の信徒たちが貧しくも愚直に交わした対話のもとで、神学的な思索を重ねて至りついたひとつの中間的な提言です(小さなコミュニティである糸島聖書集会は、一か月前に、福岡国際教会(篠原健治牧師)の総会に、「2020年度の糸島聖書集会のミッション・ステートメント」を提出しました。この文書は、その総会資料を下敷きにして改訂・加筆したもので、文書の責任はわたし木村公一にあります) 。
私たちは、さらなる対話が深化させ、教会が正しい道を見出すために、糸島集会の枠を越えた読者のご批判とご助言を期待しています。

1. 私たちの基本的な視点
 わたしはニーバー主義者ではありませんが、有名な「ニーバーの祈り」は、新型コロナウイルス の世界的な感染拡大に曝されている私たちに基本的な視点を与えてくれます。

   神よ、変えることのできるものについて、変える勇気を与えたまえ。変えることの
  できないものについては、受けいれる冷静さを与えたまえ。そして、変えることので
  きるものと、変えることのできないも のとを、識別する知恵を与えたまえ
  (太字は木村牧師、大木英夫『終末論的考察』中央公論社 1970 年 23-26 頁)。

 つまりこの祈りは、コロナ疫禍には、私たちの責任において「変えることができる事柄」(政策・世界観)と、「変えることができない事柄」(自然・神に属する事柄)とがあり、その両者を「識別する知恵」が必要であることを示唆しています。けれども、人間が両者を「識別する知恵」を獲得できるでしょうか。どちらかと言えば、わたし自身は悲観的です。これは人間にとって永遠に≪祈 り≫であり続けるでしょう。けれども私たちはこれを追い求めることは許されています。この≪追 い求め≫こそが≪祈り≫であり、この≪祈り≫を放棄したものは人間であることをやめることにな るのです。これは私たちが本論のテーマと取り組む基本的な≪視点≫です。 そこで以下に、宣教論の視点から、問題を三つに分けて記述します;

A. コロナ疫禍とは何か
B. 安倍政権が発令した「緊急事態宣言」とキリスト教会の働き(ミニストリー)
C. 「緊急事態宣言」の問題について

           A.コロナ疫禍とは何か

2.過去のインフルエンザ禍と比較して 注1
さて、日本列島に住む私たちは、どの位の人々が新型コロナウイルスに感染しているのか、実際 のところ分かっていません。私たちがマスメディアを通して毎日知らされるのは、感染者数ではな く、PCR 検査を受けた人々のうちの感染確認数に過ぎないのです。つまり福島原発事故の放射能被 曝被害と同様に、PCR や抗体検査などによって、感染被害の広がりや免疫を獲得者の概数はなぜか 調べられていないのです。つまり、科学的データに基づかず、なにか他の要因によって「緊急事態宣言」が発令されたようです。
 注1 資料:このサイトには、暦年ベースのインフルエンザ死亡者統計が詳しい解説と共に記載されている。

そこで私たちはコロナ疫禍以前のインフルエンザ禍に注目します。厚生労働省の調査資料によれ ば2019年度の国内のインフルエンザによる死亡者の累計は3317人です。(未記載の12月分は除く)。 ところが専門家によれば、この死亡者数は、医師が死因をインフルエンザと認めた人のみで、イン フルエンザの健康影響を総合的に分析・評価せず、多くの死亡者が他の死因に分類されていると言 われています。実際はこの人数の数十倍を想定する専門家も少なくありません。国立感染症研究所(IDSC)自身が「インフルエンザの医療機関を受診しなかった患者を含めた総患者数を把握することは事実上困難である」と言っています。

次のような研究もあります。山梨県立大学看護学部教授・高橋美保子教授(統計保険情報学)は、 「超過死亡」という分析方法を用いて感染者数の範囲を推定しています注2。(「インフルエンザ流行による超過死亡の範囲の推定:年間死亡率と季節指数を用いた最小超過死亡の推 定モデルの応用」2006 年。『公衆衛生誌』53 巻( 2006) 8 号所収、554-561 頁。因みに、「超過死亡(excess mortality)」とは、インフルエンザが流行するとき、呼吸器系疾患をはじめとする各種死因の死亡数が、 非流行期の死亡数と比べて異常に高くなるという現象をいいます。高橋教授によれば、1973 年にWHO (世界保健機関)がすでに「超過死亡」から死亡数を分析することを促しているとのことです)。
注2「インフルエンザ流行による超過死亡の範囲の推定:年間死亡率と季節指数を用いた最小超過死亡の推 定モデルの応用」2006 年。『公衆衛生誌』53 巻( 2006) 8 号所収、554-561 頁。因みに、「超過死亡(excess mortality)」とは、インフルエンザが流行するとき、呼吸器系疾患をはじめとする各種死因の死亡数が、 非流行期の死亡数と比べて異常に高くなるという現象をいいます。高橋教授によれば、1973 年にWHO (世界保健機関)がすでに「超過死亡」から死亡数を分析することを促しているとのことです。

 一例を記せば、1999 年 の超過死亡は下限約 37,000 人~上限約 60,000 人の範囲と推定され、約 49,000 人が点推定(下限と上 限の中間値)されました。因みに、厚生労働省の人口動態統計では、1999 年のインフルエンザによ る死亡者数は 1,342 人です注3 。この 49000 人と 1342 人の極端な格差は上記の理由に由来します。 去年(2019 年)、厚生労働省の統計で 3317 人もの死亡者数をだしたインフルエンザの猛威に対し て、マスメディアや人々の間で「緊急事態宣言」の発令は話題になりませんでした。ところが、今 年、3 月の中旬頃から ― その時点で死亡総数は 21 名 ― 世論は、政府に対して「緊急事態宣言」 を要求しはじめました。その理由は、安倍首相が「聖火リレーのスタートに立ち会いたい」 (3月14日)の発言に対する国民の反発にあったのか、あるいは、欧米の諸都市で過激な「都市封鎖」が行 われたことに世論が敏感に反応したのか、わたしは未だ分析資料を読んだことがないので引用できません。
注3

3.内務省衛生局の報告が語るもの
 スパニッシュ・インフルエンザ(通称「スペイン風邪」)が流行した 100 年前、世界中で「亡くな った人の数は 3000 万人を下らず、たぶん 5000 万人かそれ以上であった」(クロスビー)注4。日本では 医療崩壊が起こり、交通機関や通信機能がマヒ、その歴史的顛末が、国立国会図書館デジタルコレ クションに収められた、内務省衛生局の報告書『流行性感冒』 注5 に 484 頁にわたって詳しく報告されています。内容は、外国および日本の感染状況に関する調査・分析・措置に関する報告です。
注4アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ:忘れられたパンデミック』西村秀一訳・解説 (みすず書房 2004/2009 年新装版). 訳者の西村秀一によれば、当時日本の人口 5,500 万人のうち 47%にあた る約 2,350 万人が罹患しました。そのうち 385,000 人がインフルエンザないし肺炎で亡くなっています。(同書 416 頁)
注5 https://ja.wikisource.org/wiki/流行性感冒豫防心得 にはその一部が読みやすく紹介されています。テ キストは、内務省衛生局(大正 11〔1922〕年 3 月 30 日)、「第五章 我邦ニ於ケル豫防並救療施設 第 二節 本省ニ於ケル施設」 『流行性感冒』119 頁

 衛生局はこれを「風邪」と区別して「流行性感冒」という訳語で呼びました。それとの比較で、この度の「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の報告は、新聞などで読む限り ― PCR 検 査や抗体検査を除いて ― 100 年前の衛生局の報告の丸写しであることが分かります。つまり、私たちの国は、 スパニッシュ・インフルエンザで40万人近い死亡者をだしながら何も学んでいないので、 繰り返し襲ってくる新型インフルエンザに基本的な準備態勢を整えることができないのです。これがドイツ、韓国、台湾との大きな違いです。違いはさらにあります。国民に「不要不急」の外出を控えるようにと訴えながら、アメリカから 1 機 116 億円のF35 戦闘機を 147 機(総額 6 兆 2181 億円)も「爆買い」する日本政府の愚行こそ最大の「不要不急」でなくて何でしょうか。日本人の人間性はどうなっているのでしょうか。これはきわめて宗教的な問題(「愚かな金持ちのたとえ」ルカ12 章13-21節)です。

4.コロナ疫禍は、私たちの日常であった世界こそが「異常」であるかを教えている
 コロナ疫禍は、現代世界に対し、いくつかの問題で根本的な再考を迫っているようです。人類の歴史は、おびただしい人々の犠牲の上に、さまざまな疫病に対する免疫を獲得してきた一方で、戦争によってこの世を殺戮と餓死の地獄に変え、大地震・大噴火、大洪水などの巨大自然災害を忍耐と希望によって辛抱強く生き延びてきた物語です。知識人はそれを人間の科学の勝利などと高をくくる資格はありません。

 『愚行の世界史』の著者バーバラ・W・タックマンは、メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレー牧師が大英帝国の閣僚ダートマス卿(ウイリアム・レッグ)に送った書簡を引用して「故郷や補給から三千マイル離れたところで〔アメリカ革命を潰す〕戦争をして、自由 のために戦っている国民を征服できるとはとうてい思えません・・・お願いです、レハベアムを思い出 してください!」(下線は筆者)注6と忠告しています。その意味で、コロナ疫禍が異常事態なのではなく、いのちの貪りと富の欲望を成長原理とする新自由主義、国家独占資本主義が作りだした世界こそが「異常事態」なのです。
注6 バーバラ・W・タックマン『愚行の世界史(下)』大社淑子訳(中公文庫 2009 年)43 頁.レハベアムとはソ ロモン王の子息の一人、彼の治世の初めに(紀元前 930 年)、王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。旧約聖書続編のシラ書(集会の書)47章23 節は、「民のうちで愚かで分別のないレハベアム、彼はその政策のゆえに民の反逆を招いた」と酷評しています。

5.感染症の南北問題
 米国のミネソタ大学 CIDRAP(感染症研究政策センター〔Center for Infectious Disease Research and Policy〕)の WEB リポートによれば、注7インドネシアが H5N1 鳥インフルエンザに悩まされた 2008 年に、インドネシア政府保健相 S. F. スパリは、It’s Time for the World to Change in the Spirit of Dignity, Equity, and Transparency と題する本を公刊しました。内容は、裕福な国の製薬会社がより大 量のワクチンの販路を広げることを目的として「新型ウイルス」を製造し、それを貧しい国の人々に感染させ、H5N1 ワクチンから莫大な利益を得ようとしています、そのことを知っていた WHO (世界保健機関)に対して今後ウイルス検体を提供しない、と衝撃的な文書です。

 大統領の報道官 は直ちに、「インドネシアでは、世界の医療制度(WHO のこと)には解決すべき問題があることを 認識しているが、陰謀説は信じていない」と打ち消しました。ところが彼女はこの「陰謀説」で保 健相を解任されませんでした。つまり、当時のユドヨノ大統領はこの出版を黙認していたのです。この種の政治手法は、なにもインドネシアに限りません。この度も、トランプと中国政府との間で武漢の新型コロナウイルスをめぐり「陰謀説」の応酬が激しく交わされています。これが世に言う「感染症の南北問題」なのです。
注7 It’s time for the world to change in the spirit of dignity, equity, and transparency: Divine hand behind avian influenza, by Siti Fadilah Supari. Jakarta: Sulaksana Watinsa Indonesia, 2008.

     B. 「緊急事態宣言」とコロナ疫禍の下でのキリスト教会の宣教

 教会の対応
 時がよくても悪くても、牧師・伝道者の務めに自粛はありません注8。この命題はなにも、コロナ 疫禍の下でキリスト者は外出制限を無視して、ウイルス拡散の媒体になっても構わないというので はありません。そうではなく、コロナ疫禍の下でも、「緊急事態宣言」の下でも、「神の言葉は〔牢獄に〕繋がれていない」注9 という、現実の中の最もリアルな現実を言い表したかったのです。 この2ヶ月間、わたしは様々な教会関係者と対話を重ねたり、日本の教会の歴史資料を探ったり してみました。西南学院大学の図書館がコロナ閉鎖されているので、資料の範囲はわたしの書庫に 限られていますが、”Spanish influenza” に言及した記述がひとつありました。それは 100 年前に、 西南学院で教えていた宣教師 E.N.ウワーンの筆による「年次報告 1919」に「秋学期に、スパニッシ ュ・インフルエンザのために学院を二週間閉鎖しなければならなかった。」 注10 という一文です。当時、東京を中心に猛威を振るった「流行性感冒」が福岡にも影響を与えていたことが分かります。しか し、いまのところ教会の礼拝が閉鎖されたことを報告する資料にはお目にかかっていません。この あたり事情を知っている人がいれば教えてください。
注8II テモテへの手紙 4 章 2 節参照.
注9II テモテへの手紙 2 章 9 節.
注10 Annual of the Southern Baptist Convention, Sixty-Fourth Session-Seventy-Fourth Year;1919, 『西南学院百年史 資料編』所収.(西南学院百年史編纂委員会 2019 年)57 頁.邦訳はまだ刊行されていません。

 オンラインによる礼拝について
 今日、教会は様々な対応をしているようです。ある教会では牧師・執事(役員)だけで礼拝を守り、一般の会員には同時配信のオンラインによって自宅での礼拝に切り替えています。多くの教会では Skype や Zoom や LINE を使ってオンラインで礼拝式・説教を同時配信しているようです。少人数の教会や伝道所では、今まで通りの主日礼拝の仕方を維持しているところも少なくありません。
カトリック教会にいたっては主日ミサそのものを中止しました。コロナ感染の初期は地域によって感染状況が違っていたので、各教区が自主的に対処していましたが、「緊急事態宣言」が発令されてから、全国一律でミサを中止したようです。カトリックはオンラインでミサが成り立つかどうか が、現在、神学論争の最中だそうですが、プロテスタント会衆派は信徒が礼拝を司ることができるので、幸か不幸かそのような論争は成り立ちません。糸島聖書集会は二年前にはじめた出席者 10 人ほどの小さなコミュニティですが、地元の人々は集会に、遠方からの人々は同時配信のオンライン を通して礼拝を行なっています。

 「緊急事態宣言」に対する教会の対応
 疫学の専門家たちは、現代に生きる私たちは、新型コロナウイルスに対する抗体を持っていない ので、丸腰で戦場にむかう兵士のようだと形容します。専門家が自分の仕事を「戦争」に譬えるこ とに、わたしは違和感を覚えますが、実はこの何気ない彼らの言葉に、近代科学を下支えする形而上学 ― すなわち、自然に対する攻撃的な科学思想 ― が仕込まれているのを見ます 注11。
 宿主である人間に抗体がないのだから、このコロナ疫禍は簡単には収束せず、人々が油断すれば、 再び、三度、パンデミックに曝される可能性が高いと言われます。そのような状況のもとで与えられた時間を、糸島集会は、読書を尊び、人々の救済と解放を約束する神の宣教 (missio Dei:神ご自 身が行っている宣教) 、および、ウイルス学・疫病などの歴史を正しく学び、私たちが神の宣教(ミ ッシオ・デイ)を実践する年として務めを果たすことを決めました。
注11 野中宏樹・木村公一共著『原発はもう手放しましょう』(いのちのことば社 2015 年) 61-70 頁を参照
 一方、私たちは、安倍首相が発令した「緊急事態宣言」にひそむ重大な問題を認識しています。 そこで糸島集会は使徒言行録 5:29 とローマ人への手紙 13:1 を同時に読む道を模索する課題を受けとめます。それら二つのテキストを下に記します。 
●「ペトロとほかの使徒たちは答えた。《人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません》」(使徒言行録 5 章 29 節)
●「〔ローマにいる〕すべてのキリスト者は皆、帝国権力の下(もと)にとどまりなさい
注12。 なぜなら、神の委任によらなければ、いかなる権力もそれ自体では存在せず、また、存在している権力はすべて神の支配の下(した)に定められているからです。」
注13 (ローマ人への手紙 13 章 1 節、私訳)
注12 二ヶ所の太線部分は、C.E.B.グランフィールドの『注解 ローマの信徒への手紙』山内真訳(日本キリスト教出版局 2020年)443-446 頁に負っています。なお、「定められている」はインドネシア聖書協会標準訳においても採用されている。
注13 わたしが神学生のとき、左近義慈著『新約聖書ギリシア語入門』を教科書としてギリシア語を学びました。 左近入門書は前置詞 ὺπό(ヒュポ)の後の名詞が属格であろうと対格であろうと「~の下に」を意味すると 教えています。ところが日本聖書協会口語訳(「新共同訳」も最新の「共同訳」も同じですが)は「神によっ て」として翻訳されています。両者の違いはわたしの信仰にとって大きな問題でしたが、解決できないまま、 卒業してぼくしになりました。西南学院大学の宮平望教授は、神田盾夫著『新約聖書ギリシア語入門』301 頁 にも、前置詞 ὺπό(ヒュポ)の後の名詞が属格でも「~の下から」と教えられていることを指摘して、ご自 身の著作『ローマ人への手紙 私訳と解説』(新教出版社)でも、属格が来ようと対格が来ようと「~の下に」 という意味になることを指摘しています。『ギリシア語新約聖書釈義辞典 III』(教文館)が次のように解説し ているのを知りました。「聖書および初期キリスト教文献には、場所的意味を持った≪〔前置詞〕ὑπό+属格 ≫は現れない。属格と結びつく場合、この前置詞は常に転義的・比喩的意味で用いられる。」 (D. Sänger)。わ たしが記した下線部分によれば、≪前置詞 ὺπό+属格 θεοῡ≫を、通常の「神によって」でなく、「神の支配の下(もと)に」と訳したとしても、間違いではないことになります。それゆえに、神の下にない権力は「誤った権力」であり、服従してはいけない「偽りの権力」であり、場合によっては、「打倒すべき権力」になる のです。

 ローマ人への手紙 13 章 1 節の釈義
 この聖書テキストは教会の宣教の務めにとって、きわめて重大な意味をもちます。昔からこのテキストは、王権神授説を下支えする教説として利用されてきました。歴史はおのれの権力を「神によって」立てられたものとして神聖化する愚行で満ち溢れています。実のところ、この世の移りゆく権力は、政治権力も、宗教権力も、民衆権力(デモクラシー)も、すべて「神の支配の下」で限界づけられている、とパウロはまずその事実を独裁主義的なローマ帝国の都に暮らすキリスト者たち語り、「皇帝権力」の下にとどまるようにと命じるのです。これを脚注に記した釈義にしたがって、パウロの宣教のコンテキストとは異なる、現代日本の社会政治状況を踏まえて、宣教論的に解釈したいと思います注14。
注14 権力と信仰のあいだの問題で、わたしは次の三名の知者から貴重はインサイトを与えられたことを記しておきます。① 宮田光雄先生の幾つかの著作、その中でも『権威と服従:近代日本におけるローマ書一三章』(新 教出版社)は出版されて間もなく、福岡バプテスト地方連合社会委員会の読書会で学び合い、大きな神学的刺 激をいただいたことを今も鮮明に覚えています。② 『小さくされた者の側に立つ神』の著者でありフランシスコ会司祭本田哲郎先生が書かれた『ローマ・ガラテヤの人々への手紙』(新世社)から、そして、③『ロー マ人への手紙 私訳と解説』(新教出版社)の著者宮平望教授(西南学院大学)です。先生は≪前置詞 ὺπό+属 格 θεοῡ≫の丁寧な釈義によって「神の力の下に」と訳しておられます。以上の著作は宣教の神学(missiology) を学ぶ者にとっては必読の研究書と言えるでしょう。

 新約聖書の用語で「エクスーシア」は、「権威」とも「権力」とも訳され、はっきりした区別はさ れていないようです。この両者を区別するのは近代人の考癖なのかもしれません。わたしはこのテキストにおける「エクスーシア」は「権威」よりも「権力」に近いと判断しました。

 私たちにとって安倍政権は「国家権力」です。したがって、わたしはその権力の下に自発的にとどまろうと思います。それは安倍政権を政治的に支持するという意味ではありません。なぜなら、その≪下≫が、民衆が「国家権力」の腐敗を浄化するために仕える場であり、抵抗の場 であり、「民衆の権力 」の行使の場でもあるからです。その≪場≫において民衆の権力は抵抗とともに、あるいは弾圧とともに、生成するのです。民衆が「国家権力」の下にとどまるように命じられているのは、そのように仕えるためなのです。

 民衆が政権に対して仕える場所が他のどこにあるというのでしょうか。1327 年、国王エドワード 2 世に対し語られた、カンタベリー大主教ウォルター・レイノルズ の説教 “Vox populi, vox Dei”(民衆の声は神の声)のラテン語の格言には、そのような意味が込められていたのではないでしょうか。民衆が国家権力の下で黙れば、王はいったい誰から神の言葉を 聴くことができるというのか。 わたしはここで、イエスに対するローマ総督ピラトの尋問(ヨハネ福音書 18:28—38)の場面を下敷きにして議論しているのです。

 ここでは、①真実を証しする務めに歩むイエスの「権力」と、② ローマ帝国を代表する総督ピラトの「政治権力」と、③イエスの殺害を意図した祭司長カヤファの 「宗教権力」と、④カヤファに煽動された人々の「群衆権力」の四者の対立が描かれています。ただし、福音書はここで、十字架の死に至る道を歩む≪真の権力≫と、≪権力≫を保持しつづけるこ とに失敗する国家(ピラト)と宗教(カヤファ)の愚行を対置させているのです。≪真の権力≫を 排除する「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」 のです。

 ローマ人への手紙 13 章 1 節の釈義から導き出される命題
 政治権力の伝統的な法的モデルに従えば、権力は王から臣民へ、すなわち、上から下へと作用するのに対して、抵抗とともに生成する権力は下から上へと働きます。権力はこの関係性のなかで生起し移りゆくものです。権威-権力とは神から発出するものであるがゆえに、誰かが所有・独占できるような実体ではないのです。わたしは、インドネシアの神学校で教えていたとき、スハルト独裁政権が学生権力によって打倒された渦中に身を置き、学生たちと共に権力の移ろい易さを経験しました。教会は人々の下僕になって「平和を求め、これを追う」(I ペトロ 3:11)キリストに、真の権力を見なければなりません。以下にその理解を四つに分けて説明します。

① ローマ人への手紙 13 章が私たちに求めているのは、政権が期待する国家秩序に対して従うことではなく、≪国家秩序≫の源泉としての「神の国(支配)」(マタイ 6:33)に対してです。 したがって、使徒言行録の《人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません》とローマ人への手紙 13 章 1 節とは何ら矛盾しないのです。
② ローマ人への手紙 13 章 1 節にある「従う」は、ギリシア語辞典によれば、「~の下にとどまる」という意味もあります。したがって、わたしは「国家権力」が発令した「緊急事態宣言」の下にとどまります。それは、私たちが≪究極的な権力(神)≫の下で、この世の≪移りゆく権力≫に正しく仕えるためです。18 わたしがこれら二つの権威から逃亡すれば、どちらに対しても「正しく仕える」ことができなくなるからです。
③ 近代民主主義の権力構造からすれば、政権は「民衆の権力」の上に位置しますが、民主主義の理念からすれば、政権は「民衆の権力」の下に位置し、政権にとって「民衆の権力」は上に立つ権威なのです。けれども、「民衆権力」が本来の務めを放棄して(神の支配の下にとどまらず)ポピュリズムに堕落すれば、政権はその民衆権力を批判しなければなりません。
④ 神学的には、政権の上位にある権力は≪究極的な権威(=神)≫です。その政権が神の支配の下から逸脱するとき、政権の「権力」に対する民衆の服従は限界を迎えます。そのとき、民衆は政権に対して不服従を示し政権を倒すことができます。

 《天地創造》の物語 ナラティブ から導かれる共生の命題
 わたしはインドネシアに赴任した最初の年にデング熱を患い、翌年チフスに罹り、幸いに抗体を得て、疫病を患った人々の間で 17 年間働くことが出来ました。東南アジアにおける日常の暮らしでは一般的に細菌やウイルスに対して注意はするももの、共存というスタイルで生活しています。近代科学は、人間に「害」を及ぼす虫、微生物、細菌、ウイルスなどに対し総力戦体制(戦前・戦中のみならず、昨今の日本がそのよい例です)を布陣し、それらを根絶することを目標としてきました。他方、人間から攻撃を受け続けてきたこれらの生物は変異によって強烈な耐性を獲得し、人間に逆襲するに到っています。その感染システムに寄生してきたのが巨大な製薬資本と WHO だと断ずるのは言い過ぎでしょうか。

 私たちは、ここで、ローマ人への手紙 8 章 19 節から 22 節において使徒パウロが宣教する《万物 との和解》を真剣に受け止めなければなりません。 実際、被造物(万物)の切なる思いは、神の子たちの出現を待望している。なぜならば、被造物は虚無 へと服従させられたが、それは自発的にではなく・・・ひとつの希望をもってのことであったからであ る。つまり。被造物自身も、朽ちるものへの隷属状態から自由にされて神の子どもたちの栄光のもつ自 由に至るであろう、との〔希望を、である〕。(ローマ人への手紙 8:19‐22 岩波訳) 使徒パウロは、私たち人間が自由な責任ある主体として創造されながらも、同時に、天体、自然 環境、生命体など、万物との和解と共生を説きます。以下に天地創造の物語 ナラティブ から導き出される神学 ‐社会生命学的 (Zoesophia) な命題を三つに分けて提示します。

 この問題でわたしは、宮田光雄氏の論文集『同時代史を生きる:戦後民主主義とキリスト教』の中の 「国家と宗教:種谷牧師裁判の証言から」から大きな示唆を頂いています。「1560 年スコットランド信仰告白」は私たちに重要な示唆を提供しています。「父母(エペソ 6:1-3) 、王侯、支配者、政府を尊敬し、彼らを愛し、彼らを支持し、〔彼らが〕神の戒めに背かない限り、〔我らは〕その命ずるところを行う(ローマ 13:1 以下,Iテモテ 2:1-3, 6:1-2)。それ故、無実の者たちの生命を保護し、暴君には抵抗し、非圧迫者を擁護する(エゼキエル22:1以下、エレミア22:3以下、イザヤ58:6-7) 」。 (The Scots Confession 1560).この信仰告白は後のピューリタン革命に宗教的な基盤を与えました。

① 人間は宇宙に帰属するものであると同時に、ミクロ的宇宙(微生物、細菌、ウイルス)にも帰属しています。したがって、ウイルスを根絶・消滅させるのでなく、被害を最小限に抑えて共生をはかることが求められています。(村上陽三・昆虫学)その矛盾は解消できないとしても、細菌・ウイルス感染を経済的被害以下の水準に維持していくことが政治の目標となります。
② 人間をはじめ、すべての動物は、身体に抗原(体内に抗体を生起・形成させる物質)21と抗体をもち、 「すべての生命体は自分で治癒する能力をもつ主体として創造されている」(金容福、神学者・Zoesophia の専門家)。
③ 人間は「害虫」や病原微生物、細菌、ウイルスなどに対する抗体(免疫)を獲得する仕方で生命を継承してきた。「病原体の方でも人間との共生を目指す方向に進化していく」(山本太郎・疫学者)。現代のミクロ世界観の根本的なパラダイム転換が求められていると言えます。

       C. 安倍政権が発令した「緊急事態宣言」の問題について
 基本的人権と「緊急事態宣言」
 残念なことですが、「緊急事態宣言」は、礼拝や主の晩餐を制限し、家族の交わりを壊し、子ども たちから学校教育・教会教育の機会を奪い、老人たちを孤立させ、そして、圧倒的多数の陽性の人々 や抗体をもっている人々が、働くことが許されない可笑しな社会システムを造ったのです。わたし の知り合いのラーメン屋さんは、「コロナ差別」を受けてついに閉店しました。これらの人々は「緊急事態宣言」に悪乗りした「世間の常識」の犠牲者です。

 健康と生命にかかわる「公共の福祉」(日本国憲法12条)を条件として、国家権力が人々の移動・ 集会・労働(営業)などの市民的自由を制限することはありうることです。日本においては、明治以来、多くの人々が自らを犠牲にして、市民的自由を獲得しようと試みました。私たちはその自由を彼ら/彼女らの犠牲の上に享受しているのです。

 はたして、安倍首相はこの歴史の重さと認識を踏まえて「緊急事態宣言」を発令したのでしょうか。 近代という時代を切り開いたこの自由は、欧州においては、イギリスのピューリタン革命にはじ まり、アメリカ革命、フランス革命、そしてロシア革命などを経て、おびただしい数の人々の犠牲の上に、紆余曲折をへて法制化されました。この度、ドイツのメルケル首相は 3月18 日の演説で「このような制限は、絶対的に必要な場合にのみ正当化されるもので、民主主義社会においては、軽々しく一時的であっても、決して発動されてはなりません。」と述べて市民に理解を求めました。安倍政権はこの基本的人権を制限する「緊急事態宣言」を、どれだけの深みを自覚して発令したので しょうか。

 この認識は、吾郷健二(西南学院大学名誉教授)が主管するオルタナティブ研究会における村上陽三(九州大学名誉教授)の講演「害虫の生物的防除 ― 天敵の有効性とその限界」(2020年3月14日)から学んだ認識です。ただし、村上氏の講演は「害虫と天敵との関係」であって、ウイルスに言及したものではありません。
抗原は、病原性のウイルスや細菌、花粉、卵、小麦などの生体に免疫応答を引き起こす物質で、抗体は、体内に入った抗原を体外へ排除するために作られる免疫グロブリンというタンパク質の総称です。」(ヤクルト中央研究所)

php Kim, Yong-Bock,アジア太平洋生命学研究院 院長.講演「社会的生命学(Zoegraphy):共生のための平和に関する共通の展望に向けて」(西南学院百年館 2016 年10月25 日) 山本太郎(疫学研究者)『抗生物質と人間』(岩波新書2017年)
 ドイツ在住の林フーゼル美佳子氏が、直ちにこの全文を邦訳し、配信してくださったものを、友人から頂いた。

 19 世紀以降、西洋諸国はナショナリズムの高まりを挺子にして「国民国家」の形成へと向いました。 その過程で、権力の形態や戦争の形態にも大きな変化が現れました。国民国家は、死を支配する君主制国家とは異なり、生を支配するシステム、つまり、生存し続けることを保障するシステムとなったのです。フーコーは言います、「戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。国民全体 の生存の名においてなされるのだ。住民全体が彼らの生き残りの必要性から互いに殺し合うように訓練される」。『性の歴史 I 知への意志』渡辺守章訳(新潮社 1986)173-175 頁。 および、『監獄の誕生』(新潮社 1977 年).正式のタイトルは「監視すること、および処罰すること」。フーコーは、「規律する権力」に対して抵抗する立場を保守しますが、この著作においても、自らを「歴史家」として、真理にかかわる規範的価値の露出を避けているように見えます。その意味で近代批判の 巨人フーコーは実のところ極めて近代的な歴史家であるのかも知れません。

 検察庁法 22 条を解釈変更して、気に入らない検察官を定年退職させ、気に入ったひとりの検察官の定年を延長するとしました。それは政権が検察権力を強奪するのと同じです。これらのクーデターによって、日本の法秩序の底割れが決定的となりました。 一般論として言わせてもらえば、基本的人権を制限する「緊急事態宣言」の発令には、政府に対する市民の信頼と理解が不可欠です。市民に外出制限をかけておいて、「日本国憲法に緊急事態条項がないために、欧米のように人権停止や都市封鎖が出来なかった、だから日本国憲法は改憲すべし」と、コロナ疫禍を政略・政争の道具にしたのは、「緊急事態宣言」に素朴に従った国民に対する背信行為です。したがって、法の支配の何たるかを理解しない安倍政権には、「緊急事態宣言」を発令する道義的資格も、コロナ対策に取り組む道徳的資格も備わっていないことになります。

 むすび
 私たち(糸島集会)は次の6項目を 2020 年度のミッションにおける重要課題として認識します。
① 国際社会は、細菌やウイルスを根絶させるのでなく、協働して一定の集団免疫を作り、宿主 としての役割を認識すべきです。感染して抗体を得た人や感染してない人が働ける社会的防 疫システムを構築することで、経済的被害を最小限に抑えるべきです。
② 国際社会は、生物化学兵器の研究および製造を全面的に禁止し、その知と財を細菌・ウイル スに関する平和研究に転換し、貧しい国々を主体とする防疫システムの構築をはかるべきです。特に、ハルピンの 731 部隊の生体実験資料の引き渡しを条件に日本帝国の犯罪責任を不問に付した米国と、その司法取引に応じた日本は、最も重い責任を負っています。
③ 私たちは、上位にある民衆の権力を軽んじてきた政権に、私たちの移動・集会・労働の自由 を明け渡すべきではありません。むしろ、この自由によって、ウイルス疫禍における私たち自身の社会的行動を制限します。しかし、牧師および僧侶、医師、弁護士、政治家 27 に自粛はありません。
④ 職場や学校の休みを利用して「緊急事態宣言」のもつ神学的・政治(法学)的・社会的問題 点について、じっくりと相互に学び合いましょう。さらに「主日の安息」の宗教的な意味を 学び、コロナ疫禍以前の異常な競争社会を批判的に捉え直しましょう。
⑤ 私たちが監視する対象は隣人でなく、「緊急事態宣言」を発令した安倍政権です。さらに、私たちは「監視権力(規制権力)」の下僕にならず、正義と平和を造り出すイエスの下僕に徹すべきです。
⑥ グローバルなコロナ疫禍の経験は、全被造物の和解と平和を、さらに私たちの人間性および 霊性の変容を求めているのではないでしょうか。そうだとすれば、私たちはこの経験を、ナショナリズムを超えたグローバルな平民へと変容する一里塚にしなくてはなりません。