韓日協定の何が問題なのか?

 2017年、金民雄教授を韓国からお呼びして、当時の韓国市民のキャンドル革命、文在寅大統領の誕生、韓国から見た日本社会の問題点について日本の各地で講演をお願いいたしました。その金教授から日韓関係が最悪と言われるようになった現在、その日韓関係悪化の根本となる日韓協定成立の過程、内容を解いていただきました。 (崔勝久)
●金民雄教授のご紹介
韓国の慶熙大学教授、未来文明院 フマニタス・カレッジ・牧師 
現在、韓国の市民運動で最も注目されている人物の一人。
韓国のKBSはじめ報道機関、また大集会での自由自在の表現豊かな演説スピーチは多くの人に感動を与えて評判になっている。



テーマ:韓日協定の何が問題なのか?
 とても優しい問答形式にして、少しずつ複雑な論議に至る内容を順々に丁寧にお知らせしたいと思います。
〈韓日協定〉は、今日韓国と日本の関係を外交的に発展させるための最も重要な文書です。
この内容とその解釈、論議の視点そしてより大きな脈絡の歴史を合わせて見つめてみようと思います。
1.日韓協定のはじまり
Q1.〈韓日協定〉はいつ両国間で調印されたのですか?
A) 1965年です。
 当時の朴正煕(パクチョンヒ)政権が1961年5.16クーデター以降軍政から民政移譲を約束していたのに結局はこれを覆して、朴正煕(パクチョンフィ)自身が政権の首班になった後、政治的不安定が続く中、かなり切羽詰まった状況で結ばれた条約です。
Q2  “切羽詰まる”とは?
A) 韓日会談の内容が広がるにつれ、国内では激しい反日運動が起こりました。屈辱的で売国的な交渉というものでした。すると朴正煕(パクチョンヒ)政権は1964年6月3日、非常戒厳令を宣布して、軍まで動員して反対運動を武力で鎮圧しました。
 翌年1965年6月22日調印された後、国会では8月14日共和党 1党と無所属2名を抱き込んで、野党が総辞職の決意をして不参加の中、内容検討の時間も充分に無いままに一方的に批准を強行したのです。
Q3 <韓日協定>のための会談はいつから始まったのですか?
A) 1951年度から公式論議が始まります。1次会談は1952年です。
 1965年7次会談で協定が調印されるまで、なんと14年の間進められてきた会談でした。
 韓国は1948年から日本と賠償問題を整理するための準備をします。
植民地被害、戦争被害と関連した賠償要求が核心でした。1948年は韓国が1945年解放後、米軍政の支配から逃れ政府を樹立した年であったため、このような準備が可能でした。
 日本は7年の間米軍政の支配下であったので、1948年は日本政府が樹立される前だったことから韓日会談は不可能なことだったのです。
 アメリカを中心とした連合軍と日本の戦後処理の為の1951年9月の”サンフラシスコ講和条約”が結ばれたことにより、ようやく日本は主権を回復することが出来たのです。
 1951年韓日会談はこのように韓国と日本が政府として機能した時点から動き始めたのでした。

2.サンフランシスコ条約との関係
Q4  “講和条約”は戦争を起こした国どうし平和的関係を築く為の会談であると知られています。
 韓国も日本に対して戦争に該当する武装独立運動をしたのですが、サンフランシスコ講和条約の会議に参加しましたか?
A) いいえ、参加できませんでした。
 アメリカは当初韓国の参加に肯定的であったのですが、イギリスはそうではなかったのです。イギリスにはいつか必ず問いただしたいところです。特に敗戦国の立場にあった日本は露骨に反対していました。
 当時日本の吉田茂首相は”万が一韓国が条約の署名国になるとしたら100万の在日朝鮮人を連合国民として扱わないといけない。日本は経済的負担で困難な状況になるだけではなく、在日朝鮮人の大多数は共産主義者だ。この者たちに条約の財産上の利益を与えるのは困難なことだ。”と主張しました。
 アメリカは結局日本寄りに立場を変え、1951年5月頃韓国を排除する方向に舵を切りました。日本を冷戦のアジア防御線に確定したためでした。日本の負担を減らさないといけないという方針に立ったのです。韓国人たちを犠牲の対価としてです。
Q5  韓国がサンフランシスコ講和条約の署名作業に参加できない結果、何が問題になったのですか?
A) 臨時政府は1941年アジア太平洋戦争が起きると対日宣戦布告をします。
 日本を相手にした交戦国の位置に立ったのです。同時に連合軍の一員になる機会が生まれたのです。それでなくても長い間独立闘争をしたことも日本との戦争当事者という国際法的位相を認められた根拠です。
 このような場合、韓国は日本に対して交戦国、または戦勝国の立場で戦争賠償問題を論議して賠償要求が出来る位置に立つことが出来るのです。とても重大な事案でした。この道が途絶えたのです。
 ここからは長く苦しい韓日会談の歴史が始まるのです。
〈韓国併合〉が国際法的不法性を確認して主張することは韓日協定、韓日関係の全ての事案を明確に整理する最も重要な出発点です。

3. <韓国併合>の不法性
Q6 サンフランシスコ講和会議で”韓国を除く”方針が決定されたのは本当に理解しにくいことです。
 ましてこのことをアメリカが決定したというなんて、1945年8月15日、私たちは解放されたのではないでしょうか?そして独立した主権国家になりました。アメリカは一体私たち韓国をなんと思っているのでしょうか?

A) 解放された国ではなく、日本の支配が終わった国とだけしか見ていなかったのです。このことは少し聞きなれない複雑な内容を呈しているので、気持ちをしっかり引き締めて聞いてください。
Q7 しかしそれはそうじゃないのではないでしょうか?植民地から解放されたら独立国家になるのが当然でしょう。
朝鮮の国際法的地位
 1945年”韓国に対する権威の移譲”という国務部の文書では”占領自体が領土に対する主権の変更をもたらさない”と記されています。
日本の敗戦で韓半島の南側に米軍政が始まったのですが、だからといって
1.韓半島に対しての日本の主権が解体されたとか
2.その主権が韓国人に返還されたというものではなかったのです。
Q8 何のことかがよくわかりません。

A) 戦争で負けた相手の領土を占領したからといって、その領土がすぐに占領した側に帰属されたり、又原住民にその権限が返還されるというのではないということです。
 他の言い方をすれば、日本が国際法的主権の影響力を行使した朝鮮を米国/ソ連が占領したといって、その土地に対する主権を米軍政/ソ連軍政が直ちに持てるとか、朝鮮/韓国人がその主権を返してもらって行使することが出来るというものではないということです。
Q9 要するに、主権を奪われた植民地状態が引き続き続いていたということですね?

A) 主権はその地域に住んでいる住民に対する統治権である対人主権と、土地、海、空に対する領土主権があると言われます。
国務部文書では、朝鮮に対する日本の対人主権は敗戦で効力が停止しましたが、領土主権は依然として有効だという論理です。国際法上、対人主権の行使は米軍政がするということですね。
Q10 え?だからといって1945年8月15日朝鮮に対する領土主権を持つ国が未だ日本ていうことなのですか?

A) 国際法上日本が朝鮮に対して一切の権利を放棄することを公式化すればこの問題は解決するのです。
そうではない状況で戦勝国のアメリカがこの地域の管理のために統治権を発動しようとすれば信託統治を実施する方式になります。
解放後南側で政治的に大きく問題になった信託統治案はアメリカが解釈したこのような国際法的背景があったということです。
Q11 それでも私たち韓国が臨時政府も持っていたことと長い間独立闘争も行なっていたので、日本の敗戦とともに私たちが主権国家としての権利を得ることは当然であり自然なことではないのでしょうか?

A) 至極当然のことでしょう。
しかしアメリカの考えは違っていました。
 米軍政国務部の朝鮮の国際法的地位に対する次の解釈と主張をどのように思われますか?
ー”日本は1945年9月2日ポツダム宣言を承認する事で韓国に対する主権を剥奪された…..
しかし敵対関係の終わりは韓国を併合前の状態に復帰させることや、韓国の新しい国家樹立に繋がることではない…韓国の解放は韓国人の革命運動で達成されるのではない。韓国に対する日本の支配は戦勝国の決定により終了し…..韓国が国家間で独立した国として見なされるまで韓国の主権は停止状態だった…..”
サンフランシスコ 米国特使ダレスは”アメリカは韓国臨時政府を承認したことがない”と言って”独立闘争も個人的な行為であったに過ぎない”と言いました。臨時政府要人たちが解放後米軍政により大韓民国臨時政府としてではなく、個人の資格として帰国するようになったことも全てこのようなアメリカの韓国に対する考えによるところでした。
Q12 そのように朝鮮に対する日本の主権を認めることは1910年〈韓日併合〉が国際法的に何の問題も無かったということになるのではないでしょうか?
A) そうです。
 アメリカは1910年韓日併合の国際法的不法性を認めませんでした。私たちとしては怒りが爆発するところですが。
 サンフランシスコ講和条約体制は植民地を支配していた戦勝国の利害関係を調節する問題もあったためです。植民地支配の不法性が国際法的に整理されるのはあまりにも重大な問題でした。そうすれば”不法行為に対する賠償が可能になるからです。”
 アメリカはこのような論議と枠を封じてしまいました。日本はこのような枠を自国の植民地支配合理化に積極的に活用しました。国際法という枠が超大国中心、植民地体制維持を正当化する限り歴史的正義の実現は相当難しくなるのです。
 簡単に整理することの出来る歴史ではないでしょう?このことも一つ一つ丁寧に整理してお知らせします。
再度強調に強調を重ねますが、
〈韓国併合〉が国際法的不法性を確認して主張することは韓日協定、韓日関係の全ての事案を明確に整理する最も重要な出発点です。

4.植民地支配の清算との関連
 1965年韓日協定に関連して日本の主張どおり(財産処理と債務関連)請求権が完全に解決されたと言っても、植民地被害賠償、戦争被害賠償は未だに解決されていません。まさにこのことが1965年韓日協定体制の限界が露呈したのです。このことがサンフランシスコ講和条約に対する新しい観点が切実なことになる理由です。
 ”逆説の論理”が存在しているということを忘れてはなりません。
Q13 韓国が連合軍の一員として交戦国の地位を認められないサンフランシスコ講和条約は私たちとしては、大変不利な措置になってしまったのですが、その措置に私たちが必ず従う必要があるのでしょうか?

A) 決してそうではありません。
 私たち韓国はこの講和条約の署名当事者ではないからです。だからこの条約を私たちが国際法的に守らなければならない義務はありません。
 サンフランシスコ講和条約で”韓国除外”というのは不利な部分でした。しかし驚くような逆説が発生することになります。当時としては署名当事者になれないという悔しさはありましたが、そのおかげで私たちは講和条約から自由な立場になることができました。
Q14 あ、そうなのですね。それでもその条約が日本と私たちとの関係を規定したのではないのですか?

A) 規定された内容はほんの一部分にすぎません。サンフランシスコ講和条約はアメリカをはじめとする連合国と日本との条約です。日本の権利の内容と義務があるだけで、韓国の義務はそのどこにも記載がありません。
 それだけではなく、この条約は戦勝国と敗戦国の間の戦後関係再定立問題が主題であった為、植民地賠償問題は一切論議されませんでした。アメリカをはじめとする連合国と日本はこの講和条約で植民地賠償問題を議論しませんでした。
 サンフランシスコ講和条約が植民地賠償問題を言及しなかったために、私たちも言及し提起しないという訳にはいきません。この問題はサンフランシスコ講和条約で抜け落ちたことが原因であり、植民地被害当事者である私たちは当然提起する権利があり、この権利を中心とした韓-日関係を整理していかなければなりません。
Q15 何か胸のつかえが降りる気分ですね。

 しかしアメリカは私たちの解放、独立、臨時政府を何一つ承認しなかったのに、このような問題提起が可能でしょうか?
A) 植民地賠償問題を提起する権利が私たちにあるというのは今でも依然として有効なことです。私たちの解放と植民地処理問題をアメリカが承認しなかったからといって、そのまますぐに私たちが従わなければならないないというものではないのです。
 私たちは当時すでに主権国家であったためです。サンフランシスコ講和条約が1952年締結されたのですが、私たちは国連が1948年承認した合法的政府です。
 アメリカと連合国がサンフランシスコ講和条約で決めた内容は敗戦国日本に課した義務と原則であり、私たちに課した義務と原則ではありません。
Q16 それでも韓国と関連した内容があるのではないでしょうか?ほんの一部の内容が規定されていたとしてもです。

A) 日本は韓国に対する権利を放棄して韓国との請求権処理は”当国間の特別協定”で処理しなさいという内容があります。(注1)/(注2)
ここでいう請求権の概念は前述した戦争賠償でもなく植民地賠償でもないのです。債務関係の整理のことを意味します。戦争賠償と植民地賠償は議論されなかったからです。
 まして日本は韓国に対する一切の権利、権限、請求権を放棄するようになっているため、そのどんな請求も私たちには出来なくなっています。残った問題は私たちが日本を問いただし、財産処理と債務問題を勝ち取ることです。
 ここに植民地賠償と戦争賠償まで合わせると正当な計算が成立します。これが私たちの権利になるのです。
 サンフランシスコ講和条約は私たちの権利に対する制約を明示しませんでした。記載されていない内容は、違う条約や協定で解決されないといけません。この内容が抜け落ちた韓日協定は不完全であり未完の協定にすぎないのです。
Q17 連合軍の一員としての交戦国としては認められなかったけれど、私たちは明らかに独立闘争を通じて日本と交戦し、植民地として日本に占領されたという不法的侵略も事実であり、その問題は必ず解決しないといけないことでもあります。

A) そうです。まさにそのとおりです。
 1965年韓日協定に関連して日本の主張どおり(財産処理と債務関連)請求権が完全に解決されたと言っても、植民地被害賠償、戦争被害賠償は未だに解決されていません。まさにこのことが1965年韓日協定体制の限界が露呈したのです。このことがサンフランシスコ講和条約に対する新しい観点が切実なことになる理由です。
“逆説の論理”が存在しているということを忘れてはなりません。
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(注1)第二条 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。
(注2)第四条 (a)……財産並びに…住民の請求権の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。
 (b)日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。
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 言われてみると、韓日協定の論議でサンフランシスコ講和条約の性格を把握することが、実に大事になってくる気がします。
 ところで韓日協定に対して問題を提起すると、この条約を取り上げながら“”国際法”も知らないのに”という話も聞こえてきたりします。私たちが国際法も知らないし、守ることもできないという主張でしょう。このことはあっていますか?
いいえ、そうではありません。
 もう一度強調いたしますが、私たちはサンフランシスコ講和条約の署名当事者、署名当事国ではないので、私たちに負荷させられた義務や強制条項はありません。日本が放棄しなければならない権利、日本が責任を取らなければならない義務があるだけです。署名当事者、署名当事国間の国際法にすぎないのです。私たちは必要な部分だけ根拠や参考事項にすればいいのです。私たちが受けいれられないことは受けいれない権利が自動的にあるのです。
5.米国の国際戦略との関連
 その上この条約は、私たちとしては到底受けいれられない内容を秘めています。
Q18  え?それはどういうことですか?

 サンフランシスコ講和条約は韓国を植民地から”解放”された国としてではなく、日本から”分離(seperation)”された地域として取り扱いました。
 ”解放された地域”と”分離された地域”の区別は実に重要なことです。韓国は日本が不法的に強占して得た植民地ではなく、朝鮮と日本の間で併合条約を締結して国際法的に正当に取得した領土なので、敗戦でその権利が放棄されて、日本の国家から分離しないといけない地域という論理です。日本の思う壺です。
 戦勝国が自分たちに浴びせた戦争被害責任は 日本に問いただすとして、植民地賠償の問題を伏せてあげるという方法で処理したのです。ここから正当な韓日関係ではなくなっていきます。
Q19  あまりにも酷いじゃないですか。

 そのとおりです。私たちの立場では実に不当な条約です。今でも腹が立って必ず問いただしたい内容です。この責任は第一にこの条約を作ったアメリカにあります。
 その上、私たちよりも後に政府を樹立した日本(1952年)が、先に政府を樹立した韓国(1948年)の独立を承認するということは話にならない条項です。(第2条(a))
 こうなると私たちは1948年ではなく、1952年の承認によって独立したことになります。
 こんな条約をどうして私たちが受け入れないといけないのでしょうか?批判と糾弾の対象でしょう。
 1952年第1次会談当初、韓国側の代表団もまさにこの問題を提起しました。あきれ果てて言葉もでなかったことでしょう?
Q20 国際法に対して新たに考えるようになりました。

A) ええ、そうこなくっちゃ。
 日本は植民地処理問題が明らかでないサンフランシスコ講和条約が、韓日関係を整理するのに自分たちにとって有利だから、国際法という主張でこれを根拠に私たちに詰め寄ってきたのです。
 このことに関連した韓国国内の保守系マスメディアや一部の知識人たちの”国際法云々”という主張も国際法が何なのかきちんとわかっていない無知な発言にしかすぎないのです。
Q21 それならばサンフランシスコ講和条約の基本的な性格と本質はどういうことになるのでしょうか?

 サンフランシスコ講和条約は互いに戦争をした国々が、戦勝国と敗戦国間の関係を整理する条約です。一つの体制、言いかえると”戦後秩序”といえます。しかし敗戦国である日本を含めた旧帝国主義国家間の植民地処理問題をきちんと考えなかったのです。
 人類普遍の歴史的観点で見てもサンフランシスコ講和条約は時代に逆行するものでした。
 植民地の時代が終息するする時代に、最も重要な主題は”脱植民主義”作業です。この問題が含まれていない講和条約と戦後秩序は、当然問題を提起しなければなりません。
 この条約と秩序が日本の戦争責任を問うて、既存の権利を放棄させる戦後処理の機能をしたとしても、その秩序の植民主義的本質は克服されないといけません。
Q22 どうすればいいのでしょうか?
A)日本は今からでも一日も早く、韓半島全体に対する不法的な統治と植民地被害に対して、根本的謝罪とともに、1965年韓日協定体制で無理やり除外した清算の実際的な過程を踏まないといけません。これが答えです。きちんと解決しないとこれからもこの責任から抜け出す道は決してないでしょう。
 日韓会談に臨む日本の姿勢について。米国のサンフランシスコ講和条約の目的はアジア冷戦大戦の構築であり、米国は日本の ファシズム体制の解消よりも経済復興を通しての反共網構築政策を支持し、日韓会談はサンフランシスコ条約締結後アメリカの主導で始められた。日本は朝鮮の植民地支配を正当化する立場で臨んだ。  崔勝久
6. サンフランシスコ条約締結後にはじまった日韓協定
 私たちにそれほどまでに不利だったサンフランシスコ条約は、日本に植民地賠償に対して、免罪符を与えたことになるので日本として有り難かったでしょう。
 このことを契機に韓日会談が始まったとしたら日本は韓日会談に対する準備もそのような立場でしたはずなのですが、ここで二つの質問があります。
 まず、日本は韓国に対してどのような態度で会談に臨むようになったのかということと、どのようにして韓日会談が始まったのかということです。順番で見ると2番目の質問が先ですね。
ー韓日会談はサンフランシコ条約締結後、アメリカが主導的になって始まったものです。1951年9月サンフランシスコ条約が締結して、その年の10月から韓日予備会談があり、1次会談は1952年2月15日から4月21日まで行われました。その時韓国は韓国戦争中でした。
 どこで行ったのか、このことも重要で、日本の東京で行ったということです。
 日本で米軍政を任されていた、連合軍の最高司令部 (GHQ: General Headquaters/SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)、
実際には米軍司令部がいる会議室で始まりました。会談の公式言語も英語でした。米軍は韓日会談を通して韓日関係をサンフランシスコ条約が作った秩序の中に入れようとしたのです。
Q23 私たちはサンフランシスコ条約の署名当事者ではないのに、どうしてそのようなことが可能なのですか?

A) まさにその点です。
 サンフランシスコ条約の署名当事者ではない韓国をサンフランシスコ体制に包括させる作業、このことがアメリカが意図した韓日会談でした。そこから基本的な矛盾が生まれていきました。
私たちは賠償問題をはじめ植民地問題の清算を提起しましたが、アメリカは日本が要求した”在日朝鮮人の法的地位問題”にだけ限局しないといけないと言いました。違う問題は議論できないようにしようとしたのです。
Q24 しかし韓国の反発が思いのほか大きくなった結果、議題が拡大されました。

A) 本格的な会談が始まるとアメリカは抜けましたが、予備会談では参観という名目で参加し、(ウィリアムシーボルド最高司令部外交局長)
 日本の負担を最小化する方に舵をきりました。
Q25 アメリカはアジア-太平洋戦争で日本と戦ったのですが、どういうことですか?

A) 前にも触れましたが、アジア冷戦体制の構築がサンフランシスコ条約の基本目的であり、ここで日本の役割を強化して、冷戦遂行基地に作ろうとしたからです。
 いわゆる”逆コース(reverse course)”といって、日本のファシズム体制を解消するといったことよりも、その基盤を積極的に活用して経済復興を通して、アメリカが中心となる東アジアの強力な反共網を作ろうとしたのです。
 親日勢力を清算するための韓国の反民特委法律制定(反民族行為特別調査委員会)が、米軍政によりなかなか進まなかった歴史も、全てこのようなアメリカの世界政策から始まります。韓国はサンフランシスコ体制で守職的に日本の下位に位置するようにしたのです。
 私たちは経済的財源が切実な状況だったこともあって、韓日会談がこの枠の中で始まることになるのです。
Q26  議題を”在日朝鮮人法的地位問題”にだけ限局しようとしたのはなぜですか?
A) 敗戦国日本は、日本にいる在日朝鮮人/韓国人を負担に思ったからです。
 敗戦直後、200万名ほどの在日日朝鮮人/韓国人の多数が帰国した後、60万名ほどが残りました。以前は法的に日本人だったのですが、今や法的責任を取りたくない集団になってしまったということです。アメリカとしても冷戦体制強化のために日本の味方になったということでしょう。
Q27  この問題はあとで、もう少し詳細に説明していただくとして、会談に臨む日本の韓国に対する姿勢はどうでしたか?
Q) 重要な項目だけ取り上げてみますね。
・朝鮮の併合は条約として適法に成された。国際法的に正当な取得である。
・朝鮮統治時代、韓国人の経済・文化生活は向上した。
・日本が韓国のための統治をしたために、むしろ韓国から受け取るものがもっと多い。
Q28  これはもしかして、今の日本の安倍政権も今も持っている考えではないのですか?

A) 表には出せないでしょう。
 この間、いろんな総理たちが植民地支配被害に対して認定と謝罪をしたりもしましたから。その謝罪というのも”法的責任”は決して認めませんでした。日本の右翼は韓国の植民地支配が正当だったという考えから抜け出そうとしていません。
 彼らの歴史教科書には、まさにそんな考えが反映していますから。韓国のいわゆるニューライト植民地近代史観もこれと変りません。
 まさにこのような日本の韓国に対する認識は以降第3次会談(1953年10月)を中断させた日本側会談代表、久保田貫一郎のあの悪名高い妄言が頂点に達します。
●久保田貫一郎発言
Q29  久保田がどんな話をしたのですか?
A)
ー韓国に対する日本の主権放棄を明示したサンフランシスコ条約締結以前に樹立された韓国政府は、不法的存在だ。
ー日本の韓国統治は、韓国にとって有益だった。鉄道施設、港湾建設、資本投資増加等が例だ。
ー日本でなかったら、韓国は中国やロシアが支配していた。その方がもっと悪い状況だ。
ーカイロ宣言で韓国民族が日本統治下で”奴隷状態”としたのは、連合軍が戦時ヒステリー状況(戦争の時期の興奮状態)にあったからです。
ー韓国を統治した米軍政が、日本の財産を韓国に戻したことも国際法違反だ。
 その中で、日本の朝鮮に対する植民地支配が朝鮮にとって有益だったという発言は、まさに多大な反発を呼び、結局第3次会談は白紙に戻ってしまいました。
 吉田総理が日本が貰うものがあるという、いわゆる逆請求権論理を貫徹しようとした時期の問題でした。
Q30  日本ではどうだったんですか?

A) 日本の外務省も久保田の発言を擁護し、与党も野党もこれを支持し、メディアも意義を問なえませんでした。日本全体の意識であったのです。
 このように、第4次会談は4年後の1958年になってようやく開くことができました。
 今、私たちが受けている日本の韓国大法院強制徴用判決否定は、まさにこの考えの延長線上にあるのです。

7.  日本は植民地支配の不法性を一貫して認めこなかった
Q31 韓日協定の問題を学んでいくと、サンフランシスコ講和条約が非常に重要だということに繰り返し繰り返し気づかされます。ところで植民地だった国の被害は、戦勝国である連合国があれこれいう問題じゃないじゃないですか?
A) その通りです。
 従って私たちの立場では、日本に対する請求権放棄と韓日協定を通した請求権の解決というサンフランシスコ講和条約が発生させた権利もありますが、明示されていない権利ーすなわち植民地賠償、戦争賠償に対する権利がいまだに存在するということなのです。明示されていないからといって、その権利がないということではないのです。日本社会にもこの問題の真実を知らせる必要があります。そうすることで両国が問題の出発点に立つ事が出来るのです。
Q32  しかし1965年韓日協定で請求権問題は全て解決したことになっているのではないでしょうか?
そのうえ当時日本は、日本が所有していた20%にあたる多額な5億ドルの資金をすでに韓国に渡したのに、なぜ何度も繰り返し請求しようとするのでしょうか?この問題が提起される時に言われることです。
A)  だから何度も同じことを繰り返さないといけませんが、1965年韓日協定で取り扱われた請求権は、債務、弁済の関連事案等です。詳しい内容は、1965年の韓日協定についての項で述べますが、韓日協定において植民地支配の時期の被害全般の賠償問題が抜け落ちた事が問題なのです。
 1次会談の時も私たちが要求したことは、今後の関係を考えて植民地被害賠償全般ではなく、中日戦争、太平洋戦争の時期の被害賠償 として最小化した内容でありました。しかしこの程度であっても日本は結局応じることはありませんでした。
 おまけに5億ドル支払いの内訳は、協定文に明記されているように、現金ではなく“3億ドルの価値に該当する日本国の生産物と用役”の無償提供であり、2億ドルは“長期処理借款”でした。つまり利子を出して借りる借金です。この2種類の支払いも実に10年に分割して支払うということです。
 百歩譲って請求権だけに限定したとしても、その金額が3億ドルに過ぎず、その内容もすでに述べたような植民地支配不法性による賠償や中日戦争と太平洋戦争賠償が除外されています。
再度強調しますが、2012年と2018年の強制徴用関連大法院判決は、このような問題を法的に正確に提起した非常に重要な歴史的判決です。
Q33 従って実際は日本は韓国に対して、3億ドルを無償で支払ったということ、2億ドルは借金として貸したということですね。無償支払いの3億ドルも現金ではなく、日本の生産物と用役とするならば、結局のところ日本の市場拡大が成されたという訳ですね。
A) それで、1965年韓日協定に対する反対運動があそこまで熾烈になったのです。
 当時韓日協定に反対していた人たちは、植民地支配の不法性を明確にしないことは屈辱的で、日本経済に従属する道を歩むことになると批判しました。本質をしっかり捉えたということです。
 日本は韓国戦争以降、戦争特需で成長した経済の構造再編の過程に突入し、古い経済システムの移転と市場拡大という二つの問題を解決しなければなりませんでした。これを韓国で韓日協定を利用して”経済協力”という名目で処理しようとしたのです。
 日本がこの金額を韓国に提示した方法は、韓国が日本に経済開発計画を提示して、協議の上承認を得、その内容で持って生産物と用役で提供を受ける方法であって、“内政干渉と市場掌握”という問題を根幹に秘めていました。韓国と日本の“垂直的な国際分業体制”が形成されるようになったのです。
 今日、韓国に対する日本のいわゆる“ホワイトリスト排除”が経済的打撃を与える可能性が生じる構造的要因がここにあります。日本の立場としては資本の論理による対外進出が可能になったのです。
Q34 日本の立場としてかなり有利な協定だったのですね。
A) その通りです。
 1965年韓日協定体制が、当時政治的正統性のために経済問題解決に急務であった朴正熙政権によって、内部の反対を抑圧して推し進めた1965年から1980年までだけでも計算すると、日本は13億ドルを韓国に投入した反面、205億ドルの貿易黒字を記録しました。日本がまるで韓国に恩恵を与えたかのように膨大なお金を与え、過去の歴史に対する責任が清算されたかのようにいうのは言語道断なのです。
Q35  そうは言っても未だに残る疑問があります。
 1965年の韓日協定の「請求権、経済協力に対する協定」第2条1項に「両国国家及びその国民の財産、權利及び利益と両締約国並びにその国民間の請求権に関する問題が、1951年サンフランシスコ条約に規定されたものを含み、完全且つ最終的に解決されたものとすることを確認する」となっているのではないですか?
A) 疑問に思って当然です。
 しかし重要な事として、注目しなければならない点が一つあります。
 韓日協定では「基本関係に対する条約」が含まれていますが、韓国と日本がこの協定を締結する時の立場と関係が含まれた文書です。
 この条約には植民地支配の不法性と関連した内容がありません。「両国国民関係の歴史的背景」という言葉で曖昧にしました。
 従って当時としては、一旦日本は植民地支配被害問題を避けながら、条約締結の妥結点を探りましたが、植民地支配の不法性関連問題を提起することのできる余地が残ったということです。
 従ってこの問題を提起することは協定違反ではなく、協定が扱わなかった抜け落ちたものを提起したもので、この条約のどこにも植民地支配被害問題を永遠に提起する事ができないと明示されていません。この問題を提起することはどこまでも、植民地支配の被害を受けた私たちの当然の権利なのです。
 「完全にそして最終的に解決されたもの」は弁済と債務関係事案だけです。それだけでも膨大に不足した金額です。植民地支配の不法性による被害はこの条約の範囲の外にあるのです。
 従って韓日協定では強制徴用被害問題を解決しなかったのです。
Q36 これで2012年と2018年の強制徴用関連大法院判決趣旨を理解できてきたようです。

A) それでは改めて、判決の趣旨を要約しますね。
「請求権協定過程で日本政府は植民地の不法性を認めなかった。このような立場でもって強制徴用被害の法的賠償を原則的に否認した。従ってその当時の協定を通じて、韓国と日本政府は韓半島支配の性格に対して合意を得ることはできず、このような状況の下では日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や、植民支配と直結した不法行為による損害賠償請求権が、請求権協定の適用対象に含まれていると見るのは難しい」
「従って個人請求権も消滅せず、被害国民に対する大韓民国の外交的保護権も放棄には至らなかった」
Q37 内容がはっきりわかってきました。

  植民地支配不法性に対する主権国家の明確な宣言ですね。国際法的に意味のある先例になる根拠になったように思います。
A) 考えがかなり前進しましたね。
 従って日本の安倍が、韓国が協定に違反したと言っていることは、本質的には韓国の正当な権利を否認することになり、論理的に違反などといった内容は最初からなく、違反だのどうのと言葉にならない是非を言い放っていたのです。
 刑法を取り扱っているのに、商法を持ってきて条項違反というやり方で。民事と刑法を区別できないレベルです。結局、安倍は歴史と現実の法廷で敗訴してしまうことでしょう。





























                                                                                              以上