徴用工の状況および虐待例

1.徴用工状況

①まるで拉致されるかのように強制的に連行された

②給金を充分に受け取っていなかった

③給金を充分に受け取っていなかった

④体罰やいじめなどが常態化していた

⑤日本人との差別があった。

給金を充分に受け取っていなかった

*『反日種族主義』のなかで李宇衍氏は、朝鮮人徴用工らの待遇について〈賃金は基本的に正常に支給されました〉〈「労働環境における民族差別」という主張は、想像の産物であり、歴史歪曲に過ぎません〉などとも主張している。

2.虐待例

(1) 炭鉱での朝鮮人徴用工虐待

 現在の麻生太郎の出身でも知られる麻生家が仕切っていた福岡県下の炭鉱の例です。厚生省の集計によれば、1939〜45年にかけて麻生鉱業へは少なくとも1万623人が連行されました。麻生系の炭鉱では「朝鮮人地獄」と呼ばれるような光景が広がっていたといいいます。
 複数の元朝鮮人徴用工の証言によれば、麻生系の赤坂炭鉱では、朝鮮人寮の周囲は針金のついた板壁で囲まれており、監視所と番人に見張られて外部との面会もできず、刑務所よりひどく、労務事務所には留置所のような監獄部屋がありました。坑道内は暑く、臭気がこもっていました。日中戦争が始まると扱いは酷くなり、休みも認めず、逃亡したりサボったりした坑夫は木刀やベルトなどで殴打されるなど、暴力的な強制労働が行われたといいます。

(2)長崎の端島(通称、軍艦島)での元徴用工の証言

軍艦島は、2015年に安倍首相の肝いりでユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれています。
 1943年に14歳で連行された崔璋燮さんは、高等国民学校での木銃の訓練の最中、いきなり捕まえられて益山の郡庁に連れて行かれ、翌日、汽車で釜山へ運ばれました。釜山からは原田という名前の日本人よって船で博多まで引率され、長崎に向かい、再び船に乗せられて着いたのが端島でした。「端島がどんな所か何も話さず、無条件に良い所だと騙して、あの手この手で逃亡を防ぎながら連行した」といいます。2010年の市民団体によるインタビューのなかで、崔さんは端島での強制労働や生活をこう語っています。(長崎在日朝鮮人の人権を守る会・編『〔増補改訂版〕軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶』社会評論社)

「石炭を掘り出す仕事、採炭だ。わずか一週間だけ採炭現場を見学させて、仕事に就かせた。一番方、二番方、三番方というふうに三交代で一日一六時間労働のときと、二交代で一日一二時間労働のときとあった。一度に四〇人ずつ、坑口から三、〇〇〇尺もの地下にものすごいスピードで降下して、身の縮む思いがした。現場は暑くて汗だくなので、一年中、褌一丁で働いた。〔中略〕汁かけ飯一杯食っただけで長時間働くのだから、みんな栄養失調状態になった。仕事が終わって、七メートルはある防波堤の上に毛布を敷いて体を休めていると、脚が痙攣を起こした。『俺、死にそうだ』という呻き声も聞こえた。しかも賃金をもらったことはない。私の記憶は確かだ」

(3)  日鉄鉱業池野炭鉱の炭鉱婦の証言

 長崎県・日鉄鉱業池野炭鉱の炭鉱婦だった女性は「炭坑労働者の朝鮮人は、『半島』『半島人』と呼ばれ、それはもうとてもかわいそうでした。今思い出しても、涙が出ます」と振り返っています。(長崎在日朝鮮人の人権を守る会・編『原爆と朝鮮人 長崎県朝鮮人強制連行、強制労働実態報告書 第5集』)。
「食べ物がなくて、腐ったみかんを拾って食べている朝鮮人を、憲兵がひどくなぐっているのを見たことがあります。どんなに体の具合が悪くても、休ませなかった。あるとき、四〇過ぎの朝鮮人労務者が、とても疲労がはげしくて『少し、上がらせてくれ』とたのんだが、聞き入られなかったので、風洞の中へ入った。それを見つけて引っぱられたが、一晩で顔の形相が一変してしまいました。それははげしいリンチを受けたからだと思います」
重い箱を頭から被って、17、8歳くらいの朝鮮人の新人が即死した事件もあったといいます。
「入坑して二週間目ぐらいの子でした。そのとき、上の人たちは、『朝鮮人の一人や二人死んだって、筆で書けば事はすむ。日本人(報国隊)だったら、指先一つ切ってもうるさいが……』といっていました。死んだその子の顔は、今でも覚えています。本当に朝鮮人は無理無体でした。みんな一生懸命に働いていたのに」

(4)日本で起こされた裁判による認定

 「有刺鉄線に囲まれた寮で12畳の部屋に12人が収容されていた」「食事は粗末で休日は月に1、2回しか与えられなかった」「こん棒で腰を20回も殴られた」といった過酷な実態が認定されています。