ウクライナ問題の解決に向けて

Ⅰ.はじめに

 2022年2月24日にロシアのウクライナ侵攻で始まった「ウクライナ紛争」は9か月以上も経過した現在も解決するところか、拡大している状況です。
 上表のように、ウクライナの人口は2021年現在で4,100万人を超え、面積は日本の約1.6倍あります。言語や文化も極めて近く、ベラルーシと同様に「スラヴの兄弟国」といわれたウクライナをロシアが武力侵攻したのです。多数の市民が亡くなり、1,200万人を超える人々が難民となっています。
 ロシアの武力侵攻(ロシアは特別軍事作戦というが)については、いかなる理由があろうとも、主権国家であるウクライナの方々の生命と財産が脅かされることになり、決して許されることではありません。

ウクライナ地図

 武力で国境を変更するなどもってのほかだといえます。ロシアに対しては、即時停戦を訴える必要があります。
 国連憲章にある国家間の紛争解決に武力を用いないという規定に明白に違反しています。
国連憲章第2条4項(武力による威嚇または武力の行使を慎む)第6条(紛争の平和的解決)
 しかし、同時にまた、なぜロシアが武力侵攻するまでになったのか、ウクライナを巡って何が起きているのかを捉えないことには、問題の解決にはなりません。
 日本では、「ロシア」が全面的に悪で、「ウクライナ」が全面的に善であるというような報道がされていますが、実際今回の「ウクライナ紛争」が起こった経緯をウクライナの歴史を見ながら調べてみたいと思います。「ロシア」「ウクライナ」双方に問題があったことがわかります。
「ウクライナ紛争」は、単に悪のロシアが善のウクライナを、その領土を奪うために武力攻撃したのではないのは確かでしょう。ウクライナでは8年も前から内戦が始まっていたのです。ウクライナが予め軍備増強路線を進めて国防を固めていれば防げた紛争という訳ではないようです。
 最近のメディアでは、「ウクライナ紛争」を契機に、日本の安全保障の観点から、防衛力強化が必要などという主張に多くの方々が「納得」してしまう傾向があるようで、国会でも防衛力増強のための増税が検討されています。
 1991年ソ連邦が解体された際に、ウクライナはロシアとの領土問題をかかえながらも、平和的に独立しました。その後31年経ちましたが、その間ウクライナの政治は欧米派とロシア派との間で揺れ動き、西部と東部の間では長く対立が続いていました。東部ウクライナは、ロシア系住民の割合が高く、多くの学校ではロシア語を使用しており、石炭資源が豊富で、工業も盛んです。言語も生活習慣もロシアのままであるのに対し、リヴィウを中心とする西部は産業が乏しく、失業率も高く、歴史的な背景から対ロシア感情が悪く、長くポーランドの影響下にあり、欧州との親和性を有していました。
 ウクライナ問題をさらに複雑にしているのは、民族主義者の存在と欧米諸国の関与です。
 また、ウクライナと西側諸国側およびロシア側それぞれから、さまざまな情報が多数発信されていますが、誤情報や偽情報(いわゆるフェイク情報)が飛び交っています。私たちには、どの情報が「正確な」情報なのか選別することが求められますが、これがとても困難な作業なのです。
 一方で「制裁の応酬」のため原油や小麦の高騰が世界の経済に大きな混乱を招き、私たちの生活に影響を与えています。 

 いずれにしても、ロシアとウクライナが外交を通じて十分に話し合いができていれば防げた紛争ではないかと思います。どうすれば問題が解決し、停戦が実現するのか、ウクライナの歴史をみながらご一緒に考えてみたいと思います。

Ⅱ.ウクライナの略歴史

ウクライナ全般の歴史年表については、こちらをクリックしてください

1.第一次世界大戦前まで

先ず、ウクライナの歴史から見ましょう。
ロシアは、「ウクライナはロシアの発祥の地」であり、ウクライナはロシアのものだと主張しています。どの国家や民族も昔からずっと存在してきているわけありません。
 確かに西ローマ帝国崩壊後、9世紀に北方から侵入したルーシ族が創設したキエフ公国までさかのぼれば、ロシア人の起源はウクライナだといえないこともありません。

それでは、その後のウクライナの歴史を簡単にみてみましょう。
 キエフ公国は11世紀には欧州で最も発展した国の一つでしたが、1240年にモンゴル軍に攻め込まれて崩壊し、しばらく他民族による支配が続きます。
 14世紀にはリトアニア=ポーランド王国の一部となり、16世紀にはポーランド王国に統合されました。
 その後、ポーランドやリトアニアからの逃亡農奴を中心としたウクライナ・コサック集団が現れ、独立の動きが強まりましたが、南下政策を進めるロシア帝国がクリミアを拠点に勢力を伸ばし、18世紀末にはエカテリーナ2世皇帝によりロシアに併合されました。1764年ウクライナ・コサックのヘーチマン、イヴァン・マゼーパは、大北方戦争のポルタヴァの戦いでスウェーデン王カール12世とともにロシアと戦いましたが、ピョートル1世により敗北しました。1853年からのクリミア戦争ではウクナイナが戦場の一部となり、ロシアは英仏オスマントルコ軍に敗退しましたが、ロシアによるウクライナ支配は続きます。

2.ソビエト(ボリシェヴィキ)との戦い

*1922年12月にソビエト連邦が結成するまでは、「ボリシェヴィキ」と記載するのが正当ですが、ここでは、「ソビエト」または「赤軍」と記載します。

 第一次世界大戦中に起きた1917年2月のロシア革命により、ウクライナでは中央ラーダが誕生し、11月22日に「ウクライナ人民共和国」が創設されました。
 ウクライナが単独で独墺と講和条約締結することを危惧した英仏は、ウクライナの独立を承認します。ソビエト軍は12月上旬にウクライナに侵攻し、ハルキウを首都とする「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」創設したため「第一次ウクライナ・ソビエト戦争」が始まりました。中央ラーダ軍とソビエトとの戦いで首都キエフの攻防は目まぐるしく変化します。
 翌1918年1月28日、ソビエト軍はキエフを攻撃し、ソビエト政権(ウクライナ・ソビエト政府人民書記局)を樹立しました。敗北した中央ラーダはキエフを脱出し、ラーダ軍が戻ってくるまでの二週間に、ロシア軍による穀物没収と市民虐殺が行われたといわれています。
 2月9日 ウクライナ人民共和国(中央ラーダ)の亡命政府はブレスト=リトフスクで、ドイツ・オーストリアと条約(ウクライナは食料提供を約束したのでパンの条約といわれる)を締結し、第一次世界大戦の単独講和を行いました。
ドイツ軍、オーストリア軍がキエフに迫ると、ウクライナソビエト政府は解散し、中央ラーダがキエフに帰還しました。(第一次ウクライナ・ソビエト戦争終了)
 キエフでは4月29日に「ヘーチマンの政変」が起こり、中央ラーダに変わってウクライナヘトマンの子孫である親ドイツ派のスコロパードシキー大将がヘトマン国家「ウクライナ国」を成立しました。
 10月19日にはオーストリア・ハンガリーの解体に伴い、ガリツィア地方で「西ウクライナ人民共和国」が独立宣言。
 11月1日にフランスの支援によりポーランド共和国が西ウクライナに侵入し、「ウクライナ・ポーランド戦争」が勃発。
 11月11日 第一次世界大戦終了、親ドイツ派スコロパードシキー政権が倒され、ディレクトーリヤ政府が再び「ウクライナ人民共和国」を復活します。(-19秋)。
 12月20日に「第二次ウクライナ・ソビエト戦争」(1921年11月まで)が勃発し、ウクライナのディレクトーリヤ政府はハルキウの 「ウクライナ・ソビエト社会主義共和国」との戦いを始めました。
1919年1月22日にディレクトーリヤ政府は西ウクライナ人民共和国を併合したものの、2月5日にはソビエト軍がキエフを占領し、再度食料調達を行ったため、キエフでは4か月に合計300回もの暴動が発生しました。
  なお、キエフ撤退時にディレクトーリヤ政府のペトリューラは大規模なポグロム(ユダヤ人の虐殺)を行いました。
  さらに5月7日、ソビエト軍が西部のポジーリャへ侵入したため、5月24日ウクライナの執政内閣はポーランドと和議を結び、7月16日にはウクライナ軍が反撃を開始し、ソビエト軍をポジーリャから退却させ、8月31日にはキエフを解放し、ドニエプル川西部に「ウクライナ人民共和国」を再建しました。
  一方で8月、デニーキンの白軍がウクライナ東部に侵攻し、赤軍はウクライナ東部からも撤退しました。
しかし、白軍が「ウクライナ人民共和国」の再建を認めなかったためにウクライナの執政内閣は、11月6日再びポジーリャ地方へ撤退しました。12月4日にはウクライナ執政内閣は、白軍・赤軍・ポーランド軍に囲まれたため、正式な軍事行動を止め、白軍・赤軍の支配地域においてゲリラ戦を展開しました。
1920年4月21日 ウクライナ人民共和国の亡命政府(ペトリューラ)は宿敵であったポーランドと攻守同盟「ワルシャワ条約」を締結しました。ウクライナ亡命政府がポーランドの東ガリツィアの主権を認めるかわりにペトリューラをウクライナ国家の唯一の指導者であることを認めました。しかしながら、ワルシャワ条約はまた東ガリツィアがウクライナの領土ではないとしたため、ウクライナ亡命政府はポーランドを最大の敵とする「西ウクライナ人民共和国」との連合を放棄することになりました。
  4月25日 ポーランド・ソビエト戦争開始、5月7日 ポーランド・ウクライナ同盟軍がキエフを一時解放したが、赤軍は6月14日にキエフを奪還し、さらに8月には西ウクライナを占領します。
 しかし、8月15日にワルシャワの戦いで赤軍はポーランドに敗北しました。「ヴイスワの奇跡」と呼ばれます。
ところが、10月18日にはポーランドはウクライナを無視し、ソビエトと和議を結んだため、ウクライナ軍は、ウクライナの中部で第二冬期作戦を実行し、単独で赤軍との戦いを続けましたが、11月21日、ウクライナ軍は敗北し、ポーランド領へ撤退しましたが、ポーランドにより強制収容所へ送られました。
1920年 プラハでイェヴヘーン・コノヴァーレツィを指導者とする亡命ウクライナ人による反ポーランド組織、「ウクライナ軍事組織(UVO)」が結成されました。
1921年3月18日 ポーランドとソビエトが「リガ条約」を結び、西ウクライナはポーランド領、中部・東ウクライナはソビエト領に分割されました。(ポーランドの裏切り
  4月 ウクライナ人民共和国の亡命政府は、ワルシャワを離れてパリへ移りました。
1922年4月16日 ドイツ共和国とソビエトはジェノバ近くのラパッロで、「ラパッロ条約」を締結しました。ソヴィエト政権を外国が承認した最初の条約で、ドイツは一次大戦敗戦後、ヴェルサイユ条約で禁止された軍備復活の準備を始めました。
      12月30日  ソ連邦結成。ウクライナ共和国はウクライナ・ソビエト社会主義共和国「小ロシア」としてその一員となり、同時にクリミアも「クリミア自治共和国」として組み込まれました。
1923年 ウクライナ共産党第7回協議会でウクライナ化政策が採択されました。
1929年1月28日 コノヴァーレツィは、ウィーンでウクライナ民族主義者組織(OUN)結成し、反ポーランド、反ソビエトを掲げ、要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行いました。
        *ウクライナ民族主義者の歴史については、こちらをクリックしてください。
1930年1月 ウクライナ独立正教会解散。
1932年12月から33月3月までウクライナの抵抗運動に対し、シベリアへ強制移住が行われ、ホロドモールといわれる
      人工的な大飢饉が起こり、ウクライナの人口の約20%(推定で400万から1000万人)が餓死したと言われています。
    (スターリンの恐怖政治。ロシアへの憎悪が)ホロドモールについてはこちらをクリックしてください
1934年6月 ウクライナの首都、ハルキウからキエフへ遷都。
1938年5月23日 コノヴァーレツィが暗殺され、穏健派アンドリイ・メーリヌィク(OUN-M)と、民族主義的なステパン・バンデラ(OUN-B)に分裂・抗争が始まりました。
         9月 ミュンヘン会談でドイツによる、チェコスロバキアのズデーデン併合が承認されました。

3.第二次世界大戦前後

  第二次世界大戦がはじまると、ドイツが侵攻し、ウクライナが独ソ戦の舞台となり、国土が焦土と化します。
 ウクライナ人の死者は、兵士や民間人合わせて、800万人から1400万人と推定され、ウクライナ人の5人に1人が死んだ計算となり、大戦中の最大の犠牲者を出した民族とされます。ドイツが約500万人の犠牲者、日本が約300万人の犠牲者ということと比較しても、ウクライナの被害がどれほど甚大であったかがわかります。一般的な統計では、ウクライナ人の犠牲者は「ソ連の犠牲者」に含まれますが、その多くがウクライナ人のようです。
  ここからは、略年表風に記載します。 
1939.8.23 独ソ不可侵条約を締結
1939.9.1 第二次世界大戦勃発。ドイツ軍、ポーランド侵攻
 9.17 ソ連はポーランドに侵攻し、ポーランドをドイツとソ連に併合し、西ウクライナをウクライナに組み入れた。
1941.2.25 ウクライナ西部ではスターリンの恐怖政治に反感を抱く人々がドイツ軍を解放軍とし歓迎、ドイツの指揮下に、OUN-B「ウクライナ軍団」の創設を認可。800人 がウクライナ軍の中核に。
1941春、「ナハチガル(ナイチンゲール)大隊」「ローランド大隊」部隊設置。
 6.22 ドイツが突然バルバロッサ作戦を開始し、ウクライナのキエフ、ソ連のペテルブルグ、モスクワへの侵攻。
        ソ連は、ウクライナから退却する際にウクライナの人々を再び大量殺戮。
 6.30 OUN-Bはリヴィウでウクライナの独立宣言、ヒトラーに忠誠誓約。OUN-Bはナチス政権によるポーランド人やユダヤ人、ロシア人への残虐な殺戮行為に率先して協力した。ユダヤ人殺害作戦の立案・実行は殆どウクライナ人補助警察官の手で行なわれたともいわれます。ナチスはキエフ占領し、バビ・ヤールの谷で10万人を超えるユダヤ人を虐殺し、OUN-Bは協力した。(ウクライナのユダヤ系住民は約250万人、「社会主義革命はユダヤ人の仕業」とのデマも拡散)
  しかし、ゲシュタポは独立運動主導者OUN-Bのリーダーを逮捕、投獄、殺害。  ウクライナ人を含む「劣等人種」とされた数百万人が、「東方労働者」ドイツで強制労働、 ウクライナのユダヤ人50万人絶滅。東部占領地域はナチス親衛隊が直接統治しました。ドイツ軍に協力してキエフの民政の制御を確立したOUN-Mも、1942年初めには、メンバーの多くが逮捕されました。 *バンデラを逮捕してザクセンハウゼン強制収容所に送った(彼の2人の兄弟はアウシュビッツに送られ、死亡)。ドイツに亡命していたバンデラは1959年にKGBのエージェントによって殺害。
1942.10 ウクライナ蜂起軍(UPA)が結成され、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しいパルチザン活動が実施された。
1943春 ドイツ軍は、スターリングラード攻防戦で決定的な大敗北
1943 武装親衛隊(SS)にウクライナ人部隊「ガリツィエン師団」が創設され、4月にソ連軍との戦闘のためにSSガリツィアへの兵士募集がおこなわれ、約8万人が採用。
一方で、「ソ連兵」としてナチスと戦ったウクライナ人も多く、ソ連軍兵士1100万人のうち、270万人がウクライナ人だと言われる。
1943年から翌年にかけて、ポーランドの戦前の国境を再建阻止のため、 UPAはポーランド人に対して大規模な民族浄化を実施。(10万人のポーランド民間人がヴォルヒニアと東ガリツィアで虐殺)
1944  「ガリツィエン師団」ブロディの戦いでソ連軍に敗北
1945  ソ連軍はガリツィアで、ナチスと協力した幹部と家族を殺害、他はシベリアの強制収容所へ、兵隊はウクライナの東に強制移住。第二次世界大戦終了。
また、UPAはソ連軍とポーランドの政府軍にテロ、ガリツィアのポーランド人、ユダヤ人の大量虐殺、50年代まで続く。
 5月 クリミアのタタール人は、ドイツへの協力という理由で中央アジアへ強制移住(1990まで)
1947 大戦後ポーランドは、ヴィスワ作戦により、UPA支援基地を撤去するために、ポーランド南東部に居住する20万人のウクライナ人をポーランド西部や北部へ強制移住、国外追放。
1950年代 ガリツィア地方のウクライナ人たちは、カナダに亡命、現在もエドモントンを中心にユニエイトを信仰する120万人のウクライナ人が居住。
1954.2.19 スターリンの死後、フルシチョフは、クリミア半島をウクライナへ移管。
1985年 ゴルバチョフが、グラスノスチやペレストロイカを実行。
1986.4.26 チェルノブイリ原発事故。
1989.11 ベルリンの壁崩壊、翌12月にはブッシュ大統領とゴルバチョフ氏は、マルタ会談で冷戦の終結を宣言した。
1991.12 ゴルバチョフ大統領辞任、最高会議も連邦の解体を宣言したことでソビエト連邦は崩壊。

4.ウクライナ独立からオレンジ革命

1991.8.24 ウクライナ、ソ連より独立宣言
1991.12.5(-94.7.19)レオニード・クラフチュク初代大統領
1994.7.19(-2005.1.23) 第2・3代目のレオニード・クチマ大統領
  12月、「ブダペストの覚書」核兵器を放棄、非核兵器国に。
1996  ウクライナ憲法制定
1997 ウクライナ・ロシア友好・協力・パートナーシップ条約
2004.11 オレンジ革命。11.21 親ロシアのヤヌコーヴィチの当選発表。大統領選挙不正をめぐる運動
    12.26 再選挙でユーシチェンコ52%、ヤヌコーヴィチ44%。ヤヌコーヴィチは最高裁に提訴するが却下、政権交代。
2004 憲法改正、大統領制から議院内閣制にシフト(大統領権限制限)。
2005.1.23(-10.2.25)ユーシチェンコ大統領。ユーリヤ・ティモシェンコを首相任命。

左:ユーシチェンコ大統領       右:ティモシェンコ首相

      9.8 ティモシェンコ首相以下全閣僚を解任。ドニプロペトロウシク州ユーリー・エハヌロフを首相代行
2006.3 議会選挙でエハヌロフを1位候補とする「我らのウクライナ」が第3位の得票で惨敗。
2007.9 議会選挙後に「我らのウクライナ」と「ティモシェンコ・ブロック」が手を組み、議会の過半数を獲得。ティモシェンコを再び首相に任命。ロシアの天然ガスを巡りティモシェンコと関係が悪化
2008.9.16 連立政権解消。NATO加盟希望
2009.3 側近で親欧ボロディミール・オグリスコ外相が議会で解任

5.ユーロ・マイダン革命以降

2010.2.25 ヤヌコーヴィチ大統領当選。前大統領ユーシチェンコは1回目の投票で5位、2位は前首相ティモシェンコ。
2010.9 憲法裁判所は2004年の憲法改正を無効。大統領権限回復。
2012.7.26 スヴォボーダが最高議会選挙で37議席(2014年10月の最高議会選挙では7議席のみ)
2014.2.18-23「ユーロ・マイダン革命」親ロシア政権交代と2004年の憲法改正への復帰を求める。
    2.21 ウクライナ政府(親ロシア)と野党、EUの代表(独、仏、ポーランドの外相、合意の証人)がヤヌコーヴィッチ大統領の早期退陣を求める危機解決に関する協定に調印。
   2.22  デモ中に警官とデモ隊29名が射殺され、群衆が国会を占拠。前日の合意を順守せず、国会がヤヌコーヴィチ大統領の解任を決議。大統領弾劾の手続き等も無視(憲法違反)しての政権交代。ヤヌコーヴィチ大統領はロシア亡命。
2014.2.23(-6.7)オレクサンドル・トゥルチノフ(ティモシェンコ元首相の側近)大統領代行就任。
   2.27 クリミアで親ロシア派のアクショーノフが自治共和国の新首相に任命
 3.2   クリミア半島が親ロシア勢力の支配下に。
 3.16 住民投票95.6%賛成でロシア連邦のクリミア共和国に。
 3.18 ロシアのクリミア併合、クリミア共和国誕生。
 5.4   オゼッサの悲劇、事件
 5.12 ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国の独立宣言
 5.25   大統領選挙(15.3.29予定を前倒し)ドネツク、ルガンスクは9選挙区(34区) クリミアは設置できず。
 5.26-27 第一次ドネツク空港の戦い。ドネツク人民共和国軍に占領された同空港をウクライナ軍が奪還。
 6.7(-19.5.20) ペトロ・ポロチェンコ大統領
    西ウクライナの兵で、東ウクライナの親ロシア武装勢力を攻撃し、ウクライナ内戦が始まった。
           ドンバス 2016』ドキュメンタリー映画(日本語)はこちらをクリックしてください
 9.5 ミンスク議定書1調印、停戦。ウクライナ、ロシア、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国が調印
   *欧州安全保障協力機構(OSCE)の援助による。
   ①中央政府による国境管理
   ②ウクライナからの外国部隊撤退
   ③親ロシア派への自治権付与(EU加盟困難)
 9.28〜2015.1.21 第二次ドネツク空港の戦い。ドネツク人民共和国勝利、ウクライナ軍撤退。ミンスク議定書1による停戦は完全崩壊。
2014.10.26 最高会議選挙でスヴォボーダ党は5%条項(国または地域で議席を得るのに獲得しなければならない最小限の得票率)を超えることができなかったため、小選挙区の7議席のみで大敗。
2015.2.11 ドイツとフランスの仲介によりミンスク2調印。(「外国の部隊」の駐留を禁じる)
   ミンスク議定書による停戦を復活。(かってモスクワを侵略したヒットラーとナポレオンの2国による仲裁)
2018 ロシア「クリミア橋」建設
2019.5.20 ヴォロディミル・ゼレンスキー大統領(ユダヤ人)。
      ナチスのホロコーストによって一部殲滅させられた家系の出身。極右政党の得票率わずか2%。
2022.2.21 ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国をロシアが承認。
2022.2.24 ロシアによるウクライナ侵攻。ミンスク合意2破棄。

Ⅲ.ロシア・ウクライナ侵攻

1.ソ連崩壊・ロシア誕生時の歴史

ソ連崩壊と冷戦終結 ゴルバチョフによるグラスノスチ(情報公開) ペレストロイカ政策
一部、重複します。

1987年「欧州共通の家」を提起。ワルシャワ条約機構とNATOの廃止を提案。
1988年3月 新ベオグラード宣言(ユーゴスラビア連邦議会でゴルバチョフ)
               *各国独自の社会主義路線を肯定、ブレジネフの制限主権論を否定。
        6月 ハンガリー社会主義労働者党内で急進改革派が台頭。
              *56年のハンガリー動乱以降続いた新ソ連派カーダール政権が崩壊。
              ハンガリーは複数政党制への移行、共和国宣言、90年3月自由選挙。
1989年2月 ポーランドで非共産党系の自主管理労働組合「連帯」承認
   6月 「連帯」総選挙で圧勝
 11月 ベルリンの壁、崩壊。ブルガリアとチェコスロバキアでも政変
 12月 ハンガリー、憲法を改正して共和国
   12月 ブッシュ大統領とゴルバチョフ氏は、マルタ会談で44年間続いた冷戦終結を宣言。
    *両国間の「信頼の醸成」が大きな成果を生んだとたたえられた。
     ルーマニア革命。東欧革命で、唯一流血の事態。 チャウシェスク大統領、処刑
1990年3月 東ドイツの議会選挙でキリスト教民主同盟などが勝利
             *3月以降、バルト三国独立。グルジア(ジョージア)やロシア主権宣言
   5月 ロシア最高会議議長エリツィン就任
 10月 東西ドイツ統一
   *「NATOは、ドイツの国境線を超えて東方拡大することはない」口頭で約束。
     ロシアは15の共和国がNATOに入らないという条件付きで独立を認めた。
1991年6月 急進改革派のエリツィンはロシアに大統領制、直接選挙で初代ロシア大統領に就任。
      *ロシアが主権を主張し始めた事で、ソ連は二重権力状態となった。
  7月 ワルシャワ条約機構、解体・廃止。
 8月 ゴルバチョフは急進派の意向を汲む形で、新連邦条約の調印準備。
 8月19日 ゴルバチョフが休暇でクリミアに滞在中に、モスクワでクーデター。(八月政変)
     *ヤナーエフ副大統領らソ連共産党内の保守派は連邦解体の危機
    *エリツィンは反クーデターを呼び、民衆・軍もクーデター派の命令を拒否した為、失敗。
    *ヤナーエフは22日に逮捕され、ゴルバチョフはソ連共産党を解散。
 12月 ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国がソ連解体と独立国家共同体(CIS)の創設を宣言。ベラルーシ合意。
    *ゴルバチョフはソ連大統領を辞任し、ソ連は正式に崩壊。ロシア連邦が成立。
1993年 クリントン政権の「二股政策」
   *NATO加盟は認めるが、ロシアに配慮し、「パートナーシップ・フォア・ピース・プログラム(ppp)」の枠組みを設定。しかし、pppは相次ぐ東欧諸国のNATO加盟により完全に破綻。
1994年12月 ブダペスト覚書
1997年 ロシアがNATOと交わした「基本指針」(ヨーロッパに民主主義と安全を原則に平和を樹立する)が採択。
  *しかし「基本指針」の合意後、東欧諸国は次々にソ連の勢力圏を離れてNATO西側陣営に。ただしロシアに向けて勢力拡大が目的ではなく、ロシアの脅威を前に自国の安全を守るためにNATO軍の支援を必要とした。しかしロシアとしては、NATO(反ロシア機構)が東方に拡大し国境線に迫ってくることに脅威をもった。
1999年 ハンガリー、ポーランド、チェコがNATO加盟。
NATOは、国連安保理に諮ることなく、セルビアの首都ベオグラードを空爆。
*セルビアは、スラブ人が住みロシア人とは民族的にも歴史的にもつながりが強い国。
 大晦日にプーチン大統領代行に就任。
2004年 バルト3国、ルーマニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリアの7カ国がNATO同時加盟
2008年8月 ジョージア(グルジア)で、サアカシュヴィリ大統領が南オセチア自治州に派兵
      した際、同州の独立を支持するロシアが戦闘に参加し、「8月戦争」軍事衝突。NATO加盟を求め
      (ウクライナと)、08年NATOはグルジアの加盟に同意(実施時期は未定)
      プーチン大統領は、2008年と2012年の大統領選挙スローガン「メイク・ロシア・グレート・アゲイン」で
      ソ連崩壊後のロシアの混乱を克服し、ロシアを強い国家にしたいと考えていたようです。

2.ロシアによるウクライナ侵攻

 ウクライナ内戦
 2014年のユーロマイダンに始まり、ロシアによるウクライナ侵攻の直前まで8年間継続してきたウクライナ内戦では、ウクライナ軍は東部のドンバス地域で、多くの主にロシア語を母語とするウクライナ住民およびロシア系住民への激しい無差別攻撃を開始、迫害し、殺害したとされています。ウクライナ内戦については、こちらをクリックしてください

 ロシアのウクライナへ侵攻

 2022年2月24日、ロシアはウクライナへ軍事侵攻しました。ロシア・プーチン大統領は、平和維持を目的とする「特別軍事作戦」と称していますが、いかなる理由があろうともウクライナ侵攻は許されることではありません。
 事実プーチン大統領はウクライナ侵攻開始以来、「核の脅し」を繰り返し、9月には「これはブラフ(はったり)ではない」と主張しており、平和維持が目的とはいえません。プーチン大統領は「ロシア存続の危機」だとも言っています。
 欧米諸国などからの武器供給をうけたウクライナ軍は徹底抗戦によって戦いは今なお継続し、停戦交渉は何度も決裂していて、終結の時期は未だ不透明な状況です。
 このままだと核兵器の使用や第3次世界大戦の危機が到来する恐れがあるとも言われています。

 ロシアのウクライナへ侵攻の目的は?

1.ウクライナ東部のドンバス地方(ルガンスク州とドネツク州)でネオナチにより迫害されているロシア語を話すロシア系住民の保護すること。(そのうち70万人は、ロシア国籍をもつ)
 米国がウクライナを利用してロシアを脅しており、欧米の脅威に対抗するという「正当防衛」の主張です。

2.ウクライナから軍事的な脅威を取り除くこと。
 ロシアの安全保障観の観点から、ウクライナのNATO加盟はロシアと隣接する国に敵対する軍事大国が存在を認めることになり、許されることではない、「NATOの脅威に対する自衛措置だ」と主張しています。(第2次世界大戦時にドイツ軍の侵略により、2600万人もの犠牲者が出た苦い経験による。)
ウクライナは歴史的にみて、東部と南部はロシアの土地であり、ロシアの兄弟国であるというプーチン大統領のウクライナへの強い執着があり、ロシアと友好的で融和的な政権の樹立を望んでいます。またウクライナの中立化を望んでおり、ウクライナ国全体のロシア併合を画策しているようではないようです。

 プーチン大統領は、2月24日のウクライナ侵攻の直前、現地時間21日夜に約55分間に及ぶテレビ演説で、占領地域の独立承認を表明し、ウクナイナ侵攻のロシアの理由・目的および正当性を、独自の歴史認識に基づいて述べられています。
プーチン大統領 テレビ演説【全文】(NHK国内ニュース・ナビより)

3.フェイクニュース「ブチャ虐殺事件」と「原発攻撃」

 現在は、インターネットをはじめ、様々な情報が簡単に入手できます。そこで「正確な」情報は簡単に入手可能かと思われるのですが、実際にはウクライナ情勢をめぐって「情報戦」が活発化しており、ウクライナや西側諸国側およびロシア側からの発信された情報には、さまざまな誤情報、偽情報(悪質な嘘、いわゆるフェイクニュース)が飛び交っています。私たちには、どの情報が「正確な」情報なのか選別することが求められますが、これがとても困難な作業なのです。
 戦時中の日本は大本営発表で、国民にフェイクニュースばかりを伝えていたのは周知の事実ですが、昔から直接的な戦争だけでなく、新聞などのメディアを駆使したプロパガンダ・情報戦が繰り広げられていました。
 2001年のイラクによるクウェート侵攻時の国連総会での「ナイラ証言」が、実はクウェートとアメリカ政府の意を受けた反イラク扇動キャンペーンの一環で行われた「偽証言」であったというのは、記憶に新しいことです。
 今回のウクライナ侵攻では、インターネットのSNSだけでなく、スマホの動画や衛星写真などハイブリッド戦とも呼ばれていますが、戦争になると特にフェイクニュースが氾濫する理由は、これが大きな「武器」になるからです。今回のウクライナ侵攻では、SNSでの情報戦が話題になっているように、「敵兵が逃げ出した」とか「原発を攻撃している」などの戦局を伝えるようなニースというのは、自国民を奮い立たせ、同盟国の支援を呼び込み、敵国の兵士を恐怖・混乱させて戦意を喪失させることもできます。自国に有利なニュースを流すことは、ミサイルや銃弾よりも有効な武器になることもあります。
 その中でも最も敵国にダメージを与えることができるフェイクニュースが、「残虐行為」でしょう。
 戦争で勝利するにはこのようなプロパガンダを駆使しており、そこではフェイクニュースも平気で垂れ流しているという醜悪な現実があるのです。このような状況で、さまざまな立場から発信される情報には正しいと断定できないものも多く含まれています。日々、双方が戦況について異なる発表をするため、実態が掴みにくく、情報の取り扱いには注意が必要です。写真や動画の編集などもいとも簡単にできてしまいます。そのため、情報の取り扱いには注意が必要となるのです。
 では、今回ウクライナ侵攻で「情報戦」のため、実態がどうであるのか把握するのが難しい事例を二つみてみます。「ブチャ事件」と「原発攻撃」です。どちらも相手国の攻撃だと悲惨の応酬が行われています。

(1)ブチャ虐殺事件

2022年3月にキーウ近郊のブチャ近郊で410人の犠牲者が発見され大量虐殺です。
ウクナイナ側は、ロシアが占領中に起こした虐殺だと主張し、ロシア側は「ウクライナによる自作自演だ」と反論しています。
先ず、ブチャ占領の日程は次のとおりです。
2022年
2月27日 ロシア軍のブチャ侵攻・占拠。
3月19日 ブチャを撮影した衛星画像に、民間人とみられる遺体が複数写っていた
3月30日 ロシア軍は首都キエフの包囲を解き、ブチャからも退去
3月31日 ブチャのアナトリー・ペドルク市長が市内を見回り、動画を撮り、ブチャ解放を発表
4月1日 アゾフ大隊がブチャ入り。
4月2日 ブチャに入ったAFP通信などが民間人とみられる多数の遺体や集団墓地を確認。
4月3日 ウクライナ国防省がロシア軍の残虐行為を示すとされる映像を公開。

ウクナイナ側の主張
①市内の多数の遺体や集団墓地は、ロシアが占領中に起こした虐殺
②その証拠に、3月19日にブチャを撮影した衛星画像から、民間人とみられる遺体が複数写っており、ロシア軍がこの地域を支配していた頃から遺体が放置されていたことを示している。
③ブチャでの虐殺に関与した可能性があるロシア兵1,600人余りの名簿を公開
④国際刑事裁判所(ICC)などと協力する意向を表明

ロシア側の主張(含むネット)
①ロシア軍は3月30日に完全にブチャから撤退しており、「犯罪を証明するもの」は、ウクライナ安全保障当局職員が同市に到着してから4日後になってようやく表に出たのは何故か。
②3月31日のブチャのアナトリー・フェドルク市長が市中を見回った上で撮影したビデオメッセージの中で、市街に一言も殺された一般市民がいる事には言及していないのはおかしい。もしも後に訴えるように、後ろ手に縛られて殺された市民の遺体が、町中に転がっていたのなら、真っ先にその惨状を訴えるはずだ。
まったく言及もされなかったのは、その時点では市民の遺体は無かったことを示している。
ブチャで撮影された動画や写真の遺体は露軍の撤退後に置かれたものだと示唆し、「映像はデマ」「演出された挑発行為」
③「ウクライナによる自作自演だ」。その根拠のひとつとして「遺体が死後硬直していない」
④フランス国家憲兵隊の法医学部門の専門家18人と、キエフの法医学調査チームが調査した結果、両手を縛られて銃などで殺害された遺体には、そのクラスター爆弾のパーツが埋め込まれたケースがあった
D-30(2A18) 122mm榴弾砲 アフガニスタン軍兵士の教育
 解剖を行なったウクライナの法医学者ピロフスキー氏は「私達はこの地域の同僚と、
遺体から金属製のダーツを発見しました。
「砲弾1発で8000本のダーツを発射する榴散弾の一種で、戦争法違反の無差別殺傷兵器」
「解剖の結果、民間人は明らかにウクライナ軍のD-30砲弾によって死亡したことが明らかになった」左:ゼレンスキー大統領 右:ブチャのアナトリー・ペドルク市長
「このD-30砲弾は今紛争でロシア軍は使用しておらず、ましてやブチャで活動した空挺部隊は、
そもそもそのような砲弾は扱わない」
⑥本当に何人も死体が転がってるところ、バンドポケットで歩く大統領とかいるんですかね?
⑦衝撃的なゼレンスキー大統領とペドルク市長の談笑する姿。
なぜ、虐殺現場慰問で晴れやかに笑えるのかが疑問。

⑧遺体付近の地面に血痕がない、死者の中には袖にロシアとの連帯を示す白い腕章をしている者
が混じっているという指摘
⑨「死者」が腕を動かしている、カメラマンの車のバックミラーに映ったある「死者」が車が通過する際に自分で体位を変えているように見えるという指摘が多数挙げられ、ウクライナ治安維持部隊や国土防衛隊による殺害の疑いがある
アゾフ大隊がロシア軍への協力者を処刑しクレンジングしたのでは。ロシア軍の占領地区で
榴弾砲をロシア軍が使う理由がない。占領しているのだから殺したければライフルで十分なわけ。

 こうしてみてくると、ネットでは、ウクライナのロシアに対する非難の信憑性に疑問が呈されています。今日本のメディアが報道しているブチャの虐殺は、すべてロシアのプーチンだと断定するのは難しいでしょう。アゾフ大隊などの関与もあったのかのしれません。いずれにしても慎重な事実確認の必要です。
 戦争犯罪かどうかを判断するのは当事者ではなく、裁判所です。
 戦争犯罪を扱うオランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC)は証拠を集め、責任者を裁きにかける責任があります。
 現在複数締約国の付託を受けて捜査中とのことですが、一日も早く、正確な判決を求めます。
 ひとつ問題はICCには米国や中国、ロシアなどの主要国をはじめ、ウクライナを含むいくつかの国々はいまだ参加していません。国連が深刻に分裂しているうえ、大国の非人道的犯罪がこれまで国際社会でまともに処罰されたことがないのが気掛かりです。
*ウクライナは、2013年11月21日以降の行為についてICCの管轄権を受諾する宣言をしています。

(2)ザボリージャ原発攻撃

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サボリージャ原発

  ザボリージャ原発は、欧州最大級であり、世界で3番目に大きな原子力発電所で、6基のVVER(ロシア型加圧水型原子炉)が稼働していました。3月にロシア軍が占拠し、ロシア側の指示の下でウクライナ人スタッフが原発を運営・管理しています。
 8月に入り戦闘が激化し、同原発周辺では現在も砲撃が相次いでおり、原発の敷地内にも砲弾が着弾しています。8月下旬と9月上旬には、砲撃に伴う送電線の損傷で外部電源の一時喪失も発生。重大事故が起きる懸念が高まる中、ロシア、ウクライナの双方が相手による砲撃を非難してきました。

 ザボリージャ原発の施設が損壊したり、原発への電力供給が完全に途絶えていたら、原子炉を冷却できず炉心溶融(メルトダウン)が起こり、放射性物質が漏れ出れば、放射能汚染がウクライナやロシアに留まらず、欧州および世界の広範囲に及ぶ大惨事を招きかねません。原発事故の恐ろしさは福島第一原発のメルトダウンを経験した日本の人々には忘れることができないことです。
 ロシアも理事国として参加する国際原子力機関(IAEA)は9月1日、グロッシ事務局長をトップとする調査団を派遣し、調査団は10月3日、声明を出しました。
 声明によると、ザボリージャ原発には外部と電力をやりとりするための高圧送電線が4本あるが、その全てが損傷し、電力の供給が遮断されているという。幸い、近くの火力発電所と同原発をつなぐ予備の送電線を使い、原発に電力を供給しています。

ザボリージャ原発攻撃は、どちらか?

 ロシア、ウクライナとも相手が攻撃と主張しているが、双方ともに原発事故の恐ろしさは十分承知しているはずですが、それでも、原発攻撃は実際に行われています。
 日本のメディアでは、ロシア側の攻撃だとの報道が多いようですが、原発を警備しているロシア軍が自分で守っている原発を自分でミサイル攻撃するはずはありません。ウクライナは、ロシアの偽旗作戦であり、ロシア軍が自作自演でミサイルを発射したのだ説明するのですが、あまり説得力はありません。
 一方で、ウクライナ軍の南部反攻の前線となっており、ロシアは原発敷地内から砲撃しているようです。そのロシア軍に向かって、ウクライナ軍がミサイル攻撃をしているというのが実態ではないでしょうか。もちろんウクライナ軍も原発事故を起こすことは避けているでしょう。基本的には、送電線への攻撃で、原発敷地内に被弾についても原子炉や原子炉建屋への砲撃はありません。
 それに、ロシア軍の砲撃だとしたら、IAEAが調査団を派遣した時にわかったはずで、ロシア軍の攻撃により、ロシアが世界を危険にさらしていると非難したことでしょう。
 また、衛星による監視でザボリージャ原発に向けたミサイルがどこから発射されたかは簡単にわかるはずなのに、その発表も今のところないようです。
*11月15日のウクライナ軍によるポーランド領へのミサイル着弾事件についてもロシア軍がNATO側の反応を試すためにミサイルを撃ち込んだ可能性があるなど主張していました。

(3)パイプライン問題

2022年2月21日、ロシアがウクライナ東部2地域(ドネツク州、ルガンスク州)を独立国家承認、翌22日ドイツは対ロシア制裁として「ノルドストリーム2」の認可停止を発表しました。
 ウクライナでは、1991年にソ連邦からの独立後、ロシアとの間で天然ガスの供給・料金設定等を巡る係争も続いていました。当時は「ソユーズ」「兄弟(Brotherhood)」などが集まるウクライナのウシュゴロド経由から、欧州に向けて1200億立方メートルの天然ガスが輸送されていました(2010年)。欧州向け天然ガスの約8割がウクライナを経由していたが、ウクライナ側でのガスの無断抜き取りや第三国への組織的転売、ガス料金のロシアへの不払いも発生し、一時はロシア側がガス供給を削減し、欧州各国に影響が及んだ経緯もあります。
 ロシアは、パイプラインがウクライナを通過している限り、西欧への安定的な供給は見込めないため、ウクライナを経由しないパイプラインを3本「ノルドストリーム1,2」「トルコストリーム(別名サウスストリーム)」を新たに建設しましました。
今回の対ロシア制裁で「ノルドストリーム2」の認可停止によりドイツなどは高価な米国産液化天然ガス(LNG)購入せざるを得ないためコスト約2倍に高騰した。このためウクライナも西欧諸国もエネルギー対策で苦慮しています。
また、9月28日には、海底パイプライン「ノルド・ストリーム1」と「ノルド・ストリーム2」の3か所から天然ガスの漏れ出しが確認され、ウクライナは27日、ロシアによる「テロ攻撃」だと非難しています。

4.ウクライナ民族主義者

 全世界で民族主義者集団が存在しない国家はないといわれています。どのような民主主義国家でも民族主義を前面に出し、極端な運動を展開するグループはいます。偏狭なナショナリズムは国粋主義につながり、危険です。
 ウクナイナでは、歴史的な背景から極右民族主義グループが多数存在し、プーチン大統領は、その一部を「ネオナチ」と呼び、今回の戦争を「ネオナチ」からの解放と位置付けています。2014年のクリミア併合は新政権の主体がネオナチであり、8年間「集団殺害(ジェノサイド)」にさらされた住民を守るため「ウクライナの非武装化と非ナチ化を進める」ことをウクライナ侵攻の理由の一つとしてあげています。

 現在のウクライナは、不完全ではあるが、選挙によって、大統領が選ばれ、三権分立された民主主義国家です。一概に、プーチン大統領がいうようなネオナチ国家とは言えないでしょう。
ただ、特に2014年のユーロ・マイダン以降に力をつけてきた極右民族主義グループに資金、武器、その他の支援を提供し、ロシアに対抗するためにアゾフ連帯を国家親衛隊として取り込むなど、極右民族主義グループの力に頼らざるを得ない状況のため、その影響を受けているのも事実でしょう。

 ユーロ・マイダン後に実施された最高会議選挙では極右スヴォボーダ党は5%条項(国または地域で議席を得るのに獲得しなければならない最小限の得票率)を超えることができなかったため、小選挙区の7議席のみで大敗しており、さらにゼレンスキー大統領を選出した2019年の総選挙でも、ウクライナの極右は屈辱的な結果に終わり、得票率はわずか2%でした。現在の「全ウクライナ連合『自由』」は当時と比べると退潮傾向が大きく、政権に参画もしていません。(極右過激派は警察組織のなかに着実に入り込んでいるようです。)
この選挙の結果をみればウクライナ国民は、白人至上主義を主張する民族主義的な極右政党を支持していないことは確かでしょう。
 また、ゼレンスキー大統領も、自分がユダヤ人で、ナチスのホロコーストによって一部殲滅させられた家系の出身で、反ユダヤ主義者でも人種差別主義者でもないことを強調しています。
2014年2月の「ユーロ・マイダン革命」で誕生したヤツェニュク暫定政権では、「ネオナチ」極右政党スヴォボーダの幹部が、副首相や国防大臣など閣僚4ポスト、さらに国家安全保障・国防会議議長や検事総長という要職を手にしました。ユーロ・マイダンの際に機動隊相手に最前線で戦っていた主導的な勢力の一つとしてかなりの影響力があったのでしょう。スヴォボーダは、民族的純血主義、外国人排斥を訴える“極右政党”です。
 暫定政権はロシア語を公用語から外し、ウクライナ語だけを公用語に。企業と役所の文書もウクライナ語を使用し、ウクライナ語ができない公務員は仕事を失うことにつながったとされています。
 差別を受けたロシア語を話す人々は各地でデモなどの抗議活動を行い、オデッサの悲劇(労働組合庁舎で親ロシア派31名虐殺)などが起こります。この一連の動きはクリミア危機・ウクライナ東部紛争(内戦)の直接のきっかけとなっており、プーチン大統領はウクライナの「ナチス化」だと批判していました。

具体的な「ウクライナ民族主義者」の説明は、こちらをクリックしてください。

「ウクライナの歴史的な民族主義」についてはこちらをクリックしてください

5.米国・欧州の関与

ロシアの武力侵攻の背景には、米国(CIA)やウクライナ民族主義者組織の暗躍があったともいわれますが、それについては、オリバー・ストーン監督の『ウクライナ・オン・ファイヤー』(日本語字幕付き)が詳しく報じています。

また、世界を代表する米国際政治学者、ジョン・ミアシャイマーがウクライナ戦争の原因を生み出した真犯人を分析・暴露し、徹底的に批判した動画「ウクライナ戦争の責任はアメリカにある」(日本語字幕付き)をご覧ください。

Ⅳ.ウクライナ問題の解決に向けて・連邦制の導入

さて、これだけ複雑なウクライナ問題を解決し、戦いを中止する方法はあるのでしょうか。
いろいろと考えられると思いますが、ここでは次の3つの案を検討します。

①現在ロシアが実効支配している「クリミア」「ドネツク」「ルガンスク」人民共和国の独立を認めること。
②2015年に、ドイツとフランスの仲介で調印した「ミンスク2」をウクライナ・ロシア両国が順守すること。
③ウクナイナを中立にし「連邦制」を取り入れること。

①の案は、ウクナイナが絶対受け入れることはありえないでしょうし、国際社会も武力による国境線の変更は認めることはないでしょう。
②の案は望ましい姿かもしれませんが、既に戦争状態にあるウクナイナ・ロシア双方が今更「ミンスク2」を受け入れるのは困難でしょう。
残るのは③案です。「ミンスク2」にある「親ロシア派への自治権付与」を一歩進めた形になりますが、ウクライナがEU・NATO加盟を断念して、中立的な連邦国家になることです。
ウクライナのゼレンスキー政権としては、ロシアが願うウクライナ中立化が実現するということで敗北につながりかねないため、特に民族主義者たちの反対もあり、困難が伴うことでしょうが、元々ミンスク合意を受け入れた経緯もあり、とにかく一日も早い停戦を実現するのは、英断が必要でしょう。
ウクライナ暫定政権では、2014年4月14日に連邦制導入の是非を含む住民投票を実施する用意があると発表した経緯もあるのですから。

ロシアにとって、連邦制の導入はウクライナ問題の一番効果的な幕引きになるかもしれません。
(1)世界の経済に大きな打撃になっている「制裁の応酬」の強化やさらなる軍事衝突に発展することは、国際社会からみても、ロシアにとってのダメージが大きいこと、
(2)ウクライナに連邦制が導入されて中立化され、ドネツクなどに親ロシア的な州政府ができれば、ウクライナをヨーロッパとの緩衝地帯にしたいというロシアの希望がかなうこと、などです。
ただし、連邦制導入の実現には、ロシアはクリミア半島の返還を譲歩する必要があるでしょう。

 連邦制は、導入している国によって差はありますが、多くの連邦制国家では州政府に、外交、国防、通貨発行などを除いて、教育など公共サービスや徴税で強い権限が与えられています。
 連邦制には文化的な違いを政治的な対立に発展させにくくするメリットがあります。とにかく連邦制の導入は、ウクライナでの混乱の背景にある、民族間の対立を抑える効果が期待されます。
 数多くの民族、言語、宗教を抱える国では、中央政府が特定のグループに握られた場合、公用語の指定などで少数派が不満を募らせやすくなります。地域ごとに高い独立性を保つことができる連邦制には、このような不満や対立を和らげる効果があり、ロシアや米国の他、ドイツ、ベルギー、スイスなど、ヨーロッパでも広く採用されており、ウクライナでも有効な制度と思われます。
 また、欧米諸国にしても、事態を収拾するためには、ウクライナのロシア系住民の反発を和らげる必要があり、「制裁の応酬」が欧米や世界の経済に大きな打撃になっている現状を打破するにはウクライナの中立化・連邦制の導入を真剣に検討する必要があると思います。
 一方、欧米各国政府は公式の反応を示していませんが、米紙ワシントン・ポストなど欧米メディアでは、連邦制の導入を基本的に支持する論調があるようです。
 連邦制の導入が最善の方法かはわかりませんが、ウクライナ問題を解決するためには、平和を愛するウクライナ市民とロシア市民が連帯し、それぞれの国の指導者に訴えるとともに、世界の市民とも連帯し、国際世論を動かす運動が必要だと思います。最終的に決めるのは、ウクライナです。
 世界の平和を実現するために、今こそ「国際連帯」が求められます。