「キリストの模範とアダムの模範」木村公一牧師

2018年6月17日の説教の要約を掲載します。

キリストの模範とアダムの模範

聖書:ローマの信徒への手紙5章12節&15節

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  1. 今日私たちは、「キリストの模範とアダムの模範」というテーマで、人生と歴史の根本問題を学びたいとおもいます。
  2. はじめに、去る6月12日にシンガポールで行われた、米朝会談におけるドナルド・トランプ大統領の言葉と金正恩 北朝鮮・朝鮮労働党委員長の言葉から、今日の説教主題である≪キリストの模範とアダムの模範≫について考えてみましょう。
  3. まず始めに断っておきますが、わたしはトランプ氏と金正恩氏を政治家としてどう評価するかとか、シンガポール会談を論評する意図を持ち合わせていませんし、ここで話す予定はありません。
  4. さて、はじめに、ドナルド・トランプ大統領の言葉に注目したいと思います。トランプ氏はいろいろな言葉を語っていますが、私たちの学びに関係の深い次の言葉は注目に値すると思います。「戦争をすることは誰でも出来る。けれども、平和を造ることは勇気を必要とする」。
  5. つまり、私たちのテーマの光に照らせば、「戦争はアダムの模範だから誰でも容易にできる。けれども、平和はキリストの模範に従うことだから勇気を必要とする」。と言い直すことができます。
  6. それでは、金正恩 北朝鮮・朝鮮労働党委員長の次の言葉に注目しましよう。「ここまでくるのは容易ではなかった。私たちの足をひっぱる過去があり、誤った偏見と慣行が私たちの目と耳をふさぐこともあったが、そのすべてを乗り越えてここまで来た」(朝日新聞デジタル 6月12日)
  7. この「誤まった偏見と慣行」という言葉を私たちのテーマに置き換えれば、「アダムの罪」の悪習のことです。その「悪習」が「目と耳をふさいできた」というのです。
  8. 世界の指導者たちはまさに、行き詰った国際関係を打開するために、あるいは、甚大な不幸をもたらす戦争を回避するためには、どうしたらよいのか、その務めの立場にある者たちは、≪キリストの模範≫と≪アダムの模範≫の間で、苦悩するのです。

  9. 聖書の創造神話によれば、人祖アダムとエバ(いのち)が創られたとき、神さまはふたつの重大な法則を創られました。
    1. 宇宙を一貫して支配する≪自然法≫。(創世記1:3-5; 2:9)⇒ ≪光≫と≪命の木と善悪の知識の木≫に象徴される自然法
    2. ≪神の似姿にしたがって創られた人間≫(創世記1:27)⇒ 世界倫理・環境倫理が生まれた。
  10. ところが、人祖アダムとエヴァは、彼ら自らではなく、蛇の挑発によって欺かれ、罪を犯し、滅びに隷属することになり、こうして「神の似姿」を汚しただけでなく、≪自然法≫をも犯すことになりました。
  11. 第一の自然法については、さきほど、≪光≫と≪命の木と善悪の知識の木≫に象徴されると申しました。聖書は文学的な表現で自然法を明示しています。
  12. 「自然法」にはいろいろな説明の仕方がありますが、わたしは次のように考えています。この世界は、驚くべき秩序でできています。美しい四季・二季も、水も、植物も、けものも、鳥も、そして地球もすべては、素晴らしい秩序や法則をもっていて、それらが互いに調和しながら、巨大な生命圏を創りだしています。私たちは、そこに意志と知性とによるデザインを見ます。けれどもこの世には、そのようなデザインを「偶然」の所産であるとする世界観もあります。
  13. 「十戒」のなかにも自然法が反映されていまが、十戒を自然法に還元することはできません。それは第5戒から第十戒までの倫理の部分ですが、ヘブライ語聖書の特徴は、十戒(第五から第十)の倫理がモーゼによるイスラエルの解放事件を根拠にしているということです。
  14. まず、光については創世記1:3-5で、「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。/神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、/光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
  15. ≪命の木と善悪の知識の木≫についえは、創世記2:9bにおいて、「園(宇宙)の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。」(創世記2:9b)と語られています。
  16. つまり、宇宙の中央に「いのちと善悪」の法則を一貫させて、宇宙の成り立ちをこの法則が支えている、というのです。
  17. ところが、「神の似姿」と「自然法」への反逆によって、アダム(人類)は堕罪し、この堕罪によって人間は、神の似姿とは反対の、いわば「アダムの範例」を形造ってしまい、それは≪罪の模範≫として、人類の前に立ちはだかることとなった、というのです。
  18. 人間の歴史は、この古い人「アダムの罪の模範」を真似ることによって、以前には、人間がいかにあるべきかを示していた「神の似姿」も、何が罪であるかを示していた自然法も、ほとんど忘却されてしまった事実を物語っているのです。                          

  19. ここでわたしが解説してきた、堕罪についての基本理解は、古代教父たちの神学とその伝統に基づいています。
  20. 神の似姿を残している人間は、教育を通して、神の似姿を模倣することによって、育てられていくのです。ところが、堕罪の結果、≪キリストの模範』に対立する≪アダムの模範≫が、人間の本性に働き掛け、本来の似姿(キリストの模範)と競合しながら悪の模倣へと、人間を駆り立てていくのです。
  21. その実存的心境をパウロはローマの信徒への手紙7章24節で吐露しています。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。これが私たちの人生の現実であり、世界の歴史の本質です。
  22. 人間の本来的な姿は、≪神との完全な類似性に向けられている≫のです。この人間本来の基本的方向づけが失われたことを、聖書は≪罪≫と表現しているのです。だから、道徳的な違反を罪と表現しているのではないのです。
  23. パウロは、ローマの信徒への手紙5章12節で「このようなわけで、一人の人〔アダム〕によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」と述べて、アダムの罪の模範が後代の人類に深刻な影響を及ぼしたことを強調します。
  24. 周知のように、AD4世紀末から5世紀初めに活躍した北アフリカ出身のアウグスティヌスという教会指導者が、この「アダムの罪」を原罪という概念で教理化して、アダムの罪が遺伝的に人類に及んだとしたのです。
  25. この教理は、その後、ローマを中心とする西の教会において発展し、人間の「神の似姿」は破壊・喪失されたという「原罪」の教理化が進んで行ったのです。この「原罪論」は、コンスタンティノープルを中心とした東の教会では受け入れられませんでした。
  26. 話は聖書に戻りますが、聖書は、アダムによる不従順の罪は、あくまでも人間が「アダムの模範」を模倣することによって伝播したのだと言っているのです。つまり、パウロは、アダムの不従順の罪責までもが遺伝的なものとして伝わったとは見ていません。                           

  27. キリストの模範を模倣する私たちにとって、少なくとも三つの重要な基本的理解をもつ必要があるのです。
    1. 第一に、堕罪によってさえも、自由意志を含む人間本性そのものが破壊されたわけではない、ということです。
    2. 第二に、罪は、直接的であれ間接的であれ、人間の自由意志の働きが出発点となる。
    3. 第三に、自由意志を働かせて善きことを選び取る、この選び取る働きを繰り返す演習(トレーニング)によって、善き習慣が人間本性に根付いていく、これは教育の課題であり、罪の働きを克服する。.
  28. 今までの話しをまとめますと、使徒パウロは、アダムの不従順の罪の伝播を認めながらも、私たちが罪を伝播をするのは、遺伝的な仕方ではなく、人間が≪アダムの模範≫を模倣することによるのです。
  29. つまり、罪とは、人間が≪アダムの模範≫を模倣することによって、神の似姿を忘れ、それを覆い隠し、あらたな「悪習」である≪アダムの模範≫を打ち建ててしまうことにあるのです。
  30. したがって、罪の伝播を遺伝的なものと解釈よりも、パウロの教えは、罪に対する人間の責任の大きさが浮き彫りにされるのです。

  31. ここで、フィリピの信徒への手紙の2章6-8節に注目したいのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、/かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、/へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
  32. これは使徒パウロの言葉ですが、パウロにとって、「僕の身分」とはキリストに倣うことでした。また、自分こそ、キリストの模倣者であるという自負を持っていたのです。
  33. そして、キリストの模範を模倣するように、これを読む読者の注意を呼び起こしているのです。
  34. キリストは神の等しくあることをあえて放棄して、へりくだって人間と同じ本性を身に受けました。これはキリストがこの世の諸々の権力の下に身を置いたことを意味します。
  35. しかし、キリストはこの世の諸々の権力と取引しませんでした。それどころか、「十字架の死に至るまで神のご意志に従順」であったという言葉は、そのような意味です。
  36. 十字架を担う道を通って、この世の諸々の支配権力を無力化したのでした。けれども、キリストは普通の人間と何ら変わらぬ本性をもったのです。人間として地上の生涯を生きたキリストは、神への従順を選択したことで、アダムの罪の習慣に囚われることがなかった、と言いたいのです。
  37. これによってキリストは罪悪に勝利しました。キリストを十字架に磔けにしたのが人間の最悪の罪でしたが、人間の邪悪を救いの道に変えたのです。
  38. これを逆に言い直せば、人間本性の究極の姿と可能性とがキリストにおいて示されたのです。 Ω